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素粒子実験と加速器−戦後の日本を中心に−西川哲治〈東京理科大学 162東京都新宿区神楽坂1-3〉1. はじめに今世紀後半の素粒子実験は宇宙線によるものを除くと,相対論的エネルギー領域に挑戦した加速器の進歩によって始まった.これに大きく貢献したのは1945年に発見された位相安定性の原理と,レーダーなどに関連して急速な発展をとげたマイクロ波技術である.そしてシンクロサイクロトロン,シンクロトロン,リニアックなどによってGeV領域の物理学の研究が可能になった. 敗戦によってサイクロトロンを破壊され加速器による実験を禁止された日本が,1951年のLawrenceの来日を契機に再び加速器による本格的な素粒子実験に挑むことができるようになったのは,1956年に始まった東大原子核研究所における電子シンクロトロンの建設からといえよう.実質的には欧米の先進国に10年以上遅れての再出発であり,このために朝永,菊池,熊谷,木村,宮本などの諸先達の並々ならぬ尽力のあったことを忘れるわけにはいかない.とくに東北大の木村,北垣グループ,東大の宮本,大河グループなどは,小型電子シンクロトロンの研究に取り組んでいた.また米国では弱集束の陽子シンクロトロンCosmotron (3GeV, Brookhaven), Bevatron (6GeV, Berkeley)をはじめ,電子リニアック(0.6GeV, Stanford, MARK III)が完成し,陽子・反陽子・中間子をはじめ各種素粒子の創成,反応,内部構造の研究などが行なわれていた.ヨーロッパ連合原子核研究所(CERN)や米国のBrookhaven国立研究所(BNL)では30GeV級の強集束の陽子シンクロトロンの建設が始まっていた.電子シンクロトロンについていえば,とくにCornell大学のR. R. Wilsonらが強集束型で1GeVを越えることに成功し注目されていた.そのほかにもCalifornia工科大学やイタリアやスエーデンでも,1GeV級の電子シンクロトロンが建設または計画中であった. このような状況のなかでの同程度のエネルギー領域の強集束電子シンクロトロン計画であったが,とくに特色としたのは電子リニアック(〜6MeV)を入射器として用いよう,ということであった.我が国では初めての高エネルギー加速器計画であるから,将来を見通して新しい加速器技術(強集束,リニアックなど)の開発に重点をおき,完成した時にこれを素粒子の実験に用いるかどうかはひとまずペンディングにしたままでの出発であった. 2. 核研電子シンクロトロン1956年定員6名の教官によって建設が始まった核研電子シンクロトロン(以下INS-ES)は総額約2億5千万円で1961年に完成した.その間実際に建設に関与した人は約20名であったが,リーダーの熊谷寛夫を除くと初めて本格的な加速器建設に取り組む者たちばかりだった.そしてその多くが将来の高エ研の加速器計画に主導的役割を果たすことになった.筆者もその一人で,東大の大学院生時代からマイクロ波分光学の研究を行っていた縁で,建設当初から入射用リニアックなどを担当することになった.それまで加速器の勉強は殆どしたことがなかったので,書物や外国の文献などを漁り読んだ.建設グループ全体の間では電磁気学の基礎などをはじめ,設計,建設の方針から部品の製作に至るまで,しばしば激しい議論が行われた.とにかく,我が国で最初の10m級の加速器であり,当時の日本では企業も全く経験がない電磁石,高周波,真空などの新技術を積極的に用いようという意気込みで,各部の主要部品をそれぞれ自分たちで開発した仕様によりメーカーに製作依頼し,自分たちの手で一台の加速器に組み上げるという,いわば“チームの手造り”の方法で建設が行われた.それだけに1961年12月中旬,遂に第一段階の目標エネルギー(700MeV)に到達した時のスタッフの喜びは一入であった(図1). このINS-ESはその後新たに加わったスタッフも含めて改良に改良を重ね,1966年には到達エネルギー1.3GeV,1975年にはビーム強度2×1012e/s(繰り返し20Hz)を得た. 1960年度からはこれを素粒子実験の共同利用に用いる予算も認められ,実験用装置の整備も本格的に進められ,測定器グループが形成された.ビームチャネル,液体水素標的,運動量分析用各種電磁石,シンチレーターやスパークチェンバー,そして日本では最初のトランジスター等の半導体を積極的に用いた実験用の各種エレクトロニクス装置などの開発,整備が行われた.1962年には共同利用実験や将来の日本の高エネルギー物理学の研究を考える全国的な組織,高エネルギー同好会も発足した. こうしてINS-ESの建設と共同利用実験は所内外の我が国における素粒子実験チームを育成する原動力となり,数多くの研究者を養成した.行われた実験で最も数の多いのは中間子の光発生に関連したものであることはいうまでもないが,引き出し電子ビームによる実験や制動放射などの電磁相互作用,とくにSi単結晶による制動放射の干渉効果等の特色ある研究がなされた.シンクロトロン完成直後から電子軌道放射に関する研究も推進され,1975年には放射光利用専用のSORリングが完成した.このような加速器研究者と物性や原子・分子研究者の連携が,我が国の放射光研究グループの誕生の起動力となった. これらの詳細な経緯や成果は核研二十年史や年次報告などに記載されている.1) それによると,この30年間に共同利用実験に使われた総時間数は10万時間を越え,年間平均60人以上の研究者が参加,うち85名が学位を取得している.今日でも年間約3,000時間稼働し,我が国の素粒子・原子核分野の研究に限らず,国際的・学際的な研究に大きく貢献している. 図1 1961年12月,核研電子シンクロトロンが700Mevを達成した(核研二十年史より). 3. 核研から高エ研への道INS-ESの建設が軌道に乗り実験準備が進む中で,当時の世界の状況に鑑み,我が国でも本格的な高エネルギー陽子加速器を建設しようという要望が研究者間に高まった.しかし,それがつくばの高エネルギー物理学研究所(以下高エ研)の創設に至るまでの道は筆舌に尽くしがたい苦難に満ちたものであった.茅,湯川,朝永,小谷,伏見などの大先輩の強力な支援にも拘わらず,1)建設する加速器の機種,規模,予算,研究体制,2)新たに創設されるべき研究所(当初は仮称素粒子研究所)の敷地や組織運営と大学等との関係,3)我が国初の巨大基礎科学の研究と他分野の学術研究とのバランス,などを巡って研究者間や研究者と行政側との間に意志疎通の欠如や不信感が解けず,不毛な議論に多くの時間を浪費して,当事者たちはしばしば絶望感に襲われたこともあった.結局は主観的意欲と客観的情勢のずれが主な原因であったかもしれないが,学問を愛する者たちにとっては極めて不幸な事態であった. 歴史的に主な経緯だけ述べると,関連研究者の要望を受けて日本学術会議は1962年,「エネルギー12GeV,強度0.1mAを越える陽子大加速器の建設を含め,広く原子核物理学に必要な研究設備の飛躍的充実をはかる」という原子核研究将来計画の実現を政府に勧告した.2) 文部省ではこの勧告に基づき国立大学研究所協議会,学術奨励審議会研究体制分科会,学術審議会などの勧告に従い,1964年度から巨大加速器の基礎研究費を核研に計上した.以後1969年度まで,基礎・準備研究費として総額約14億円が計上された.その間研究者側では学術会議原子核特別委員会に素研準備調査委員会(SJC)が発足,核研には具体的作業を行う素研準備室が設けられた.しかし,当初朝永委員長のもと熊谷寛夫(加速器),三浦功(測定器)両責任者で発足したSJCは従来の計画を再検討し,加速器を12GeV大強度シンクロトロンから40GeV陽子シンクロトロンに変更した.当時筆者はBNLに滞在しており,国内でどんな議論が行われたかについては詳らかでないが,学術的,技術的には誤った選択ではなかったと思う.ただ,この計画の変更が与えた波紋は大きく,SJCの委員長は早川幸男に,加速器の責任者は当時やはり米国に滞在していた諏訪繁樹に交代した.諏訪は1966年帰国,実質的に高エ研創設の責任者となった.筆者も諏訪に請われて相ついで帰国し,米国で眼のあたりに体験したような素粒子実験が我が国でも本格的に行えるようになるため,微力を尽くし協力した. 一方,このような大型加速器計画に対する国内の他分野の研究者や行政側などからの危惧が一段と高まったのもこの頃からで,いわゆる大学紛争にも巻き込まれて,研究や教育と創設準備の仕事とを両立させるためには殆ど家に帰れないような状態が続いた.しかし,このような苦難はまた改めて高エネルギーグループの結束を固めた.準備研究においても電磁石用の新素材,リニアック用空洞の銅メッキ法,高周波加速用の高性能フェライトなどの新技術をはじめ,加速器や測定器に関する技術開発が着々と進められた.大学を中心として泡箱の写真解析,偏極標的,宇宙線中のクォーク探索の研究なども行われ,加速器完成後の物理研究のため,特に若手研究者の養成が並行してなされたことも銘記すべきであろう. 1969年8月,まさに紆余曲折の後に学術審議会は「素研を設立し,当面の基本的な施策として総額約80億円でエネルギー8GeVの陽子加速器を建設,実績を積んで世界の第一線に立つ将来の発展を期待する」という答申を出した.そうして1970年度予算で素研設置準備費が文部省につき,1971年4月に高エ研が創設された.新研究所の用地について,全国で80カ所近くの候補地が挙げられたが,熊谷を中心とする土地調査グループの調査の結果,既に1967年につくばに南北約2km,東西約1kmの予定敷地が決まっていた.研究所の体制は,全国の大学の教員その他の者が広く共同利用できる新しい形態の国立大学共同利用機関の第一号とし,国際協力はもちろん,大学院教育にも協力することを目的とした.その具体的なあり方は研究所の成長とともに変革していったが,以下では詳細を割愛する.3) 4. 高エ研陽子シンクロトロン筑波山を背景とする松林の中に1971年から槌音高く建設が始まった高エ研陽子シンクロトロン(以下KEK-PS)は,我が国最初の世界に伍した素粒子実験装置である. 諏訪初代所長をはじめ全所員が50歳代前半以下で,初年度の研究者や技術者は30名余,事務職員が約20名であった.大学共同利用機関の第一号であるばかりではなく,筑波研究学園都市のパイオニアでもあり,道路を含む都市造りもスタートしたばかりであった.周辺には住居,商店,学校,病院などさえなく,たまたま研究所の予定敷地内にあった倒産したゴルフ場のクラブハウスを仮のオフィスとし,そこに最初の所員たちが泊まりこんで寝食を共にしながら研究所の創設や加速器の建設などにあたった.長靴とヘルメットと懐中電灯が必携の三種の神器で,多くの野性動物が我々の生活の友であったが,野犬の襲来を防ぐために棒切れも欠かせなかった. 筆者は加速器建設の責任を負うことになったが,規模としては後発であるが故に性能や強度に特に重点を置いた新しいアイデアや技術を積極的に取り入れた.そしてこのエネルギー領域では世界で初めてブースターを使ったカスケード方式を採用した.素研準備室時代から開発されたリニアック,電磁石,高周波加速,計算機制御などの新技術は勿論,主リングには機能分離型の強集束法を用いたりもした.4) このような新方式や新技術の利用には当時の欧米の一流加速器研究者,特に当初から建設に協力してくれた客員研究者などから,KEK-PSの成功を危ぶむ忠告も受けた.確かにいざ実際の建設を行ってみるとさまざさな困難に直面した.例えば,加速器全体のコンプレックスを必要な精度に配置するための土木・建築工事なども当時の常識を越えており,受注メーカーと激しいやりとりをしたりもした.既に述べたように,優れた加速器の建設に欠くことのできないのは,まず多くの分野の担当者たちのチーム造りであり,それと共に装置の各部を製作する企業との連携である.そこでひとつひとつ発注が進み,最終段階に近いところで主リング電磁石の入札が済んだ時は,筆者は建設が始まっていた直径108mのトンネルの中心部に駆けていって流れる涙をこらえられなかった. こうして図2に示すようなKEK-PSの建設は文字通りチームワークの結晶として完成し,1976年3月4日の早朝0時30分頃,加速されたビームのモニターの信号が目標エネルギー8GeVに到達したことを示した.5年計画としては予定通りであったが,前年の暮にその半分を越しながら,いわゆるトランジションエネルギーを越えるのに苦労し容易に目標値に達しなかったので,当夜コントロール室に集まって乾杯した約40人のクルーは大きな歓声をあげた.同じ年の暮には主リング電磁石の新素材の活用などによって当初目標の1.5倍の12GeVに達した.またその後の着実な改良と調整によって各部のビーム強度も当初目標を大きく上回った.なかでも特筆すべきことは故障率が数%以下という昼夜連続の安定な運転,後述のトリスタン建設期間中の入射リニアックのエネルギーの倍増,ブースターの荷電変換によるH-イオン多重入射方式の採用などであろう.これらは筆者に引き継ぎPS加速器責任者となった亀井亨らによるチームの手で行われた.5) KEK-PSは今日ではBNL-AGSとともに世界で活躍しているただ2台の10GeV領域陽子シンクロトロンである.PSを用いた共同利用実験は,筆者が所長に就任した直後の1977年5月から開始され,最初は内部標的から発生した中間子を用いるカウンター実験と,速い取り出しビームによる泡箱実験が行われた.泡箱実験は海外加速器による写真解析に実績をもつ東北大北垣敏男グループが中心となり,p, , p±ビームなどを用い直径1mの泡箱内にタンタル板や原子核ターゲットを装填するなどのユニークな実験を行い,1981年までに500万枚以上の写真を撮影して終了した.カウンター実験は1977年11月に遅いビーム取り出しに成功して以来,1979年からはK中間子や反陽子を用いる実験も可能になった.そしてK中間子の崩壊を中心とした弱い相互作用の研究,バリオニウムなどのクォークのエキゾチックな結合状態のハドロン分光学,ハドロン・原子核相互作用やハイパー核の研究など,特色ある広範で質の高い実験が次々に行われてきた.1990年度までに215件の提案実験があり,共同利用実験審査委員会の厳格な審査で98件が採択され,年平均250名の研究者が共同利用実験に参加した.これらの実験の遂行のためには大型超伝導電磁石を我が国で初めて実用化したビームラインや,稀釈冷却法によって0.1K以下まで下げた偏極重陽子標的などをはじめ,数々の実験技術の開発が行われた.1989年からは旧泡箱実験室の近くに新たに第二の実験室(北カウンターホール)を建設し,二基の大型超伝導スペクトロメーターを中心に,従来の東カウンターホールによるトピカルな課題と相補的にハイパー核の研究などを中心とする長期的で持続性のある研究が進められている.現在約10カ所の実験エリヤが用意され,K中間子の稀崩壊を調べた実験,バリオニウムの存在をはっきり否定した実験,ハイパー核の研究,p-He原子のエキゾチック準安定状態の発見など,国際的にも極めて高い評価を受けている.重陽子,He++,偏極陽子の加速をはじめ,加速器の更なる改良とともに特にK中間子やニュートリノの研究などで大きな成果が期待される.6) ここで特筆すべきことは,KEK-PSがカスケード方式を採用したため,主リング入射用ブースター(500MeV, 5mA, くりかえし20Hz)のビームの約80%がブースター利用施設(1978年度新設)で学際的な研究に優れた貢献をしていることである.パルス中性子源,パルスm粒子ビーム,陽子線医学利用の三分野で世界に先駆けた数々の研究や応用が原子核物理,物質科学,生命科学などの多彩な領域で行われてきた.素粒子関係では偏極中性子を用いた強い相互作用におけるパリティ非保存の検証などがある.
5. トリスタン計画KEK-PS計画が果たしたもう一つの大きな成果は,素粒子・原子核の実験分野における若手人材の養成である.高エネルギー加速器の研究や技術開発はもとより,共同利用実験が軌道に乗った1980年代の始めには,PS実験による学位取得者の数が毎年10名近くに達した.単に加速器建設や実験に限らず,これに関連した放射線管理,データ処理,低温や真空技術,精密機械工作から土木建設や行政面での対応などに至るまで,ノー・ハウの著しい進歩が得られた. このような我が国の素粒子実験分野の急速な成長を踏まえ,高エ研創設の初心を忘れず世界の第一線に立つような将来計画として1973年筆者が提案したのが,トリスタン計画である.これに先立ち,約200haある高エ研の予定敷地に,さらに通常の大型陽子シンクロトロンを建設,PSに接続して100GeV近くのエネルギーを得ようという計画があった.しかし,このような相対論的エネルギー領域の固定標的の実験では研究に有効な重心系エネルギーが加速エネルギーの1/2乗でしか増えないうえ,1972年には米国フェルミ加速器研究所(FNAL)の直径2kmの陽子シンクロトロンが完成し200GeVに達していた.そこで筆者は日本の将来計画は衝突ビーム型の加速器を造るべきだと考えた.従来の衝突ビーム型加速器は同じ頃完成したCERNのISRのように,別の加速器で既に加速したビームをストーレジ・リング(以下貯蔵リング)に貯め込み,逆方向に回して何カ所かで衝突させていた.しかし1台の加速器で加速と貯蔵を共に行うことも可能と考え,貯蔵型加速器と呼んだ.特に我が国のような土地が狭く,地震が多く,土木建設の工費が高い国では,断面が比較的広く,しっかりしたトンネルをひとつ造り, そこに貯蔵型加速器を何台か設置して,pp, , ep, e+e-などの多様な衝突ビーム実験ができるようにしようというのが,トリスタン(TRISTAN: Transposable Ring Intersecting STorage Accelerators in Nippon)計画の基本概念であった.今日ではその幾つかが現に稼働または計画中の世界中の大型加速器で採用されているが,当時としては全く野心的で,筆者が1973年に開催された国際集会や日米セミナーなどで紹介したときは,欧米の物理学者や加速器研究者から「日本ではこんな計画がまともに(serious)に考えられているのか」と質問されたり批判されたりした.7) Gell-MannはJames JoyceのFinnegans Wakeの第2部の終りのトリスタンを賛えるソネットからクォークを命名したと伝えられるが,日本でもクォークを探求する素粒子の本格的な実験が行えるようにしたいという悲願がこめられた計画でもあった. トリスタン計画は高エ研創設時に比べると,関連研究者はもとより他分野や国際的な研究者集団の支持も得て比較的スムーズに検討が進められた.行政や企業などとの間の多年にわたる人脈からも好意的な支援を受けた.そして高エ研を中心とする第一段階の検討では17GeVの電子と70GeV(超伝導電磁石を用いれば180GeV)の陽子のep衝突実験を検討した.1992年に完成したドイツのHERA計画の1/3程度の規模のものであったが,1970年代の計画としてはユニークなアイデアで,加速器の詳しい技術的検討も行われた.8) しかし電子・陽子の深部非弾性散乱で陽子の内部構造,特にクォーク等の構成粒子に関する研究を行ったりする場合は運動量移行が充分ではないと判断された上,超伝導リングを含む予算,技術的諸問題,タイムスケジュールなどを考慮して,1980年にむしろ高エ研の予定敷地一杯に全周約3kmの電子・陽電子衝突型加速器を建設することを第一段階とするということで研究者間の合意を得た.9) トリスタンe+e-衝突型加速器は既に1982年度完成予定で建設中の放射光実験施設(PF)入射用の2.5GeV(全長400m)電子リニアックを,陽電子用にも増強して初段の入射器とすることにした.リニアックで加速されたe±ビームはまず入射蓄積リング(AR)で8GeVまで加速され,それぞれ2個の電子,陽電子のバンチとなり,同じ主リングを逆向きに回転させる(図3).主リングはいわばシンクロトロンの偏向・集束電磁石を配置した円弧部分と定在波型リニアックなどを配置した直線部とを交互につないだ,従来の高エネルギー加速器とは異なったタイプのリングである.これは放射光によるエネルギー損失を考えると,直径がエネルギーの2乗に比例して大きくなる円形加速器が必要であるという経験則に拘泥せず,全周長を一定にして高周波加速を増強し,できるだけ高い到達エネルギーを得られるように設計したからである.このため後述のCERNのLEPが全周長約27kmもあるのに重心系では100GeV程度しか得られていないのに対し,トリスタンは3kmで60GeVを越えている. このためにトリスタン加速器建設に最も重要な役割を果たしたのは高周波加速空洞の開発で,二重周期構造(APS)型定在波リニアックと超伝導加速空洞を世界で初めて実用化したことである.前者の原理は,筆者が1960年代にBNL滞在中にS.Giordanoらと初めて考案したものであった.10)後者は小島融三らのグループが高エ研創設当初から綿密に開発してきたもので,高周波(508MHz)電力損失が常温の場合の10万分の1で同じ加速電界強度が得られ,5セル型の空洞32台が全長24m×2基設置されて定常的に稼働している.11) 8GeVで入射された電子・陽電子のバンチはこれらの加速空洞で最高32GeVまで加速され,貯蔵モードに入る.そして4カ所の直線部の中心点で正面衝突するのである. この衝突点を囲んで幅約55m, 奥行き約45m, 高さ約20mの実験室があり,それぞれ富士,日光,筑波,大穂と名づけられた.実験室は地下約15m,加速リングは約11mに設置され,全コンプレックスが1mm程度の精度で設置できるよう,地震対策も含む大規模で高度な構造体が建設された. 上記の高周波加速空洞に限らず,加速器や検出器などの各部で多岐にわたる新技術の開発が行われたことはいうまでもない.それらの代表的なものだけ挙げても,加速器に関しては全アルミ合金超高真空システム,高周波加速用高出力クライストロン,ミニb衝突システム用超伝導四極電磁石,加速ビーム設計・制御用計算機システム,不安定性を含むビーム力学や放射スピン偏極効果の研究などがある.粒子検出器に関連しても大型薄肉超伝導ソレノイド,各種のドリフトチェンバーやカロリメーター,検出された膨大な数の信号(数万チャネル)を計測・処理する最先端の高速エレクトロニクス,コンピューターグラフィックスや大型CPU, 研究所と大学間のネットワークなどを駆使したデータ解析など,枚挙にいとまがない.12) 4実験室のうち3カ所ではAMY, TOPAZ, VENUSと呼ばれる,それぞれ100名近いメンバーからなる共同実験グループが10m立方程度の大型測定器を据え付け,実験・解析を行ってきた.いずれも大学と高エ研の共同研究グループであるが,AMYは特に国際協力による研究グループで,Rochester大学(当時)のS. Olsenらの主導のもと,米・日・韓・中・フィリッピン合同チームがユニークな実験を進めている.TOPAZでは高エ研物理研究部に名大,東大,農工大,東工大,奈良女子大,大阪市大などの研究者が,VENUSでも高エ研グループと筑波大,東北大,都立大,広大,阪大,京大,神戸大などの研究者が,それぞれの測定器の特色を生かした実験を行ってきた.この他,超伝導加速空洞がおかれた日光の直線部の中央の実験室では,磁気モノポールを探索するSHIPの実験も米日共同で行われた. 図4にトリスタン計画の年表的な図解を示す.高エ研創立10年目の1981年,まず入射蓄積リングの予算が認められ,11月19日起工式が行われた.南部陽一郎,W.K.H. Panofskyらも鍬入れに参加した.翌年度,陽電子リニアックと主リングの建設も認められトリスタン計画推進部が発足,菊池健が初代の総主幹になった.物理の面では現高エ研所長菅原寛孝が,加速器の面では現副所長の木村嘉孝が早くから中心になり,研究所が一体となって総力をあげて推進にあたった.特に1981年には尾崎敏が米国より帰国し,1983年からは第2代推進部総主幹になって実験課題の採択や検出器の設計・建設などに尽力した.また1982年からはトリスタン物理審査委員会も発足し,日本の研究者のほか欧米からも第一線の研究者が参加し,計画の内容に貴重な勧告をおこなっている. 起工式から丁度5年目の1986年11月19日の早朝,トリスタンは重心系50GeVの世界最高エネルギーでe+e-衝突現象(Bhabha散乱)の観測に成功した.この日の午後研究本館の講堂を埋め尽くした所内外の研究者や職員の祝杯をあげた歓声は,Wagnerのトリスタンとイゾルデのバックミュージックを圧っして余りあるものであった.我が国では初めて文字通り世界最高エネルギーの加速器が完成した.13) その後も着実に性能を挙げ,最高エネルギー64GeV,最高ルミノシティ(衝突確率)5×1031cm-2s-1を得ている.1989年CERNのLEPやSLAC (Stanford Linear Accelerator Center)のSLCが完成するまで3年近くにわたって最高エネルギーを保有し,人類未踏のエネルギー領域での研究が行われた.完成後の加速器の運転統計と実験に使われた積分ルミノシティは図5の通りである.建設に使われた総経費は1,000億円弱,運転に使われた経費の年間平均は約100億円で,1995年度をもって実験目標を完了する. 図6に示すように,トリスタンのエネルギー領域は,e+e-衝突によるハドロン生成断面積が,g(光子)の媒介する電磁相互作用によるクォーク対生成を主とする従来の同種の加速器と,弱い相互作用のZ0ボゾンによる生成が支配的であるLEPやSLCとの狭間の極小値をとる領域である.それだけに,実験は困難であったが多くの新しい物理的知見を得られた.それらのうちの主なものをあげると,1)理論・実験の両面からの大方の予想に反して,トップクォーク(tクォーク)はこのエネルギー領域に存在しなかった.しかしgとZ0による反応が干渉しあっているユニークなエネルギー領域でのボトムクォーク(bクォーク)生成時の角度分布の測定などから,bクォークのパートナーであるtクォークの存在の必然性を確立した.2) Z0の質量がCERNのpp衝突実験から得られた92.5GeVよりかなり低いことを明確に示した.3)干渉効果のさまざまな測定によってgとZ0を統一的に取り扱う電弱相互作用の検証に大きく貢献した.4)初期の探索で,tクォークだけでなく第4世代のbクォークやレプトンをはじめ超対称粒子なども,60GeV領域までには存在しないことを明らかにした.5)更に重要なことは,QCDの体系的な研究で,特に強い相互作用を媒介するグルーオンの本性を世界に先駆けて解明した.例えば,グルーオンは光子と異なり他のグルーオンとも結合する.6)QCDの最も基本的な物理量である結合定数aSはエネルギーが高くなるほど弱くなることをあらゆる方法で検証した.これは力の大統一の可能性への実験的根拠ともいえよう.7) e+e-→e+e-+ハドロンで測定された光子−光子の衝突断面積は単純なクォークモデルの約2倍も大きく,光子の中のハドロン成分同士の硬散乱を含めたQCD理論なしでは説明できない新事実を明らかにした,などがある.特にカラー電荷によるQCDの特殊性の研究や2光子過程の研究などは,ミニbシステムにより衝突点におけるビームを幅〜500mm, 高さ〜15mmに絞ってルミノシティを倍増した1990年以降によるものが多く,今後も測定された多数の現象の解析と理論的分析により新たな成果が期待される. トリスタン計画を通して学術雑誌や国際会議のproceedingsなどに掲載された論文数は,建設が始まった1981年以降のものだけで加速器関係約200篇,実験装置関係約100篇,物理成果に関するもの約150篇(理論計算を含む)にのぼっている.14) トリスタンによる物理の研究で学位を取った者の数は約100名(うち外国機関から30名)に達している. 図3 トリスタン施設. 図4 トリスタン計画の年表. 図5 トリスタン加速器の完成後の運転統計および微分ルミノシティ. 図6 e+e-衝突によるハドロン生成断面積の重心系エネルギー依存. 6. 国際協力最初に述べたように,戦後我が国は加速器による素粒子実験の分野で欧米露に著しい遅れをとった.若い研究者の中には海外に渡り外国の研究所などで素粒子実験に参加して中心的役割を果たしたり,藤井忠男らのようにその後帰国して国内の素粒子実験の推進に貢献した者も少なくない.我が国の研究者が組織的に国際協力を開始したのは素研準備室ができた頃からで,BNLやCERNから泡箱実験フィルムを入手してその解析を行った.特に東北大学には北垣らを中心にした泡箱写真解析施設が1970年にでき,その後のKEK-PSによる泡箱実験でも大いに活躍した. 高エ研が創設されPSが完成して,日本もようやく素粒子実験の分野で国際社会の一員となった.トリスタンの建設が開始された頃になると,アジアにおける高エネルギー物理学のセンターとして,KEKの名は広く世界に知られるようになった(図7).それとともに,この分野の海外からの研究者の来日や国際会議等の日本での開催の頻度が急速に増えた. 1973年の日米加速器科学セミナーは,いわばその嚆矢で,5人の西欧からの参加者もあった.1978年には,従来米国,西欧,共産圏の3地域持ち回りで開催されてきた高エネルギー物理学国際会議が例外的に東京で開かれることになった.15) 1985年にはレプトンと光子の相互作用に関する国際会議が京都で,16)1989年には高エネルギー加速器国際会議がつくば市で開催された.17) 高エネルギー分野のIUPAP主催3大国際会議が我が国で開かれたわけである. 高エ研の設立と呼応して各大学における素粒子実験グループも着実に育成され,中には当面日本では出来ない実験的研究を国外の加速器で行うグループも生まれた.東大の小柴昌俊や折戸周治らのグループは,1972年ドイツの電子シンクロトロン研究所(DESY)で建設中のe+e-衝突型加速器DORISを用いる実験計画DASPを提案した.1974年にはこの計画の国内根拠地として理学部付置高エネルギー物理学実験施設が設立された.この実験は新粒子Pcの発見,t粒子の確認,チャーム粒子の崩壊の研究などで成果を挙げ,次の加速器PETRAを用いるJADE実験へと発展した.これに伴い,施設も1977年には素粒子物理学国際協力施設に転換した.JADEは1979年に実験を開始し,グルーオンの発見,新粒子探索などの目ざましい成果を挙げた.18) 東大グループは更に1981年からCERNで建設が決定したLEPにOPAL実験計画を提案した.LEPは全周約27kmのe+e-衝突型加速器で,1989年重心系エネルギー100GeVのLEP-Iが完成,近い将来には超伝導加速空洞を用いたLEP-IIで160GeV達成を目指している.OPALはその四つの実験計画の一つで,東大の他CERNをはじめ約25の研究グループによる国際共同実験である.東大グループは測定器建設の段階から中心的役割を果たし,その根拠地は1984年に素粒子物理国際センターに,そして1994年からは全国共同利用の素粒子物理国際研究センターへと発展した.LEP完成後の実験では,今日の素粒子の標準理論の精密な検証,素粒子の世代が3であること,tクォークの質量の推定などで数々の成果を挙げつつある.19) CERNを利用する日本の研究者数は近年急速に増え,OPALの他にも山崎敏光らの反陽子ビームを用いる実験をはじめ,大学・高エ研の研究者らのニュートリノ振動,核子のスピンの起源,メソン分光学などの実験を含めると,1993年度現在約90人(25機関)が研究に参加している.20) 一方DESYでは,PETRAに継ぐ計画として全周約6kmのep衝突型加速器HERAの建設が1984年から始まり,1991年に完成,翌年から実験が開始された.この実験計画ZEUSには東大核研の山田作衛らを中心とする日本の大学グループが初期から参加し,加速器の特殊性を生かして核子の内部構造の解明に取り組んでいる.今後更に偏極電子ビームを用いたりして新知見が得られるものと期待される.21) 素粒子実験の国際協力の中でも代表的なものは,何といっても,日米科学協力事業の中で15年以上にわたって続けられてきた高エネルギー物理学分野での協力である.これは,KEK-PSの完成や1978年の東京における高エネルギー物理学国際会議を契機に両国の研究者間で提案され,両国政府の支援も得て1979年11月11日SLACで調印された,文部省と米国エネルギー省の実施取り決めに基づき行われてきたものである.主として米国のBNL, FNAL, SLACにおけるエネルギー・フロンティアの大型加速器を用いた共同実験であるが,米国研究者のAMY実験への参加をはじめトリスタン計画の推進にも大きく貢献した.実施にあたっては,計画の遂行,経費負担,知的所有権など行政当局とも係わる幾多の問題があったが,両国研究者たちの積極的な意欲によって研究協力が順調に進められた.隔年に日本と米国で開催された合同委員会の日本側議長を初めの10年間務めた筆者は,特に菊池健,尾崎敏らの実施調整のための尽力に感謝したい.この協力事業で現在までに行われた主な共同実験は進行中のものを含め表1の通りである. これらの実験に加えて,超伝導電磁石,超伝導高周波空洞,線形衝突加速器などの加速器の将来技術やSSC計画などを念頭においた衝突実験用各種新型測定器の共同開発なども行われた.22) これらを通して発表された論文は600篇,日本側学位取得者(AMYを除く)は60人を越え,国際的にも高い評価を受けている協力事業として現在も続いている.中でも特筆すべきことは,この事業の最初の段階から重点的に推進されてきた,近藤都登らの筑波大グループを中心とする,FNALのTevatron(重心系エネルギー約2TeVの衝突型加速器)を用いた総重量5,000トン以上の大型検出器CDFによるtクォークの発見である(図8).この発見は5カ国約440人の研究者の共同研究として1995年3月公式発表されたが,CDF計画そのものは1978年頃から日米間の研究者の間で検討され,この協力事業の柱として出発,その後イタリアはじめ各国の研究者たちが参加したもので,日本のグループの寄与は極めて大きい.そもそもtクォークの存在は,1973年小林誠と益川敏英によって理論的に予言されたことがよく知られているが,CDFグループは1994年5月その存在の検証を公表,この度の発表では質量を176±13GeVと報告し,予想外に重いことを確認した.23) 以上おもに欧米諸国との協力について述べたが,中国,ロシア,韓国などの近隣諸国とはもちろん,高エ研を中心とした国際協力は広範で多彩な発展をしつつある.素粒子実験の分野は物理学の中でも最も国際交流が盛んな分野であるといっても過言ではあるまい.このような学問的必然性をふまえ,大型加速器の国際的な共同利用や将来計画の検討を行う加速器将来計画国際委員会(ICFA)が1976年に発足した.ICFAの起源は1960年代後半に遡る.初期には米,欧,ソの間で討議が行われていたが,1975年3月米国New Orleansで開催された「高エネルギー物理学の展望」という主題の国際セミナーに,山口嘉夫と筆者が初めて日本からのオブザーバーとして招かれ参加した.この会合で国際協力による将来の超大型加速器の建設が討議され,ICFAの設立を提案することになったのである.そして翌年,IUPAPの下部機関としてICFAが正式に発足したが,このためやその後の活躍のために山口が国際的に果たした役割は非常に大きい.将来の加速器や測定器の技術的検討を含めた国際的なワークショップを開催,ワーキングパネルを形成したりするとともに,1984年には世界各地の高エネルギー研究所の所長や指導的研究者から行政担当者まで一堂に会した,「高エネルギー物理学の将来の展望」に関するICFAセミナーが高エ研で開かれた.ICFAはまた,1980年に大型加速器の国際的共同利用に関する有名なICFAガイドラインをまとめたりもした.24) このようなICFAの並々ならぬ努力などにもかかわらず,全世界が協力して一台の超大型加速器を建設しようという国際的な合意は容易に得られず,例えば10TeV級の陽子・陽子衝突型加速器を建設しようという計画は,米国がTexas州のDallasにSSCを,CERNがLEPトンネルを利用してLHCを,それぞれ独自に建設する方向で進められた.しかし1993年,既に建設が始まっていたSSC計画は米国議会の決議で中止されることになり,大きな衝撃を受けた.25) 一方1994年12月にCERN理事会はLHC計画を承認,来世紀初頭には重心系で10TeVを越すpp衝突実験が行えることを目標に,近く建設に着手する運びとなった.標準理論の決め手となるHiggs粒子の探索などがいよいよ期待されることになり,日本の研究者グループもSSC計画のための測定器や超伝導電磁石の開発の経験などを生かして,新たにLHC計画への参加に意欲を示している.
表1 米国内で実施された日米協力実験. 図7 最近の高エ研全景. 図8 t クォークを発見した CDF 検出器. 7. KEKBとJLC我が国の素粒子実験研究グループは,トリスタン建設中の1984年頃から,既にトリスタンに続く将来計画について検討を始めた.高エネルギー委員会のもとに置かれた「次期計画検討小委員会」(委員長 長島順清)がこの作業の中心になった.2年間にわたる精力的な検討の末,次のような提言をまとめた.26) I.エネルギーフロンティア計画
II.当面の推進課題
III.非加速器素粒子実験計画を推進する. 今日の我が国の素粒子実験計画はほぼこの提言に沿い,菅原現高エ研所長らの主導で進められている.上述のようにSSC計画は中止されLHC計画への参加が表明されたり,原子核や他分野との学際的研究を新しい研究体制のもとで行おうという大型ハドロン計画が推進されたり,高エ研PSで発生させたニュートリノビームを神岡の巨大水Cherenkovチェレンコフ装置に打ち込みニュートリノ振動の検証を行う提案がなされたりしているが,ここでは特に上記次期計画提言のII-aとI-1について述べておく. まずトリスタンを改造して行える重要な研究の一つにCP不変性の破れの問題がある.1964年,中性K中間子の崩壊でCP不変性の破れが発見されたが,27)この問題は現宇宙における物質と反物質のアンバランスにも関連した,素粒子・宇宙物理学の最重要課題ともいえる.1973年,3世代6クォークの存在を予言した小林・益川理論は,本来,このCP不変性の破れに理論的根拠を与えたものであった.28) 1980年,三田らはこの理論に基づきCP不変性の破れの効果が最も大きく現れるのは,bクォークと軽いクォークの結合状態であるB中間子(質量5.28GeV)であることを指摘した.29) そこで実験室系でBとの崩壊のプロセスを詳しく比較できるように電子と陽電子を異なるエネルギーで衝突させて実験しようというのが,Bファクトリー計画である.この目的のため,現在のトリスタンによるデータ収集が終わった時点で,1リングの対称エネルギーのe+e-衝突型加速器を2リング(電子8GeV,陽電子3.5GeV)の非対称エネルギー衝突型加速器に転換させることになった. これはKEKBとも称せられ,1994年度から建設が始まった.30) とくにB中間子がある特定のモードに崩壊する率は非常に小さく10-4程度以下であるので,Bとの差を明らかにするためには大量のB・対を集めて調べなければならない.従って,ビームの衝突確率をトリスタンで達成されたものの200倍以上に高める必要がある.そこで加速器としては驚異的な強度(アンペア程度)のビームを貯蔵しなければならず,約5,000個のバンチを60cm間隔で貯えることを考えている.各バンチを互いに1回ずつ衝突させるためには,±11mradの交差角を持たせる設計になっている.従来有限の交差角でビームを衝突させるとビーム・ビーム効果による不安定性を強く助長させる恐れが指摘されていた.しかし最近目覚しい進展を見せている計算機シミュレーションの研究により,適切なパラメーターの選択で,このような恐れも回避し,衝突点付近での複雑なビーム偏向を避け,測定器に対するバックグラウンドも減らせる見通しが立ってきた.また,多数のバンチを貯蔵すると,各バンチの運動が軌道中におかれる高周波空洞等を通して共鳴的に結合する結合バンチ不安定性の問題が避けられない.KEKBではこのため新しい型の加速空洞(ARES型空洞)の開発などを積極的に進めている.現在,世界的にはBファクトリー計画は高エ研とSLACの2カ所で同時進行しているが,KEKBはこれらの意欲的な加速器開発で一歩先んじているといえよう. KEKBの測定器は現在の筑波実験室に1台設置される.衝突点に近接しておかれる粒子崩壊点測定器,大型超伝導ソレノイドと組み合わせた粒子飛跡検出器,粒子識別のためのCherenkovカウンターや飛行時間差測定器,CsIカロリメーター,m粒子やKL粒子を観測する大面積飛跡検出チェンバー等で構成される.実験を遂行するためにBELLEと呼ばれる国際共同研究チームが結成され,39機関(国内23,国外6カ国16機関)から176名に及ぶ研究者が参加している.このKEKBは1999年早々に完成する予定である. 最後にエネルギーフロンティアへの挑戦としてJLC (Japan Linear Collider)計画について述べたい.線形衝突加速器のアイディアは初めU. Amaldiらによって提案され,31) 1979年FNALで開かれたICFAのワークショップなどで国際的に検討されるようになった.32) 放射光による膨大なエネルギー損失を考えると,LEP-II(重心系エネルギー約150GeV)以上のe+e-衝突リングは殆ど現実性がない.そこで数百GeV以上の領域のレプトンや光子の衝突実験には線形衝突加速器が有力になるが,必要な衝突確率を得るためには加速されるビーム強度を格段に大きくするとともに,衝突点でのビームをできるだけ細く絞る必要がある.従って,要求される性能は従来の加速器技術をはるかに越えるもので,既に十数年に及ぶ開発研究が国際的な協力の枠組のもとで進められているが,道なお遠しの感もある.特に我が国では木村現高エ研副所長らの主導のもと,世界に先駆けた研究が行われてきた.2, 3の例を挙げれば,生出勝宣による衝突点でのビーム集束の限界を与えた理論的考察,33)新竹積らによるナノメーター程度のビームサイズの新しい測定方法,34) 小泉晋らによる拡散接合による加速管の製作などがある.高エネルギー委員会でも1993年,開発研究の成果や素粒子物理学の新たな知見に基づき, 1. リニアコライダーの第一期建設計画の目標を重心系300〜500GeVに置き,第一期計画完了後,エネルギーを1〜1.5TeVに向けて増強する. 2. 目標の早期実現を図るため,第一次期開発計画(1987〜1991年)に引き続き,1993〜1995年を第二次開発期間と定める.そこでは主要装置のプロトタイプの開発,製作とパラメーターの最適化を行い,JLC実験施設の概念設計の完成を目指す. 3. 第二次開発計画では,試験装置ATF(Accelerator Test Facility)の完成を最重点課題とする.加えてATFと相補的な外国の開発計画に協力すると共に,本開発計画への外国グループの積極的な参加を求め,国際的な開発勢力の結集を通して問題の解決に当たる,と提言している.35) このような提言をふまえ,JLC計画を中心として,我が国の主導性によるエネルギーフロンティアを拓く国際的センターが実現されることに筆者の期待をかけて本稿の結びとする. 8. おわりに素粒子実験,とくに大型加速器を用いた実験は,文字通り多くの研究者のチームワークによる,いわゆる巨大科学の典型の一つである.従って,この50年間に殆ど零の状態から世界の第一線に立つに至った我が国の素粒子実験を,一人の筆者で回顧・紹介することは至難のわざで,公正を欠き,誤りを含み,また限られた紙数を大幅に越えても紹介しきれなかった多くの業績があったことをお詫びする. それとともに,筆者に数々の情報や支援を与えて下さった多数の方々に心から感謝したい.特に,全章にわたって編集委員会の担当者として筆者に協力してくださった高エ研の阿部和雄氏の尽力なしには本稿はまとまらなかった.加えて各章順にいえば,山田作衛(核研),諏訪繁樹,亀井亨(元高エ研),菊池健(学振),中井浩二(東理大),折戸周治(東大),近藤都登(筑波大),山口嘉夫(東海大),木村嘉孝(高エ研)などの諸氏から,研究の歴史,成果,文献などについて貴重な情報を教えていただいた.その上,特に若手の方々からは最近の研究等について新たな知見を与えられ,筆者には大変よい勉強の機会ともなった.これらの方方に厚くお礼を申し上げるとともに,最後に只一つ心残りとなったことを述べておく.それは,素粒子実験が他の学問分野,特に原子核実験のような隣接分野とは深い関わりをもってきたにも拘わらず,そのような学際的な分野での研究については殆ど触れることができなかったことである.物理学は一体であり,他の広汎な科学や技術の分野における基礎ともなっていると信じる者の一人として,物理学会の今回の企画が我が国の学術全体の未来の発展のために礎石となることを願ってやまない. 参考文献
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