座談会「数物学会の分離と二つの科学」
出席者*:彌永昌吉 伏見康治 今井 功
岡部靖憲〈東大工〉 小嶋 泉〈京大数理研〉桑原邦郎〈宇宙科学研〉
(司会)江沢 洋〈学習院大理〉[1995年10月9日,機械振興会館にて]
江沢:今年は物理学会が日本数学物理学会の解散のあと創立されて50周年.この機会に解散と創立の経緯を振り返り,それを通して物理と数学の関係を改めて考えてみたいと思います.歴史を遡って両者が親密であった頃からはじめましょう.若いお三人には,まず聞き役,物理と数学が再び近づいている今日の状況を論ずるところでは主役をお願いします.
親密な関係
彌永:僕は,物理でいえば小谷正雄君や犬井鉄郎君が同期.犬井君とは中学から一緒でした.山内恭彦さんは3年上です.数学では福原満州雄君が同期,1級上に南雲道夫さんがおられました.
彌永 昌吉 氏
今井:私は1933年に東大に入学したのですが,ちょうど先生はドイツに.
彌永:31年から34年までヨーロッパにいたんです.
今井:岩波の数学講座が私の入学の前の年に出まして,月報で先生の「巴理通信」を非常に刺激を受けながら読ませていただきました.
彌永:東大のteaching staffにして頂いたのは35年からでした.もう少し後だったかもしれませんが,理学部1号館で小谷君とは隣の部屋だった.1週間に1回,小谷君の部屋に僕も呼んでもらって,お昼を一緒にしたことがあるんです.山内さんも時々見えてらっしゃいました.
今井:あの頃は物理と数学とは非常に親密な関係にあったと思うんです.学生にしても教師にしても.
江沢:学生は何人位でした?
今井:物理が28人で,数学が15人.僕
たちからしても,数学の学生の方は大体知っていましたね.ニュートン祭も一緒にやりましたし,小石川植物園での理学部会でも一緒.前期の講義も共通でした.いや,完全に全部というわけではなくて,田中務先生の物理実験学だけが違っていました.
彌永:数学科でも力学は必修だったんですが,物理実験や球面天文学は選択でした.
今井:力学の講義は,寺沢寛一先生でした.
彌永:僕のときは田丸先生.演習が友近晋さんでした.
今井:学年が中期・後期と進みますと,もちろん必修の科目は違ってきますけれど,物理の側から言いますと,数学に関する選択科目とか,あるいは参考科目は講義が全く数学科と同じで,数学科の学生と一緒に聞いたのです.物理と数学が完全に分かれたのは,おそらく後期になってからだと思います.その頃になりますと数学の学生の知識は全く物理の学生と違ってきまして….
伏見:彌永先生,僕,名前が思い出せないんですがね,数学科の人で僕と同級で,後で北大に行った人,学生の時に博士号とったという人.
今井 功 氏
今井:中野秀五郎さんじゃないですか?
伏見:勢いのいい人でね,京浜線で一緒になるんですよ.そうすると「近頃は何を読んでいますか?」と,先生みたいに.「von Neumannの黄表紙」というと「あれは易しく書いてあって,ちょうどいいですね」なんて言うんです.(笑)
今井:上には上があるもんですね.伏見先生にそういうこと,言うなんて.
伏見:東大の数学はすごい秀才だと思って,僕は驚嘆したんです.中野さんは,学生の間に博士号とったんですね.
彌永:卒業して2年目位で,大学院に籍を置いていたときじゃないかと思います.
伏見:物理の学生が平気で数学の講義を聞きに行ったんですよ.高木先生の講義はぜひ聞かなくちゃいかんと云われたもんだから,二度ばかり行ったんですけど,よく解らなかったから逃げだしちゃった.ところが,竹内端三先生の関数論は,まるでお芝居を見ているような,実に見事な講義でね.あらかじめ言葉の隅々まで考えて来られたんでしょうね.だから,関数論は特に勉強したわけじゃないんだけど,後で使えましたね.
伏見 康治 氏
今井:実は私は竹内先生の講義があんまりよく解るので,1回おきに聞きに行ったんです.(笑)といいますのは,先生の『関数論』(上)(下)(裳華房)を特別に印刷したような原稿をもってきて話をされたようなんです.本を見るとちゃんと書いてある.それから高木先生の講義も非常によく解りました.岩波の数学講座の『解析概論』が出るのに合わせて,原稿をもってきて話をされるんです.ですから後で本が出たときに読めばよく解るということです.
伏見:ノートをとる必要がなかった.ノートといえばね,僕はノートをとらないっていうので有名なんですよ.いつも先生の方を見てるから,先生の方がよわってる.
今井:とにかくあの頃は数学と物理は非常に密接につきあっていたと思うんです.一緒に小使室でおしゃべりをするという時間がずいぶんあったんです.
江沢:化学との距離の方が大きかったんですか?
今井:ええ,もうはるかに.建物が違うから.小使室がいいセンターだった気がします.そういう状態ですから卒業して学会に入るときは当然のこととして数学物理学会.学会の委員として運営に携わる人はやはり東大の方が多かったような気がします.東大だけでなく,例えば当時の工業大学,それから文理大.でも,大部分は東大関係でしたね.
伏見:少なくとも,東大を最近卒業した人.
数物学会の常会
今井:数物学会の重要な行事は常会.毎月ありまして,最初は数学に関する論文,その後で物理関係の論文というふうにして1回の会で片づいた訳です.そこで発表した論文がプロシーディングスに載るというシステムでした.
伏見:だから論文には必ず読んだ日付が書いてある.受付というのはないんです.
江沢:数学の方々も物理の講演を聞き,その逆もということだったんでしょうか.
今井:いいえ.例えば物理の連中は数学の講演が終わったころ出てくるということをしていたし,数学の先生は数学が終わると帰っていくというふうにしていました.はじめから聞いているという人は少なかったが,僕はたいてい出ていました.もちろんよくは解らなかった.いや,とても解るもんじゃないけれど出た方がいいと先生方から伺ったような気がします.講演時間がそんなに長くなくて15分位のものだった.ですから,割に気軽に聞けるんですよ.
江沢:参加者は3〜40人ですか?
今井:せいぜいそんなもんでしょうね.場所はバラックの建物で数学別館.いま出版会のある所です.前期の数学の講義,物理の講義もそうですが,数学別館であった.そこの座席数が一番多かったんですね.
江沢:講演は一度にたくさんあったのですか?
今井:数は五つ六つから十位あったように思います.それより多い時もたまにはありました.しかし,割に気軽に聞ける感じでしたね.
江沢:ディスカッションなんかはどうでした.
今井:ありましたですよ.
江沢:物理の人が気楽に数学の質問をするとか.
今井:さあ,それはどうですかね.いい加減な質問もあったと思いますね.よくわからないんですが.
伏見:同級に吉田耕作君がいましてね.彼がHilbert空間の話をしたことを覚えていますよ.関数空間の話.普通の有限次元のベクトル空間と形式的には全く同じように取り扱えますという話を聞かされて,なんだつまらないと思った.違う次元になったら何かおもしろいことが出てくるのかと思ったのに.
江沢 洋 氏
今井:それは学生時代ですか?
伏見:本郷にいたときですから,あるいは助手の頃かもしれません.
今井:私が常会に出席したのは会員になった物理の後期のときで,会員になったから聞きにゆくというわけです.冷やかしに様子を見に行った.卒業して大阪に行き2年半たって東京に舞い戻ってからは,一種のオブリゲーションのような感じで,出ていました.発表する人は,割に常連が多かったですね.
江沢:やはり東大の先生?
今井:いえ,必ずしもそうでもなく,物理に関しては外の先生が多かったと思います.印象に残っているのは,伏見先生と同期の方で,光学会社に行った…
伏見:丸山修治?
今井:そうです.アイコナールとか何とか,毎回発表された.東京工業大学の竹内時男先生も毎回発表してました.話はよく解るんですが,理研あたりから非常に反論がありました.当時,理研は非常に重要なウェイトをもっていましたから.
伏見:つるし上げにかけた?
今井:なかなかおもしろかったんですけどね.
伏見:その後,竹内さん,亡くなってしまわれたんですね.あんまりいじめたもんだから.ものすごく頭のいい人でしたよ.例えばね,膨張宇宙なんてことがいわれだしたら,逆に縮まっていく宇宙もある,振動する宇宙もある,と.
桑原 邦郎 氏
小嶋:それは御自分で解かれたのですか? Friedman自身,最初から三つのパターンがあるということを言っていたと思います.
伏見:単にそのことを復唱しただけかもしれませんね.とにかく竹内さんという人は,新しい文献を非常に早く頭の中に入れてしまう人で,そのころ新聞社の科学記者は,何か新しいことが出ると,すぐ竹内さんのところに飛んで行ってましたよ.ほとんど毎週くらい竹内さんの名前が新聞に出ているわけです.
まあいろんな評判がありました.教室の一番前の席に座ってましてね.講義の間は,自分で本を読んだり書き物をしているんです.そして講義が終わると,とたんに質問するんです.一種の天才なんじゃないでしょうか.
今井:人工放射能をさかんにやっておられた.
伏見:理論だけやっていればいいのに実験をやったのですよ.食塩にg線を当てると,それが放射能を帯びると言いだしたんです.
今井:数学別館はもう満員の盛況.入りきらないので窓の外から聞いているような状態でした.玉木英彦さんなど理研の連中が盛んにつるし上げをやるので,それがおもしろくて聞いていた感じでした.それから,先程の中野秀五郎さんもよく数物で発表されてたんじゃないでしょうか.
伏見:そうですね.僕の感じでは,東大物理教室の人の話は少なくて,2〜3年前に卒業して他の大学に勤めているという方々のものが多かったと思います.母校に帰るチャンスを作るためだったのでしょうね.
桑原:話す人は,そうだったということですね.聞く方は?
伏見:聞く方は,東大の人です.
今井:数物学会の時代に私の印象では東京が中心的にいろんな仕事をやっていたように思うんですけれど,その際,京都とか大阪,仙台あたりの会員の方はどういう活動をしていたんでしょうか?大阪の場合は支部会というのがあった.
伏見:ありましたね.
今井:支部委員というのがあったわけですか?
伏見:一人世話係がいたことは確かですよ.僕もやらされたことがあるから.
彌永:年会が大阪であったこと,ありますよね.
伏見:そりゃあ,もちろんありましたね.大阪支部の会というのも数ヵ月に一回くらいの割でありました.湯川秀樹さんが中間子論を話したのも,僕の頭の中ではその部会じゃなかったかと思うんです.しかし,はっきりしない.単に物理教室の中の談話会であったかもしれない.
江沢:論文が数物学会のプロシーディングスに載っていますが.
伏見:湯川さんはその後で東京に来て,常会かなんかで発表したんです.
彌永:数物のときは常会が毎月あったんですよね.
伏見:常会は相当頻繁に東大の中でやってましたね.僕は阪大に行ってて,ときどき上京するとたいてい物理教室に顔を出すんですが,数物学会の常会をやっているという場合によく出くわしました.
今井:1ヵ月に1回土曜日の午後かなんかに決まっていたんじゃなかったでしょうか.
小嶋 泉 氏
数学の側から見ると
彌永:僕は一番この中では年寄りで,大学の学生だったのは1926年から29年です.ちょうど1923年の地震の年に一高に入って3年いて,あと3年東大,その後,大学院に2年おりました.学会の話に戻しますと一番はじめは明治10年(1877年)にできた東京数学会社.おそらく数学だけでした.ソサィエティを会社と訳したんでしょう.
江沢:そのとき英語の名前もあったんでしょうか?
彌永:なかったと思いますよ.100人くらいの会員のうち3分の2くらいは和算の人でした.その年に菊池大麓さんがイギリスから帰ってきました.東大ができた年ですね.それから数年後の1884年,菊池さんが数学だけではいけない,物理も一緒にしましょうといわれ,東京数学物理学会という名前にしたんです.
江沢:それまでにも物理の人は少数ですが入っていました.
彌永:東大は,はじめは学科の区別がなかったんです.しばらくしてから数学,物理,化学に分かれたんです.それで,数学だけじゃいけないから東京数学物理学会とした.それから東京だけでなく日本全体で,ということで日本数学物理学会となったのです.
江沢:それが1918年.
彌永:ええ.それでもって1945年まできたわけです.1920年代の終りから30年代の話ですが,その頃は大学は3年制で,前期,中期,後期となっていました.もっとも,ずっと昔,菊池さんが帰ってこられた頃は4年だったらしいんです.はじめのうちは,数学や論理学をやって,4年目になってから日本語をやったんですって.(笑)つまり,日本語で数学を表現することは,まだよくできなかったのです.それでしばらくたって4年がなくなってですね,大学に入ってから日本語をやることはないということになったらしいんです.
江沢:数学も英語か何かでしていたんでしょうね.
彌永:菊池先生には僕は習ったことはないけれど,はじめ日本語で話し出しても,数学の講義は,じきに英語になったといわれています.
江沢:英語を使う方が表現しやすかったのですね.
彌永:それで学科は分かれましたけれど,僕たちの前期の頃は,数学と物理がだいたい同じことをやったので,微分積分学と代数学,幾何学とが必修.近頃の線形代数なんていうものは,その頃はなかった.それから力学も数学科の必修だったんです.しかし物理実験は選択,それから球面天文学も選択でした.それで,選択と必修の差が物理と数学で違ったかもしれませんが,みんな同じものをやってました.僕は球面天文はやりませんし(笑),物理実験もやらなかった.力学の演習なんかは小谷君の隣に座って教わったりしていました.
2年から少し変わって,3年になると数学演習,つまりゼミですね.ゼミが主になりますから,物理の学生とはかなり違ってきた.
江沢:彌永先生の学生時代は1926年から29年とおっしゃいました.ちょうど量子力学ができたときなんですけど,そういう動きをお感じになりましたか?
彌永:東京の学生だったときには,あまり感じなかったですね.僕は31年から34年までヨーロッパにいましたが,Hilbert空間に関するvon NeumannのMath. Ann. 102 (1929)に出た論文が数学者仲間で話題になっていました.
江沢:Allgemeine Eigenwerttheorie Hermitischer Funktionaloperatorenでしょうか.
彌永:そうです.数学と物理はヨーロッパの方が近かったでしょうね.僕はパリとハンブルグに行ったんですが,昼御飯を向こうの先生と一緒に食べたとき,物理の先生も一緒で,そういう話を聞きました.数学の学生仲間ではあまり聞かなかった.フランスの友達が専門は整数論でしたけど,そういう方にも興味があってvon Neumannに感心していました.
江沢:日本にお帰りになってからセミナーにvon Neumannをお使いになったと聞きましたけど.
彌永:そうそう,その頃Hilbert空間には高木貞治先生も興味をもたれて,談話会で話されたことがありました.僕が35年に助教授になったとき,高木先生の演習のお手伝いをしたんです.そのときは,はじめ半年は演習だけやればいい,それから何でも講義をせよということでした.そのときvon Neumann の Math. Ann. 102の論文を材料にして講義したと思うんです.
von Neumannの本も32年に出ましたね.『量子力学の数学的基礎』.それを見てうまくやってるなという気はしたけれど,僕の講義は全く数学的なものでした.物理のことはあまり知らなかった時代でしたから.それからWeylの『群論と量子力学』が出たのも32年.山内さんが訳されましたね.その頃,お昼を小谷君の部屋で一緒にしましたね.山内さんも今井さんも1週間に1回くらい出ておられて.
今井:いや,それはもっと後です.山内先生の翻訳が出たのは私が大学に入った頃なんです.
伏見:そう,僕がまだ東京にいたときだ.
今井:ですから彌永先生とご一緒に昼飯を食べたというのは,もっと後になる.大阪から帰ってからだと思います.多分,私は堅くなって,あまり自分から話をするということはなかったんじゃないかと思います.
岡部 靖憲 氏
物理数学の伝統
伏見:僕は,東大の物理教室のね,物理数学の伝統は一体どうなっているのかな,と感ずるんですけどね.僕が入った頃に『佐野静雄 応用数学』という,こんな厚いのが岩波から出た.28年に出たんです.
江沢:Bessel関数の零点のことで見たことがあります.
伏見:気象台にいた小平吉男さんという方が編集した.いかに苦労したか,と書いてあるのね.例えば積分記号や偏微分の記号ね,活字を新しく作らせた.それまで日本で印刷したことがないんだから,作らせると変な格好で気にいらない.何度も鋳造させたという苦心談です.それが出たのが私の学生時代なんですから,日本の学問がどの程度のものであったか,という見当をつけて欲しいね.(笑)
彌永:吉江先生が「これは立派な本です」と言っておられました.いや,僕は表紙しか見ませんでしたけど.(笑)
江沢:伏見先生の大阪も,数学と物理の両方とも強かったんじゃないですか?
伏見:助手クラス同志の雑談で僕は大いに裨益しました.吉田耕作と,それから角谷静夫(東北).この二人がものすごく秀才で,しかも非常に仲がよくて,しょっちゅう議論していた.そばで聞いているだけで役にたった.(笑)
江沢:伏見先生の不規則に揺らぐ力を受ける振子の理論と伊藤清先生の確率微分方程式,物理から見れば同じような問題ですね.伏見先生の論文は35年,まだ東京におられたときのお仕事.その前に伏見−高橋浩一郎の論文があるのですか.
彌永:伊藤君は卒業してすぐ統計局にいって,しばらくして名大ができたとき大学に移ったんです.そこで吉田君とか中山正君と一緒になった.統計局でも数学はやっていたんですね.42年の『阪大全国数学紙上談話会』に確率微分方程式の基礎みたいなこと,書いてあるんです.
岡部:学士院のプロシーディングスにも出ています.論文は丸山儀四郎先生と書かれた.丸山先生は,日本にいたときは伊藤先生の論文を読んでもよく解らなかったけれど,戦争中,中国に行かれて緊張状態で読んでよく解ったと,伊藤先生の還暦の記念祝賀会で話をなさいました.
江沢:伏見−高橋の論文は変わった雑誌に出ているんですね.気象集誌.
伏見:考えてみると,19世紀後半のイギリスの物理学者は,数理物理学者が多いですね.W. ThomsonとかLord RayleighとかJ. C. Maxwellとか,そういう人たちの数学的な面だけを,留学した人たちが覚えてきちゃったんじゃないかっていう感じがするんだけれど.
彌永:菊池大麓さんなどはイギリスで勉強したから,そのせいでもあるんでしょうけど,明治の頃の日本の数学はイギリス流なんですよ.I. Todhunter とか.
桑原:数学とはいっても,応用数学?
彌永:ええ,問題をたくさんやって.しかし,寺沢先生の本はいい本らしいですね.
今井:『自然科学者のための数学概論』(初版31年)ですね.
江沢:今井先生が学生のときの物理数学の講義は,あのような?
今井:いや,物理数学は酒井佐明先生でしたから.しかし,大体あれに則ったような話でした.
彌永:工学部では寺沢先生が教えてらしたんじゃないですか?
今井:そうですね.あの本は工学部の講義がもとになってできたのだと思います.よくまとまっていますね.
江沢:本としては,岩波講座・物理学および化学の『数学概論』が大きくなったのでしょう.
戦争中のこと
彌永:伏見さんの『確率論及統計論』は?
伏見:戦争中ですね.山内さんの友達が河出書房の主人公で,同じ一高だったのかな?戦争中に用紙割当が欲しいもんだから,小説ばかり出していた本屋なんですが,理科系のものをといって,急に『応用数学講座』を出したんです.
彌永:あれで山内さんは『代数学及幾何学』を出されました.
今井:あの本は立派でしたね.印刷も紙も非常にいい.
彌永:伏見さんのは,ずいぶん厚かったですね.
伏見:僕のあの厚い本がね.前後1万部刷ったんですよ.
江沢:戦争中にですか? すごい.
伏見:どうしてそんなに驚くの?(笑)戦後に物理学者20人が訪中使節団を作って中国に行ったでしょ.朝永先生が団長,有山兼孝さんが副団長.東北に行ったら,迎えに来てくれた人に「先生の本で勉強しました」といわれました.(笑)
彌永:山内さんの『代数学及幾何学』は,今でいえば線形代数なんですね.ベクトル空間の公理から書いてあるんだけれど,公理の中の1・X=Xが書いてないんです.(笑)山内さんにそう言ったら「きまってんじゃないか.」って.(笑)
江沢:犬井鉄郎先生の本は,製作の途中で戦災にあって,焼け残ったゲラ刷りから作り直したとかって聞きました.
今井:実は,戦争で本屋が焼けてホッとした思い出があるんです.私は応用数学講座に『複素関数論』を書くことになっていた.少し書きかけていたところが,空襲で出なくなったというんで,これで書かなくてよくなったと思ってホッとした.犬井先生の本はそれにひっかかったんですね.
伏見:気の毒だったですね.本当にいい本なんだけど.
彌永:それから,数学物理学会のことですが,この『数物会誌』17巻10, 11, 12合併号(1943年12月発行)を見ますと理事長が清水武雄さんで,理事の中に数学は辻正次先生一人だけですね.あとは物理の落合麒一郎さん,浅尾荘一郎さん,佐藤孝二さん,本多侃士さん,山内恭彦さん,小平吉男さん,そして天文の萩原雄祐さん.会誌編集委員として29人おられる中にも数学は安倍亮君と岩沢健吉君と末綱恕一さんの三人だけで,あとは全部,物理なんですね.毎月1回の常会をやるんですが,数学も多少はやってると思うけど,物理の方が優勢だったと思います.
江沢:『数物会誌』17巻6号に1942年の統計があります.常会での講演は,数学が22,物理が84です.年会では,それぞれ97と252.おおまかに言えば1対3です.
今井:多分その頃は,発表しても印刷にはしないということになっていたと思います.それでも,物理の場合は,早くプライオリティを主張したくて発表をするということで80数編という数になったんだと思います
伏見:いや,違うんだよ.数学者の方が早く出したがっていたんですよ.数学者はね,学士院のプロシーディングスに出すと本当に一ヵ月くらいで出ちゃうんですよ.だから皆さん「これは」と思うものは,そっちへもっていっちゃったんです.
岡部:34年から44年の頃には,阪大に『全国紙上数学談話会』という雑誌がありまして,そこにずいぶん出されたと聞いています.ただし,和文です.
彌永:その統計表を見ると,数学,物理,天文,地球物理と四つに分かれていて,物理が一番多いですね.役員の数を見ても数学は少なかったんです.これは1943年のですが….
江沢:『数物会誌』は1943年12月に発行され,次が1944,45年合併の終刊号になります.これに第8回臨時総会の記録(1945年12月10日)があって,数と物の人数の比は1:3としてあります.「基本財産並ニ通常財産ハ清算ノ後前記両学会ニ解散当日ニ於ケル数学出身者数ト物理学出身者数トノ比(1:3)ニ分割寄付ス」というところです.出身の学科で分けたのですね.
二学会に分離
伏見:その数学と物理に分かれたときの現場に,僕は全然立ち会ってないんですよ.なんといっても僕は阪大ですから.相当頻繁に上京はしましたけれども.あの改革の中心は清水武雄先生だったんでしょう.先生が二つに分けようということを発案したのは,一体いつなんだろう? 理事長になったのはいつですか?
彌永:たしかに分割計画の中心は清水先生で,戦後すぐに言い出されたと思います.理事長になられたのは45年の4月です.
伏見:ああそうですか.分割は戦争中に考えておられたことなんだな,きっと.
江沢:御自身の書かれたものがあって「月1回の例会に発表者が1人だけで聴講者は零では,学会の意味をなさないと考え」としてあります.発表者1人のところに括弧して清水辰次郎氏(数学)と書いてあるんですが,いつの会でしょう? 会誌を分ける話が戦争中にあったのですね.紙が配給制で,配給元に「数学と物理を一緒に作るのはもったいない,物理の人には物理の部分だけ,数学の人には数学の部分だけ渡し,本会記事だけ全員に配れば紙が節約される」と言われた.それで分冊を考えたようですが,印刷所が戦災にあって実現しなかった.
今井:それは正当な意見ですが,裏話的にはですね,数物のプロシーディングスがきても数学のことは何にも解らん,数学にこれだけページを割いても少しも読まないからもったいないじゃないか.(笑)だから分けた方がいいという話はありました.大体において数学の論文は長かったです.
江沢:長文の論文の取り扱いなどで,数学と物理に意見の相違がでていた,と蓮沼先生が書いておられます.
彌永:中野君なんか長いんですよ.(笑)あの頃はレフェリーも何もなくて,常会で紹介すれば長くてもそのまま出せた.だから,数学は役員もせず人数も少ない,貢献もしないで,やりたいことだけたくさん持ってきて,お金を使うという思いがあったかもしれない.
江沢:45年11月の数物理事会はこう書いています:「二学科の合同性ママは我が国における学術研究者の数の少なかりし時代において止むを得ず採用せられたるものにして,…研究者の数また著しく増加したる今日に於いては其の要なきのみならず,却って両学会の自由なる活動を制約する場合なしとせず.」しかし,数物学会の発足の趣旨には物理学と数学の関係は密接で共に研究して助け合うべきだと書いてあるんです.
彌永:その解散直前の理事は『数物会誌』には記録されていないんです.そのとき,理事は数学では僕だけ.理事長が物理の清水武雄先生でした.清水さんから「分けた方がいいと思うが,どうか?」と聞かれました.
江沢:清水先生は,数物の全員の意見を往復はがきで聞くことから始めたのです.
彌永:その時のことを『数学』の第1巻第1号に「設立事情」として書いたんですが,50年も前のことで忘れたので,持ってきました.読んでみましょう.
「去る10月初め頃でしたか,清水理事長から個人的に二つに分けることについて,意見を求められましたとき,私は自分としては反対であることを申し上げました.清水先生のご意見では数学と物理が一緒に学会を作っているのは,外国でも例が少なく,数物ができた明治初年の頃ならともかく,今は学問も分化して,両方共に興味を持ち得る会員は少なく,例会等でも方面の違う話をされたり,雑誌でも全く興味のない論文が交っていたりするのは,おもしろくないということでした.けれども,私は学問の進歩は必ずしも分化の方向にのみ向かうとは限らず,だんだん見地を高めて広い分野が見渡せるような場合もあること故,今まではともかく将来ますます仲良くやってゆけるようになれば良い,と思うというように申し上げました.」(笑)「しかし,これは結局,学問の将来に関する見解の相違に帰することで,現実の問題として清水先生の論もうなずけて,この際,数学の関係者が‘自分たちの会’として力をいれるような会ができるならば,それも結構なことと存じ,皆様ご賛成ならば,私は強いて反対はいたしませず…….」それで僕もいろんな人に手紙を出して意見を求め,発起人会を作りました.
江沢:先生のお手紙に対して数学者の反応はどうだったのでしょう? 分割反対もあったのでしょうか?
彌永:どうしてもいやだという人はなかったと思います.「そうしなくてもいいんじゃないか」というくらいの人はあったと思います.
今井:分かれるときに私の感じたことはですね.僕自身は数学の人と,小使室を通じて非常に接触があったものですから,分かれるのはしのびないという感じだったんです.ところが一方,数物記事を見ると,数学の長い論文ばっかり出て,自分たちには読めない,これなら分かれた方がいいという意見を,まわりから聞いたのは事実で,大勢はそうなったわけです.それで,みんながそういうなら分かれてやるよりしようがない,ついてはできるだけ物理学会としては,いいものを作ろうということで,清水先生や小谷先生の後について,委員会なんかに参加したんです.本心としては,分かれないでいければいいなという気持ちでした.
彌永:それで数物では12月に評議委員会とか総会をやって数学と物理の間で財産を1:3に分けようということになったんです.会員の数も大体そのくらいの比だということで.それから,事務をやっていた望月君は,物理にもらいますということでした.
平和な文化国家
彌永:数学会設立のために発起人会が作られ,750人ほどの参加会員があって会ができたんです.
戦争直後で,これから一生懸命やろうという気分が盛んなときでした.『数学』の「創刊にあたって」は,署名はないけれど,僕が書いたんです.一番終わりに「平和な文化国家としてよみがえる日本において,数学は最も自由な気持で存分に研究できる学問の一つであると思われる.新しき日本文化は今,胎動しつつある.そこで日本の数学が今までのよき伝統をも生かし,健全に発展することを祈り,そのために日本数学会および本誌『数学』が有用ならんことを願い,会員および読者諸氏の協力と支持とを切に望むのである.」とあります.
この頃「平和な文化国家」という言葉が流行ったんですね.(笑)僕は終戦の詔勅はよくわからなかったのですが,そのあとに総理大臣の鈴木貫太郎が解説した言葉の中でも平和国家,文化国家と言ったような気がしましたけど,後で調べるとそうではなかったんです.
江沢:科学技術の振興につとめる外ない,と.
彌永:「もう戦争はやめたから,しっかりやれ.」ということを言ってました.あの頃は僕も若かったし,やろうやろうと思っていました.生活はずいぶん苦しかったけど,みんな元気はありましたよ.
今井:生活が苦しかったと彌永先生がおっしゃいましたけど,本当にそうでしてね.いま考えると終戦の年,それから一年たたないうちに,よくまあ物理学会が発足できたと思うんですよ.
伏見:私も本当にそう思うな.
今井:本当に底なしの苦しさだったと思うんですが,不思議に具体的な記憶がないんです.それから発起人を集めて,数学会と物理学会に分かれて大いにやろうという意気込みが相当あったように思いますね.まあよくできたもんだと思うんですが,戦争中はやっぱりある種の圧迫感があった.それが全くなくできるというんで元気が出たということがあったんじゃないか.
彌永:「これから本当に平和国家」って思いましたね.
伏見:一種の解放感がありましたね.
彌永:45年の12月に数物の総会をやって,両学会の発起人会を作って,物理学会は翌年の4月,数学会は6月にできました.そして,数学の方が社団法人になったのは1952年になってからだったんです.和文誌『数学』は47年から岩波から出ましたが,欧文誌はすぐには出せなくて48年から出しています.
それから数物のときには常会で話すと英文でプロシーディングスに出してよかったんですが,数学会になってからは,欧文の方はレフェリーつきでちゃんとやろうときめました.毎月はできないので季刊にしました.学会で集まるときにはたくさん話が出るのですが,それを全部欧文で出すわけではない.なるべくたくさん『数学』の寄書にして発表してほしいということで,はじめは寄書が多かったのですが,だんだん変わってきました.
伏見:『数学』という雑誌は,はじめからずっと岩波ですか?
彌永:ええ,今もそうです.
伏見:岩波書店としては採算あってるんですか?
彌永:損はしてないけど得もしてないと思います.(笑)『数学辞典』も数学会で編集して岩波から出ていますが,あれは得していると思うんですよ.作る方は大変だけど.
岡部:『数学辞典』は10年前に第3版までいってますから.
小嶋:第1版はいつ出たのですか?
彌永:54年です.始めようという話が岩波から出たのが47年で,それから7年かかった.10年に1回は少しずつ直していこうということで,今その時期が来ているんです.それと,これもずいぶん大変だったんだけど,第2版から英語版も出しています.
物理学会の定款
伏見:清水先生はどっちかというと物理教室の中心にくるのをいやがっておられて,できるだけ一人で自分の城を守っているという感じが強かったですね.物理教室全体の動きに対して批判的でした.
江沢:清水先生は物理学会の定款を作るとき,強い意見を持っていらした.
伏見:ボスが発生することを非常に嫌われたんですね.
今井:「学会委員は,あくまでボランティアーであるべきだ.そして,自分でやろうという意思表示があるべきだ.だから立候補制にしよう.」ということだった.それに対してやはり相当,反対意見があった.「いい加減な者が出てくるおそれがある」というような.小谷先生もやはりその意見だったように思います.それから定款における学会の目的についてですが「あくまで研究論文の発表を第一目標にしよう.そしてこれによって世の中に益する所あらんとす,ということは考えない.会員一同が共通に享受する利益のために,ということにしよう.」と.ところが,このために後で問題になりましたのは,例えば賞の推薦ということには一切関わるべきでないという意見がずいぶんでてきたのです.それに対してまた反論が出て「会員の誰か賞を受けるということは,ひいては学会員一同の利益につながる.だから,推薦を拒否すべきでない.」と.「推薦委員は,学会の委員ではなくて,別の委員会を設ける必要がある.」ということで今の推薦委員会ができたんです.
伏見:あれはずいぶん後になってからでしょ?
今井:ええ,だから,やはり清水先生のお考えが後をひいているということだと思うんです.先生がもし最初の主張を貫かれたとすると,今の物理学会がしている助成金の申請などに対して反対されたんじゃないかという気がします.
彌永:なるほどね.
伏見:それは物理教室がボスに支配されているというお考えが非常に強かったんだと思います.
江沢:数学会の方は性格が物理学会とは違ったものになったんでしょうか?
彌永:今の定款は一番初めから作ったものだったか,社団法人にする時に正式に作り直したのか分かりませんが,数学会の方は「数学の発展を図り」と中に書いてあるんです.物理学会の定款には「物理学の発展」とは書いてないでしょう.
江沢:ないんです.(笑)小谷先生などは書くべきだ,とおっしゃって.
彌永:それから,数物の分割の前から,数学の方にはテンソル学会や実関数論の会のようなものが,いくつかあったんです.それらをそのまま数学会の分科会にした.幾何ではテンソル学会があっても,代数にはなかったから代数分科会を作ろうというようにして,分科会を構成分子にしました.そのほか地域的な組織も作りました.
岡部:テンソル学会は数学物理学会の時代にできていたんですか?
彌永:ええ,昔からあったんです.河口商次さんが作った.それから福原君とか南雲さんが作った関数方程式,これも前からありました.こういうのは物理学会にはないんですよね.
江沢:中間子討論会が戦争中からありました.
伏見:そうね.物性論グループも戦争中にできたしね.
清水武雄先生のこと
伏見:清水さんに対する思い出だけちょっと言っておきますと,まず東大に入ったときに「先生の評価をするのには,その先生の名前が教科書に載っているかどうかを見ることにしよう」と.それでH. LambのHydrodynamicsを見ると,寺沢寛一先生が載ってる,といったような調子でいくつかの名前を発見して喜んでいたんです.その中でE. Rutherford と J. Chadwick, C.D. Ellisという三人のRadiations from Radioactive Substances (1930)を見てましたら,木下季吉先生と清水先生が出てくる.
木下先生の方は,写真乾板の上に放射性物質のかけらを乗せて,後で現像すると,そこから出たa線が写真乾板に印をつけるという,そういう研究なんです.たいした道具なしにできることですから,日本にお帰りになってからも続けていたら,すごいことになったんじゃないかと思うんだけど.後に宇宙線の研究には写真のエマルジョンが広汎に使われるようになったのですから.
清水先生の方は,同じRutherfordの本のWilsonの霧函の説明によると,1回1回パーンとやっちゃうのではたいへんだ.ことにPMS. Blackettのように何万枚も写真をとろうというんだったら,もっと機械化しなくてはだめだ.それで,ぐるぐる回すとピストンが上がったり下がったりする,そういう工夫をなさっていた.
江沢:W.H. Braggの講演(1923/24)の翻訳ですけど『物とは何か』.イギリスのRoyal Institutionのクリスマス講演です.その中に写真があって清水-Wilsonの霧函と書いてあります.
伏見:一応は評価されていたんですね.清水先生の,僕の接触した印象を申しあげますと,電磁気の講義.私の聞いた物理の講義の中では,一番論理的にまとまったもので,後で読み返してもいいという,名講義だったと思います.本にはならなかったのかな.
江沢:岩波全書に入れる予定で催促を続けたけれど,完全主義者でいらして,と読んだ記憶があります.
伏見:惜しいですね.清水先生は定年前に大学を辞めたのですが,発明家になったんですよ.昼間映写幕.普通はこっちから光を当てて反射するのを見るのですが,先生のは後ろから光を当てる.幕に小さな孔をいっぱいあけまして,そこに小さな凸レンズを埋め込んでおく.そこが光源になったようになるんです.それを先生は自分で作って売ってるんですよ.ほんとに売るつもりだったら,ちゃんと工場生産をなさらなきゃ,とてもだめだと思うんですけど.
今井:先生は,在職中からやっておられたんですか? あれをおやりになったのは,私が東京に帰ってからなんです.それから,戦争中だと思うんですが,インキとか鉛筆が非常に不足して,質が悪くなったんです.それで清水先生はいい鉛筆を作るという発明をしておられたようです.発明家なんです.
伏見:一番記憶に鮮やかなのは,清水・友近論争.今井さんは知らない?
今井:後から聞きました.清水先生のおっしゃるのが正しいと思ったんですけど.
伏見:要するに,翼があってね,それに非圧縮性完全流体が当たったとき揚力はどうなるかという話です.循環を決めなくてはいけない.それさえ決まれば,流速を掛ければ揚力は出てくる.ところがイタリーのCisottiという男がね,厚さ無限小の平板に流れがきたとき,普通の計算はおかしいっていうんです.というのは両端のところで流速が無限大になる.特異点ですね.それで普通のリフトの公式は,そういう特異点がある場合にはあてはまらないというわけ.
友近先生は,板の周りに端の点のちょっと手前まで積分して,裏側の方もそういうふうにすると,端に近づけたとき両方が無限大になって,プラス・マイナス打ち消すか,打ち消さないか,きわどいところなんですね.もし同じ速さで近づけてゆくと,Cisottiの言うとおりに,平面に垂直な成分しか出てこない.計算しなくても解っているんです.平らなところだけで成分をとっていて,曲率の激しいところは除外するんですからね.それで流れに垂直に働くべき力が,板に垂直に働く.そういう計算を友近先生がなさったんです.
それで清水先生が猛然と食ってかかった.電気とのアナロジーで考えたらおかしくって話にならないと云うわけです.上下にプラス・マイナスの極板をおいてね,真ん中に金属の板をおいたとすれば,どっちかの極板に引きつけられるのが当たり前だ,横に走るなんてこと考えられない.
今井:数物の学会でそういう話があったんですか?
伏見:そうです.
今井:数学物理学会の貴重な,歴史的な事実ですね.それは聞きたかった.私,大阪に行ってからは,先生からそれについて話を伺ったことは全然なかったですから,多分,先生は清水先生の方が正しいと思われたんじゃないでしょうか.
伏見:そうでしょうね.もう一つ申し上げておきたいのは,東大の物理教室は,僕らの頃,彌永先生のご承知の頃は,秀才は全部外に出しちゃうんですよ.山内,小谷,犬井,みんな力学教室へ行っちゃったでしょ.それから新しい大学があると,そこへ出しちゃう.友近さんも阪大に行った.僕は友近さんにつくべく後から行ったわけです.
その当時,落合麒一郎先生,坂井卓三先生,それから酒井佐明先生がいた.その酒井先生にいたっては,どうして助教授になれたのか,という人でね.さすがに寺沢先生が四国のどっかへ飛ばしちゃったんですけどね.
今井:私は物理数学の膨大なる講義を聞かされたわけなんですけど,その演習を担当されたのが伏見先生.これが実にすっきりした問題を出されるんです.非常に対照の妙を感じましたね.
伏見:だって酒井先生のところに「これから演習にいきますが」と伺いにいくと「適当にやっておいてくれ.」といわれるから.
数学と物理学
岡部:先程,彌永先生も数学と物理の学会を分離するのに反対されたって聞きましたが,あれは戦争直後ですよね.僕は大学の紛争を経験してマスターを出たとき,今までの数学から抜け出そうという気持になったことがあります.だけど戦争中に数学と物理の人が一ヵ所に集まって,雑談にしろ話し合っていたということがすごく大切だったと思うんです.
例えば伊藤先生のお仕事は,統計局におられたときにできたもので,名古屋に行かれてから,いわゆる今の「伊藤の公式」を作られたときも,吉田先生に話したけどよく解って下さらなかったという話も聞きました.それでアメリカに行かれて,J.L. Doobもよく解らなくて,マルチンゲールの立場からやってみろと言われた,と聞きました.そして向こうで院生であったH.P. McKeanを日本に連れてこられ,京都に若い人をたくさん集めて,1年間寝泊まりしながら議論したっていうことです.
数学だけにしても,つまり物理との関係ということでなくても,同じところで議論できることは学問が発展するのに大切だと思います.日本の場合,豊かになってしまって,各大学にそれぞれのしっかりした方がおられ,学生も育てられるし,全国的に研究者もいるという状態になってくると,僕は学問が進歩するかどうか心配です.そしてバブルがはじけた今,日本の数学,物理もそうだと思いますが,数学離れ,物理離れですごく苦しい状態の中で,本当にまた精神的な戦争が終わって,これからしっかりやっていかなきゃいけない時だと思っているんです.それでも,学会を作るというようなことは僕にはとてもできませんが.
東大の場合ですけど,数学が数理科学研究科として駒場の方へ,昨年の10月から行ってしまいましたよね.残念でならないんです.数学があそこに行ったのはどうもよく解らない.
江沢:数理科学になったことで,いろいろ異なる分野の人が集まった?
岡部:場所というものは,そこから発展するかもしれないという意味で大切だと思います.数学教室が数理科学研究科として名前を広げたのなら,場所のみならず研究体制からみても閉じた世界にいてはいけないと思うんです.駒場に行ってしまうと,本郷にいる数理科学の研究者から見たときの不便さはもちろんですが,物理・工学・経済医学等,数学以外の本郷の数理科学の研究者と日常的に議論する機会が減り,その方面の本などあまり目に入らなくなるでしょう.
彌永:東大の数理科学は名前は大きくなったけど,外から人が入ったということは,あまりないんじゃないですか?
岡部:いや,そうでもないですよ.物理の方など入っておられるようです.
彌永:物理とか統計関係とかそういうので今までいなかった人が入ってきて,一緒にやるってことありますか? 名前だけじゃなくて,そうだといいなという気がするんです.
小嶋:話が先走りすぎるかもしれませんが,数学と物理のコンタクトの様相が変わってきているということは思います.パターン化していいのかどうか解りませんが,さっき伏見先生がおっしゃっていた19世紀イギリスの数理物理学の伝統がまずあって,その後こんどは数学的な概念とか手法とか考え方を使って,自然の記述を整理してみようという動きが,場の理論を中心に起こってきた時代があると思う.それがストリングがでてきて,数学と物理の交流の仕方がもう一段階変わったという印象をもちます.
江沢:もう少し具体的に.
小嶋:2番目に言ったところでは,すでにある数学の手法とかを自然の理解に応用しよう,もし足りなければそれを作ろうとする.今,数学と物理とコンタクトがある部分というのは,厳密かどうかは知らないけど,とにかく場の理論などの物理で開発されたものの考え方を,数学の方に持ち込んでみると,数学者があまり今まで考えつかなかったような問題の立て方が出てくるということですね.その交流が自然の認識そのものにどう響くかということはとりあえずおいて,数学の問題の立て方,考え方に役に立つような,という点が中心になって,今ものすごいコンタクトが進行しているように思うんです.
伏見:数学者が物理を利用しているのか.
彌永:そういうところもあります.反対に数学の方で,数学的な構造っていいますか,微分幾何とか代数幾何で考えた構造を物理の方でストリング理論などで利用するということもあるんじゃないですか?
小嶋:もちろん,それはずっと今までのパターンにあった部分だと思うんですが,新しい要素は,むしろ物理の中の考え方がどう数学に活かされるか.その交流によって自然認識にどのくらいプラスになるかは,ひとまずおいて,といった感じがします.
江沢:数学に向かって問題を出すということでしょうか.
小嶋:それは非常にうまく機能していると思います.
伏見:物理と数学の関係というのは難しいもんで,また19世紀後半の話にもどりますが,MaxwellのTheory of Electricity and Magnetismという2巻本の古典がある.僕はそれを買って,その中にMaxwellの方程式が出てくることを期待していたんですが,出てこないんです.Maxwellの方程式っていうのは,Maxwellのお弟子さんたちが作ったんだ.Maxwellはアイデアだけはあるが,ああいう偏微分方程式の形に表現はしてないんですね.おもしろいもんだなあ.
江沢:ベクトル・ポテンシャルなど余計なものが入っていて整理しきっていないのですね.
伏見:しかも,Maxwell の一番はじめの理論は全く奇々怪々な代物でね.空間を歯車で埋めつくした!
江沢:当時は,力学的なモデルを作ることが理解だったから.
伏見:だけどMaxwellの場合には,まず力学的なモデルの方が頭に出てきている.それを数学に書き換えたんだという感じがします.
江沢:そう,まずFaradayの洞察ありき,ですから,それを理解しようとした.
伏見:横向きに働く力をどう作るかということに,非常に苦心したんだと思うね.
今井:やはり,Newton力学が絶対の真理であるという,思い込みがあったんじゃないでしょうか.だから,相対論が出る前にエーテルの理論という,今から思えばどうしてあんな奇妙なことを考えたのかわからない.それから古典量子論というのも,そうじゃないでしょうか.つまり,Newton的な考え方が基本であって,それを何とか変えるという,今から考えれば相当姑息な手段じゃないでしょうか.
江沢:古典量子論の方は,手掛かりを捜すプロセスだったんだと思います.
今井:捜し求めているプロセスで,例えば
Schrdinger の方程式が出てきますね.その方程式を,落ちついて眺めてみると,Newton的なことは考える必要がないんじゃないか.
Maxwellの電磁力学にしても,それを定式化する手段として空間を複雑怪奇なコマの集団のように考えていたけど,いざ考え直してみると,そんなことは考える必要がなかった.そういうことがあるんじゃないか.
江沢:必要がなかったといえば,確かに現状ではそうです.でも,全く何もない真空中を電磁波が伝わるっていうのは不思議なものです.そういう疑問がいつか市民権を得ないとは言えない.
今井:今にして思えばね,そんな事を考える必要はなかったという気が僕はするんですがね.
江沢:でも,必要がなかったと言い切るところまで,なかなか踏み切れません.
今井:それはね,こういうことじゃないかと思います.何か新しいアイディアを出すためには,特殊な場合から想像して帰納する.それによって何かに達する.出した段階で,これまでのごちゃごちゃしたことは一応整理して,改めてそれについて考える.こういう見直しの操作が必要だと思うんです.ただ,何か,ある段階に達した場合に,これが絶対的にいいもんだと思って,それから導出されることをいくらやっても進歩がない.
ということを,実はこの間,高木貞治先生の『近世数学史談』が岩波文庫で出たのを読んで感じました.これは前に非常に感激して読んだ覚えがありますが,いま読んでみますと,また違うんですね.先生が非常に強調されていることは,まず数学は帰納をすべきである,演繹というのは単に自己同一というか,別に新しいものは出てこないんだ,ということを言っておられるんです.なるほど,そういうことかなと思ってね.これは必ずしも数学だけじゃなくて,物理にも通じるところがあると思うんです.やはり帰納ということ,つまり特殊から一般的なことを想像して追い求めて行く.これが本当の学問ではないかという感じがしたんです.実に感激して読みました.
それからもう一つ,高木先生は昔から整数論の大家であると聞かされていたんですが,あれを読んでみますと,まさに解析ですね.(笑)
江沢:その帰納,総合の段階に数学の出番があるということになりますか?
今井:数学でも物理でも現在まで通用している概念の中に少し矛盾する要素があると思うんです.それをどう取り除くべきか,ですね.そのときに,数学的思考が非常に役に立つんじゃないか.ある意味では,素人でないといけないんじゃないかという気がするんです.つまり,あまり専門家になってしまいますと,自分の知っていることだけで何でもできると思いがちでしょうが,素人ですと,よくわからないことでも,何かおもしろいことがないかと思って推論の種にするということがあると思うんです.物理と数学をやっている連中が接触するということは,非常に意味があると思います.単に物理屋が数学を勉強するということでなく,数学者の考え方が少しでも解れば,なるほどと思うところがあるはずです.
江沢:お互いに素人であるということを遠慮なく出せればいいわけですね.
伏見:全くそうだ.数学会と物理学会が分かれたのは惜しむべきである.(笑)
岡部:数学に関する本のことですが,応用の方には物理とか工学の立場から見た数学書がずいぶん出ていますよね.もちろん道具として数学を使うということもあると思うんですが,しかし物理あるいは工学から見た方が数学のエッセンスを取り出してるんだと思うんです.ところが,数学の方が,物理とか工学に関する−全部は無理にしても−エッセンスを取りだしたような本を書こうとしても,書けないと思うんです.経験がないからだと思うんですが,数学が取り出す作業をしていかなきゃいけない.さっき今井先生が言われたように,帰納的な目でもって具体的なものから一般的なものを抜き出すということを数学はずいぶん訓練してきたし,進歩発展したと思います.その目をいったん物理とか工学の世界に向けると,今度は数学者の本当の素人(物理学者や工学者から見れば)の目から見たとき,物理とか工学の人に見えないものが見えてくることがあるんじゃないか.そこに,数学で蓄えてきた方法論を適用すると,もっと数学と物理,化学が交流していくんじゃないかと思うんです.
伏見:今,ふいに思いついたけれども,D. HilbertがGrundlagen der Physikという論文を書いたの,知ってる? これ,気体運動論なんです.Hilbertにとって分子論的な立場からマクロの流体力学の方程式を導き出すことが物理なんだ.そのときに彼の積分方程式論が非常に役に立つ.とにかく,Hilbertというのは不思議な人物です.
江沢:一般相対性理論なんかもやりましたし,量子論の初めの頃の仕事もあるし.
伏見: Emmy Noetherなんかもお弟子さんですからね.
小嶋:量子力学の定式化を考え直すために,量子論のエッセンスをなるべく素人でも解るようなレベルにいっぺん言い直して考えてみる必要があると思って,気になっているんです.他の物理の現象でしたら,かなり日常用語を使って,もちろん非常に深い定理は別ですけれども,エッセンスは伝えられると思います.量子力学の場合には数学を使わないとエッセンスの言い表わしようがないという,もどかしさを感じるんです.何故でしょうか?
伏見:Heisenberg時代の観測論なんてのは,式なんてほとんど使わないじゃないですか.あれじゃだめなんですか.
一つ宣伝しておきたいのはね.普通の量子論では座標qを変数にして波動関数y(q)を書くでしょ,運動量pを.変数にしても物理的に同じ状態を関数f(p)で表せる.yとfの間はFourier変換で移れるわけね.それで位置座標の確率分布はy(q)から求まるし,運動量に関するものはf(p)から求まる.
だけどね,古典物理学者はpとqとが同時にどう分布しているか,つまり古典的な相空間の中のどこにどれだけの確率でいるかを,問いたくなるんですよね.それは点的な密度ではいけないけれども,幅をもたせる,つまりPlanck定数hだけの面積の不確定性をもって,(p,
q)スペースの中で確率がどう分布するか.つまり,pとqとの間の相関を考慮に入れた確率分布というのは考えてもいいわけですよね.そういう関数をE.P. Wigner先生が提案しているんだけれど,残念なことに値が正とは限らないもんだから,確率という意味をもたせることができない.そこで大昔に伏見先生が出てきて(笑),不確定性原理をちゃんと適えながら,正定値な同時確率を表現する関数を考え出した.
小嶋:今,positive operator-valuedmeasure (POM)という形にまで先生の発明が広がっているんです.近似的同時測定という,それまでだったら自己共役な射影演算子まで分解したものだけが意味をもつと考えたわけですが,そうじゃなくって,非可換なものを同時に分解するんですね.それぞれ射影演算子にはなっていないけれども,期待値をとれば確率解釈ができる.
伏見:そうですか.よかった.(笑)
小嶋:そういうものを考えるとき,先生の考え方,伏見関数というものが重要な手がかりになっている.帰納法をやるときの典型例で,そこからジャンプしてPOMという概念を立てる.例えば光通信などの問題で重要な道具になっています.
伏見:型にはまった定式化だけでは,だめだということですね.
江沢:そういう時に数学が役に立つんですね.想像力を自由に遊ばせるときに.
小嶋:数物学会が二つに別れたことですが,分かれることは必ずしもいつもいつもマイナスではないと思うんです.それぞれが自分のロジックを掘り下げるべき時期っていうのが,きっとあると思いますから,そういう時に別れるというのは,それはそれで意味があると思うんです.
今井:分かれてしまった以上は,今度は堂々と二つの学会から手をさしのべて,そしてもう一度,今の数学と物理の関連ということについて大いに考えるという,そういうグループなり,組織が出来るといいと思うのです.ですから二つの学会があるということは,非常に結構なことで,それはやはり物理なら物理の目的で,数学なら数学の目的でやる.しかし両方の接触する部分は,できるだけ接触していこう,というやり方があればいいんじゃないかと思うんです.
彌永:いまの今井さんの話は数学会に伝えておきますけど,そういうことができるといいですね.
江沢:ありがとうございました.
*彌永昌吉 1929年卒.
*伏見康治 1933年卒.
*今井 功 1936年卒.
*岡部靖憲 確率論.東大闘争の1969年に修士修了.1994年10月から東大工計数工学科.
*小嶋 泉 ゲージ場,統計力学.1979年京大医学部卒,1980年に数理解析専攻博士課程修了. |