戻る
物理学と周辺

日本物理学会の成立

望月誠一*


I. 日本数学物理学会の歴史 概観

日本物理学会は1946年4月28日の創立総会で可決成立した.1)この学会は,会員の皆様も既にご承知のとおりこの時はじめて生まれたものではない.1877年に創立された東京数学会社にその源を発し,東京数学物理学会,日本数学物理学会と発展してきた略称数物学会が,第2次世界大戦終了後に数学会と物理学会に分離したものである.1945年12月15日の臨時総会で分離のための解散案が可決された後を受けて頭初に記した総会で創立案が可決され,日本物理学会(以下物理学会と略記)が設立された.

以下にその歴史のあらましを述べる.『東京数学物理学会記事』巻1にその時までのこの学会の沿革が詳細に記されている.2)また文献3)にもその抄録が載っている.それらによれば,1877年(明治10年)9月某日に神田孝平,柳 楢悦2氏の主唱により湯島昌平館に同志相会して東京数学会社**が創立され,社長に両氏が就任された.同年11月には『東京数学会社雑誌』第1号が発行された.この雑誌の巻頭に会社の目的について神田孝平氏は次のように述べている.(原典は片仮名混り文):

「此般数学会社を開立するの目的は益々斯学をして開進せしめん事を欲するに在り.此学を開進せしめん事を欲するの目的は実理をして大いに人間に明ならしむるに在り.……我国数学を講ずる者の古来其の人に乏しからず,近世西学開くるに及て,出て東西の美を併せ,大に斯学の面目を一新せりと云.……斯学の面目を一新せりと云ふ者も,唯其専門有志輩の間に止まりて,其の効未だ公衆一般の実益を為すに及ばずと云ふべし.是此会を設けたる所以なり……」,と.同年12月の例会で6条の社則を定めた.常員,臨時員の2種が設けられ,常員は入会時1円,毎回の例会毎出席の有無に拘らず20銭を,臨時員は出席する度に20銭を納める.事業としては毎月の例会開催と雑誌発行が主であった.例会では講演や数学上の問題に関する質疑等が行われた他,会の運営に関する討議も行われ,現在の審議機関をも兼ねていた.その後1880年6月に社則を変更して社長1名,学務委員12名,事務委員2名,書記1名を置くことになり,運営面を担当することになった.ただし社長は1882年に廃止された.委員は常員の選挙によって決めていた.

1884年4月28日付で菊池大麓氏が社員に「社名を改めて東京数学物理学会とする建議案」を送り,賛成を求めた.

(動議,提案理由とも片仮名混じり文):

動議第一 本社社名を改め東京数学物理学会と改め数学及び物理学(星学を含有し)を講究拡張するを目的とす可し.動議第二 本社の社則を改正する為艸按委員三名を選挙し改正社則を艸せしむ可し.但し十日間に限り稿を脱することとす.

その提案理由は次の通りであった.「本社創立以来,六年間社運の変遷少からずと雖も,未だ曽て満足す可き有様に至りたる事なし.実に嘆せざるを得ず.抑も本邦に於て学術の勢未だ振はず.之を攻むる者甚少し.是れ学術の本邦に入込みたる日尚ほ浅きに由る者にして,現に学術を攷究する者は最も之を拡張する事を勉むるの責あるべし.……数学と物理とは斯の親密の関係あり.而て本邦現今の状況に於ては未だ斯く親密なる二学科を供せて攷究するは其性質に於て差支なくして大に社の勢力を増加すべし.」

当時社員75名(1884年5月現在)のうち外国の大学または東京大学で物理学科に学んだ者は10名であった由.この提案に基き起艸委員3名が選ばれ同年5月24日の臨時会でその案が審議され活発な質疑討論の末正副の会則を議決し,同年6月7日の紀念会で議長が本日から東京数学物理学会規則を施行する旨を宣言した.この規則の主要部分を摘記すれば次のとおりである:

〇本会を東京数学物理学会と名く.〇本会の主旨は同志相会して数学及び物理学(星学を含有す)を攷究し其の進歩を図るにあり.〇本会の集会は常会,年会及び臨時会の3種とす.〇常会では(1)論文,通信文の講読及び演述並びに討論質疑,(2)内外諸雑誌中本会に有益なる事項の報告,質疑,(3)数学,物理学に関する事項の質疑及び此に就ての討論,(4)本会事務,〇本会記事の発行,〇本会の事務は5名の事務委員之を負担することとす.但し重大の事件は会員の可決を経たる後施行するものとす.〇事務委員は毎年年会前月の常会に於て会員の投票を以て之を選挙,〇事務委員は委員長1名,記録委員3名,会計委員1名とす.〇編集委員5名年会に於て選挙−記事編集,出版担当,〇外国雑誌報告委員10名など.

東京数学物理学会が日本数学物理学会と名称変更されたのは1918年10月19日の常会のことであった.それは同年4月の年会の際の昼餐会で当時の委員長長岡半太郎氏から提案された.その理由は「現在の如く会員多数にのぼり,従って全国に会員の散在を見るが如き隆盛の域に達したるを以て此の際会名を変更して日本数学物理学会とする方適当なるべしと思わるる……」ということであった.この提案があってから同年5月,6月,7月,9月の常会での慎重審議の末10月の常会で会員の投票が開票され,有効投票203, うち会名変更せず51,日本数学物理学会とするもの152,無効6で可決した.(会員数439名.)

ここで話を1940年代に移す.その間に学問的に著しい展開があったであろうことは推察することはできても,素人の私にはその内容を述べることはできない.私自身は1934年9月から東大物理教室の図書係に就職し,傍ら数物学会の事務の手伝いをしていたが,1941年に学会主事に任命されて漸次学会の仕事の方に重きを置くようになった.

学会の組織,運営に関しては精査したわけではないがその間に著しい変化はなかったようである.事業の面に関しては,学術的会合は従来どおり常会,年会が開かれており,機関誌発行は原著発表のための欧文誌『数物学会記事』と,1927年から綜合報告や抄録を主とした邦文の『数物学会誌』が出版されてきた.『数物記事』に掲載する原著論文は常会又は年会で口頭発表したものであることが条件であり,論文の冒頭に発表年月日が必ず書かれていた.『数物記事』の名称がProceedings of the Physico-Mathematical Society of Japanとなっていた所以である.この点は物理学会のJournalと異なるところである.

組織,運営面では著しい変化はなかったとはいえ,学会の規模は年を経るに従って大きくなっていった.その状況は物理学会誌第5巻353ページ,当時の編集員増田秀行氏の調査によるグラフ(図1)4)によって知ることができる.

数物学会は1941年2月28日にはじめて社団法人組織になり,社団法人日本数学物理学会と呼ぶことになった.

それまでは法的には「人格なき社団」で,普通の表現で任意団体といわれる組織であった.その運営のために前述のとおり委員会が設けられていた.委員は現在の物理学会のような立候補制ではなく,全会員からの投票という形式を一応とっていたが,実質的には前期の委員会が適当に(半数交代制であったが)候補を選定して,常会で形式的な承認を得て決まっていた.

1940年に(株)日立製作所から当時の金で10万円に相当する同社の株式1,130株を寄付してもらうことになり,それを受入れるのに任意団体では不適当であるので法人組織とすることになった.そしてその運営には理事会,評議員会を設けて当ることにした.しかし,理事,評議員の選定は前期の理事会がお膳立てするという従来の委員会方式と殆ど変ってはいなかった.理事長の選定も話し合いで決める所謂「たらい廻し」であったが,1942年から清水武雄先生の発議で,それでは不明朗であるから投票によるべきだという正論が通り,それからは投票で決めることになった.

第2次世界大戦開始後,日本の敗色が濃くなるにつれて印刷用紙は配給制となった.当時出版界の統制機関であった日本出版会からの要請があり,1944年6月以後の理事会で用紙節約のため会誌を数学と物理に分冊し,数学者,物理学者にそれぞれ別々に配布する.記事は希望者にのみ有料で配布する,などの案が数度に亘って審議された.しかし,この案はそれを実行に移す前に同年11月に印刷所の三秀舎が米機の空襲に遭って焼失したため実現を見るに至らなかった.しかしここでの会誌分冊案は後日理事会で学会分離案が出されたとき,それほどの抵抗なく承認されるに至った素地をなすものであったといえる.

開戦後それまでに出版された『数物学会記事』はVol. 23 (1941) 119篇1,079頁,Vol. 24 (1942) 91篇922頁,Vol. 25 (1943) 79篇710頁,Vol. 26 (1944) 11篇80頁(No. 1〜2, 3〜4の2冊のみ);『数物学会会誌』は15巻(1941) 216頁,16巻(1942) 498頁,17巻(1943) 700頁であった.記事の頁数が漸次減少したのに反し,会誌の方が増大したのは欧文原著が和文原著の方に移行したからだと推察できる.記事,会誌とも上記以後は印刷所の焼失に遭い出版不可能に陥った.学術的会合では年会は1943年7月の仙台での年会を最後とし,その後は開催することができなくなった.その翌年には,一か所に多数の会員が集ることが困難になったので年会に代えて分科会を開催することになり,応用数学,幾何学,素粒子論,物性論,光学および光学器機,放電,磁気などの分科会がそれぞれ1〜2回,各地で開催された.毎月の常会は割合簡単に開催することができたので第2次大戦中もずっと続けられ,講演申込がなかったり,空襲警報で流れたことが数回はあったが,終戦の年の12月まで曲りなりにも開催された記録が残っている.また各支部の常会も同様に続けられた.

一方学会活動が最も窮屈となった時期(1945年3月)に清水武雄先生が理事長に選任されていた.が同年5月以降終戦まで理事会,評議員会を開催する余裕はなかった.

私は1944年12月から9カ月兵役に召集され,職場に復帰したのは1945年9月2日であった.職場の数物学会および東大物理図書室は幸い戦災を免れて残っていた.けれども私自身は敗戦という事実に打ちひしがれて茫然自失の精神状態であった.

しかし清水先生の頭の中では学会の在り方が熟考されており,会誌の分冊案から学会の分離案へと大きな転回があったものと推察される.時の理事長であったという関係からだけでなく,因襲を打破することに果敢であられた清水先生は,終戦後直ちにこの考え方を実現すべく活動を開始された.東大物理の先生方の集まる会合毎にこの問題が提案され討議されたようであった.これらは学会の公式な会合ではなかったため事務局の私は同席できなかったが,大方の賛成が得られたようである.当時数学から出ておられた理事弥永昌吉先生とも話し合われた.弥永先生は始めは反対されたが清水先生の熱心な説得があって了承された由である.

こうして,終戦後の第1回の理事会,評議員会にはじめて,数物学会を数学と物理の2学会に分離する案が清水理事長から提案された.ここでも大方の賛成を得ることはできたが,事が重大であるため即決はされず,11月9日の理事会,評議員会で可決され,数物学会を解散すること,12月15日に臨時総会を開催してこの案を提出することが決まった.この日の会議で採択された解散理由書には次の通り書かれている.(原文は片仮名混り文):

「日本数学物理学会は明治の初期,数学並びに物理学の研究者が合同して一学会を組織せるに始まり,爾来若干の変遷を経て今日に及びたるものなり.斯の如き二学科の合同制は我が国における学術研究者の数の少かりし時代に於いて止むを得ず採用せられたるものにして学術の興隆と共に研究者の数著しく増加したる今日においては其の要なきのみならず,却て両学,両関係者の自由な活動を制約する場合なしとせず,これ茲に本学会を日本数学会(仮称)と日本物理学会(仮称)とに分離し,両学の急速なる進歩を促さんため本学会を解散せんとする所以なり」と.

数物学会解散のための臨時総会は1945年12月15日に開催された.5)提出された議案の大要は次のようなものであった.(1)社団法人日本数学物理学会は昭和20年12月15日を以て之を解散す,(2)清算事務所及び清算人−省略,(3)社団法人日本数学物理学会の基本財産中関賞碑資金は新たに設立せらるべき日本数学会(仮称)に,田中館博士記念資金は同日本物理学会(仮称)に,爾餘の基本財産並びに通常財産は清算の後前記両学会に解散当日に於ける数学出身者数と物理学出身者数との比(1:3)に分割寄附す.

採決の結果上記3案とも賛1,043票,否38票で可決された.また両学会が設立に際しては数物学会会員であった者は無条件に入会させること,既に納入済の昭和19年度記事頒布代金は数学会又は物理学会に入会したる際納入すべき会費の一部に振替える.返還希望者には返送する.昭和20年度会費は徴集しない.数物学会所有の図書はその専門に従がい両学会に分割寄附する,などの附帯決議が可決されている.なお,採決に先だち当日現在の出身別会員数は次の通りであることの報告があった.物理学科出身者1,812名,数学科出身者592名,その他178名,計2,582名.この日に数物学会は事実上解散した.正式な解散は総会の決議録を添えて文部大臣に申請し,認可を得て登記所に登記された翌年5月21日であった.

図1
図1 1901〜1949年間における日本数学物理学会および日本物理学会の会員数,講演数,刊行物の頁数と発表された論文数のグラフ.(増田秀行:日本物理学会誌5(1950)353より転載.)


II. 日本物理学会の成立

清水武雄先生は数物学会解散を同学会理事会,評議員会に提案された直後から日本物理学会の設立準備委員会を組織された.記録によれば1945年10月25日,11月2日,5日に準備委員会が開催され基本綱領の審議が行われている.この後を受けて設立発起人会が組織され,第1回発起人会が12月15日の数物解散の臨時総会の日に持たれ,規約の審議が始まり,12月22日,26日,28日,翌年1月4日と矢継速に発起人有志会が,1月14日には東京地方発起人会,2月16日には第2回設立発起人会が開催されて,この最後の会合で定款案の決定,4月28日に日本物理学会の設立総会の開催,4月28日から4日間第1回年会の開催が決められている.

日本物理学会の設立総会(『物理学会誌』第1巻第1号附録の記事では創立総会となっている)が1946年4月28日に東京帝国大学法文経2号館第26号室に於いて開催された.議事に入るに先だって設立発起人代表清水武雄氏より設立経過の報告があり,そこで審議された議案並びに決議の内容は次のとおりであった:

1. 本総会の議事進行法の決定.出席会員の決議を以て本総会の決議とみなす.可決.2. 定款案並びに細則案の審議.原案通り可決.但し文章体である原案全文を口語体に改めることは委員会に一任することとした.尚社団法人であるため本定款は文部大臣の認可を得て始めて正式に決定される.3. 昭和21年度予算の審議.原案通り可決した.4. 昭和21年度委員の選定.発起人会推薦の原案通り可決.

なお当日の出席者は133名,会員数1,253名であり,委員は43名であった.当日開催の委員会で委員長清水武雄,庶務委員落合麒一郎,会計委員今井 功,宮本梧楼の特務委員4氏が選定されている.

因に,日本数学会は1946年6月2日の総会で設立されている.

物理学会の設立総会で採択された定款および細則は全くユニークなもので,その骨子は今日に至るも変ることなく存続している.その特徴はその目的条項と役員制度にある.普通の学会の定款の目的条項には「……により〇〇学の進歩発達を図ることを目的とする」という趣旨の文章が必ずといってよいほど書かれている.このことはI. 日本数学物理学会の歴史概観に記したように,本会の前身である数物学会についても同じであった.しかし,我が物理学会の定款にはこの種の文章が一切見当らず,その第2条に「一.会員の研究報告を内外に発表すること.二.会員が一様に得られる研究上の便宜を図ること」の二つが掲げられている.役員制度については「本会の事業を行うために30名以上(現行は50名以上)の委員によって作られた委員会」が置かれ,委員会の中に委員の互選による委員長,委員長の指名による庶務委員,会計委員などの特務委員(当初は副委員長,編集委員長,会誌編集委員長,出版委員長などはなかった.)が置かれ事務を担当することにした.また当初は決議機関としては総会を除いては委員会議が唯一のものであり,特務委員はその実務を担当する者にすぎず,普通の学会のような理事会,評議員会とはだいぶ性格が異なっていた.後に理事会,委員会方式に変わったとはいえ,この伝統は引継がれて定款上はやはり総会を除いては委員会議のみが決議機関であると定められている.

しかも,その委員の選定は自由立候補制が主体であった.会員は学会の運営について意見があれば委員会に申出て審議してもらうことができるのはもちろん,自分自身が立候補して直接学会の運営に参加できる.委員の数に上限を設けなかったので「会員は誰でも委員になれる.極端な場合会員全員が委員になることさえ可能である」とは清水先生が当時常に口にされていた言葉であった.自由立候補のあと,立候補した者の相互の適任投票と全会員からの信任を得るための形式的な手続き−会誌に適任候補者の氏名を公表し,一定の期限までに会員の10分の1以上から異議の申立てを受けなかった者を委員とするという規定になっているが,この網に引かかった例は殆どなく,事実上立候補しさえすれば誰でも委員になることができる.当時は形式的とはいえ会員からの信任を求めるのは委員としてであって,委員長は委員相互の投票で決め,他の特務委員は委員長の指名だけで決められていた.従って委員長はじめ特務委員は全会員の付託を負う者ではないので,常に全委員の意向を聞いた上でないと行動がとれないという一面をもっていた.

これらの定款,細則は設立総会で承認されたが,社団法人として認可されたのは1947年9月26日のことであった.文部大臣の認可を得るためには理事は是非なくてはならない役員であるので,「特務委員を法定の理事とする」というような一条が必要であったし,理事の数も当初は4名として認可を求めたが,それでは少なすぎるというので文部省の指示で応急に4名追加させられた.物理学会設立のあと数年の間はこの組織による運営の仕方は特に問題にならなかったが,戦後の復興が進むにつれて学会の外部から学会に対して諸種の行動を要請をされるようになって反省のきざしが見え始めた.文部省の科学研究費配分委員候補,日本学士院会員候補,日本学術会議会員候補,物理学研究連絡委員会委員候補等の推薦や朝日賞,毎日学術奨励金(本多記念賞,藤原賞,東洋レーヨン賞,松永賞等はもっと後のことであったが)等々の候補の推薦などの依頼を受けるようになった.

機関誌の出版や学術的会合の開催等のサービス業務を遂行するにはヴォランティアとしての自由立候補の委員がまさに相応しかったといえるが,上記のような諸件をこのような委員会が処理することが適当であるかどうかという疑問が生じてきた.これらの推薦は定款第2条の精神から外れ,物理学会の任務の外であるとして断るべきだという極端な意見がなかったわけではないが,他に物理学者の意見をまとめるための適当な組織がないという実情から,物理学会が何らかの形でこれら多少“政治的”な仕事も処理せざるを得なかった.処理の仕方として,(1)会員全体の投票による,(2)委員全体の投票による等の方法が考えられ,また実行された.(1)の方法は多くの経費を要する点と,全会員が必ずしも十分な判断の資料をもたないために形式だけの民主主義に陥るおそれがあるので,常時実施するのには困難があり,(2)の方法は自由立候補制の委員が会員の意志を正しく代表しうるかどうかという点に疑義があった.このようなことが委員会でしばしば議論された後に,第2次山内委員会(1953)でこれらの問題を検討するための制度検討小委員会が設けられることになり,小谷正雄先生がその委員長に指名された.この小委員会は約2年間7〜8回の会議を重ねた結果,学会の委員会とは別の委員会(B委員会と称する)を全会員からの直接選挙で選び,その委員会が上記の業務を行う(甲案)と物理学研究連絡委員会をそのままB委員会として,物理学会委員会はこの委員会に照会を出し,その意見に従って推薦を行なう(乙案)の2案にしぼられたが慎重を期して結論を出されなかった.

賞や奨励金候補の推薦に関しては物理学研究連絡委員会委員の意見を聞いて委員会が推薦するという方法がとられた.しかし,研究内容の十分な説明や討議がなされないままの機械的な投票であったため,この方法は必ずしも適当ではないということから改めて委員会でこの問題が討議され,特別委員会を設けることになった.そして,第125回委員会議(1958)で「受賞候補等推薦委員会」の設置が決められた.それ以後政治的な問題が外部から持込まれたときは,学術会議会員候補や科研費配分委員候補の選定などを除いては物理学研究連絡委員会に廻すことにして,第1次の制度検討は一応のけりがついた.

なお,推薦委員会に関連して最近に日本物理学会賞制定の問題が議論されている由を仄聞しているが,もしこれを実施するならば現行の推薦委員会規定はもちろん,定款,細則も現行のままでよいのかどうか検討課題になるかと思われる.

第1次制度検討のあと,久保亮五先生を委員長とする(第2次)制度検討小委員会が設けられた(1965年).そこ での議論は次のようなものであった.理事会,評議員会の形式をとる普通の学会の例にならい,会長は全会員の投票で選び,理事は半数交代制が望ましい,政策の継続性の点から副会長がその翌年に会長になることが望ましい,そのためにはむしろ会長でなく副会長を選挙した方がよい,ただし理事半数交代制をとるならば半数は前会長の指名した理事が残ることになり,やりにくいことはないか等々であった.しかし,久保委員会の任期中には結論が出なかった.

最後に,第33回臨時総会(米軍資金問題での)後2期目の委員長になられた小林稔先生は,前期伊藤委員会に引続き決議三の解釈とそのための学会の運営方針の検討に頭を悩まされた.小林先生は第2次制度検討委員会の際もその副委員長としてこれに加わっておられたので,会員の意志を十分に反映できる組織でない自由立候補した委員により構成される委員会が,このような学会の基本的な方針を審議し決定することに非常な疑問を抱かれ,何らかの方法で全会員から選出された会長とそのスタッフである特務委員会(むしろ理事会と呼んだ方が適当であるような権限を備えたもの)が必要であることを痛感され,第3次の制度検討委員会が設けられた(1969年).この委員会での数回の討議の結果,a案:現行の手直し案−委員会制度はそのままにして,会長を全会員からの投票で決め,その他の特務委員は会長の指名により決める,b案:抜本的な改革案の2案を立案し,この問題に関する座談会を開催して,その記事を会誌に載せた(会誌24 (1969) 542〜554参照).この座談会での発言などを参考として改めて制度検討委員会で検討しなおした結果,b案を採用した場合は結論を出しにくいような問題でも評議員会で投票で即決してしまうとか,各評議員がグループの代表として出てくる場合が多い見込なので,その評議員個人の自由な意見を出しにくいということになりかねない.十分な時間をかけ自由な討論を重ねることができ,それでもなお結論が出ないような問題については無理な結論を出さないでおく,という現行の委員会制度の方がベターであるという考え方に傾き,委員会にもそのように報告することになった.委員会ではこれを受けて討議した結果,a案を採用することに決まり,総会の承認を得て1970年から実施することになった.文部省での審査の過程で,会長のみならず理事も全会員から選ばれた形にすべきだといわれ,会長が理事候補を指名した後に,その氏名を全会員に会告して会員の10分の1以上から 異議の申立てを受けなかった者を理事とするように変更した.このようにして会長,理事とも全会員により選ばれることになり,会務運営に自信を持って対処できるようになった.

私の退職した1973年末から数年して,会長でなく,副会長を公選し,副会長が翌年の会長に自動的に就任するという方式に変更されたが,これは第2次制度検討委員会で提出された案が実現されたといえる.

このように長いみちのりを経て変更された物理学会の制度も,委員会重視の従来の方針から飛躍的な転換を行ったわけではなく,委員会の権限には全くといえるほど手をつけていない.普通の学会では大概のことは理事会だけで済み,評議員会は年に2〜3回,それも形式的に開催される程度である.これに反し物理学会では委員会議を毎月開催し,しかもそこへの提出議案には詳細な説明と資料をつけ開催通知と同時に発送し,前回決議録をも同封して,それぞれに対する意見を書面で求めるという丁寧さである.そのため私の在職中は理事会,委員会議の仕事で勤務時間の大半を割いてきたといえる.『会誌』の本会記事欄には委員会議だけで理事会のことが載っていないところを見ると,この情況は現在でも変っていないのではないかと推察される.


III. あとがき

ここまで書いてきて,既に依頼された枚数をはるかに超えてしまったので,上記組織,運営以外の物理学会設立後の情況,特に会誌,Journalの発行を軌道にのせるまでの苦労話,赤字対策,学術的会合の開催状況やProgress, JJAPとの関係,事務局問題等については割愛せざるを得ない.それらについては私の「40年のおもいで,会誌30 (1975) 95, 170, 240」および「数物学会解散と物理学会設立,会誌32 (1977) 755」をご覧いただければ幸いである.


文献

  1. 日本物理学会誌1 (1946), 附録43.
  2. 東京数学物理学会記事,巻1 (1885).
  3. 日本物理学会編:『日本の物理学史』上巻(東海大学出版会,1978)p. 113.
  4. 増田秀行:日本物理学会誌,半世紀の回顧記念号5 (1950) 353.
  5. 日本物理学会編:『日本の物理学史』下巻(東海大学出版会,1978)p. 487.

上記以外は物理学会の倉庫に収めてある会議議事録や記録によるもが多く,繁雑であるので文献として掲げることはしなかった.なお,上記の諸資料閲覧に便宜を与えて下さった清田事務局長に謝意を表したい. 
*日本物理学会の元事務局長,140東京都品川区南品川5-15-11 
**
「会社」はsocietyの当時の訳であるらしい.(1)東京数学物理学会記事,巻1 (1885) 13, 43, (2) 長岡半太郎「回顧談」,日本物理学会誌5 (1950) 323を参照.