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坂田学派と素粒子模型の進展小川修三*小林誠,益川敏英(1973,以下全て敬称略)による素粒子の3世代模型が提唱されてすでに23年が経過し,いまやその最後の粒子トップ(t-)クォークの実験的確認が注目を集めている.坂田昌一が,第2世代のレプトンにあたるm中間子の存在を提唱した2中間子論を携えて名古屋大学に赴任したのはさらに31年を遡る.この間の素粒子物理の発展は,もとより国際的協業により達成されたものではあるが,現在の標準模型に至る素粒子模型の発展のなかのいくつかの重要な貢献が,坂田の開いた一つの学派の中から得られたことは注目すべきことかも知れない.坂田は研究を進めるにあたり,絶えずその方法論的検討の重要性を,とくに武谷三男の三段階論(われわれの認識は,現象論,実体論,本質論なる各段階を螺旋的に経過しながら深化する)を引用しながら強調していたことは,年配の研究者の記憶に多分留められていよう.また本年はハドロン物理の進展に大きな転回を与えることとなった坂田模型公刊40周年にもあたり,上記の発展を坂田学派による貢献を中心に据えて,いささかの感慨をこめ筆者の見聞をとおして振り返ることにする.1) 2中間子論坂田が科学方法論に関心をもったのは甲南高校時代以来のようであるが,それが具体的研究活動の上に鮮やかになったのは多分2中間子論提唱(1942)の頃である.それはまた,日本の素粒子論研究の黄金時代を創った3人の巨匠,湯川秀樹,朝永振一郎,坂田昌一の間の協力と競り合いの,そして3人の特長の一端が見えた時期でもあった.当時古典電子論における点電荷のもつ無限大(有限の電荷を一点に集めるためには無限の仕事を必要とする)に加えて,量子論的場の理論に現れる無限大の困難を克服することが,素粒子論の基本的課題と考えられていた.湯川の提唱した(p-)中間子論は,素粒子物理の新局面を拓いたとはいえ,この困難を引き継いだだけでなく,p中間子を宇宙線中間子と誤って同定したことにより明らかになった実験との矛盾が,上記のいわばアカデミックな困難が現実的困難として現れたことを示すものと受け取られていた.とくにHeisenbergによって強調されたこの観点は,3人の巨匠たちにおおきな影響を与えていた. この問題に対する3人の巨匠の対応を見てみよう.湯川はかれの中間子論の提唱(1935)以前から指向していたのであるが,この困難を理論の基本的変革によって解決することを目指し,4次元Minkowsky時空に閉じた球面をとり,そのうえに定義される確率波の導入に苦慮していた.2)朝永がこの球面を平らにして時空の各点に絞り,Diracの多時間理論から超多時間理論を作り上げた(1943)のはこの頃である.別に朝永は,湯川中間子論が強い相互作用の理論であることに鑑み,計算における近似法の改善を目指し,中間的強さの相互作用を取り扱う方法−それは場の反作用を分離する一つの方法を含む−を編み出した.そしてこの方法を上記の宇宙線現象の分析に適用し,宇宙線の地下透過力と理論との矛盾を回避できることを示した.しかし宇宙線中間子の寿命に関する矛盾は残ったままで,結局当面の問題の解決には失敗したのであるが,この経験が後のくりこみ理論の発見に役立ったと朝永は述懐している.3) 一方坂田は,谷川安孝との討論に示唆を受け上記の2中間子論を提唱し,宇宙線中間子(m)はp中間子と異なり,前者は後者の崩壊により生ずるものとした.ところでこの2中間子論は,湯川,朝永にはもちろん,武谷にさえ評判の良いものではなかったのである.実際2中間子論は,場の理論の困難の解決にはなんら寄与することなく,皮肉な見方をすれば模型の変更により増えた余分のパラメーターを,実験に合うように決めたにすぎないと云えたであろう.対して坂田は四面楚歌のなかで方法論的な検討を懸命に行ない,自説の妥当性を擁護する記録をいくつか遺している.例えば1943年9月末に開かれた中間子討論会の報告で,坂田は冒頭で次のように述べている.4)「周知の如く現在素粒子論は次の三つの段階から形成されている.即ち,先ず始めにどんな種類の素粒子が実在しそれらがどんな相互作用のもとにあるかと謂う模型に関する仮定が設けられ,次にこの体系に量子論が適用されるものと見做してLagrange関数を拵えHamiltonian関数を導きSchrdinger方程式を見いだす段階があり,最後にこの方程式を適当な数学的方法を用いて解き,実験と比較できるような結論を導きだす段取りとなすのである.従って,中間子論の現状のように,その結論が実際とひどく食い違っていたり,自分自身の中に矛盾を含んでいる場合にはその困難の原因をうえに述べた三段階に対応して(i)模型の適否,(ii)量子論の適用限界,(iii)数学的方法の可否の三点に就いて注意深く探索せねばならない…」とし,模型の形成は,自然認識の深化の過程における不可欠の一過程とする自らの方法論を開陳し,2中間子論を擁護している.なお上記の(ii)および(iii)は,それぞれ湯川,朝永を意識したものである.しかしその後坂田は太平洋戦争の終結まで著しい業績は遺していない. 混合場理論と研究室制度の導入1945年8月を迎えた坂田の活動は,漸く目覚ましくなった.この年のノ−トにはBernalの「科学の社会的機能」における研究組織論の抜き書きや,疎開先に武谷を招きその後の研究計画を方法論とともに検討した跡が見られる.続いて坂田は,1946年1月24日,幸い周囲の戦禍から残されたバラック建ての名大で開かれた第一回研究室会議で,戦後の学界に大きな影響を広げることとなった研究者組織の民主化に関する主張を,挨拶として初めて展開した.そこで坂田が重要な原則として述べた点は,第1に研究者の思索に完全な自由が与えられること,第2に研究室においてなされた仕事が,研究室に属する個々の研究者の仕事の単なる和であってはならない,5)ということであった.そしてこれを保障する制度として,民主的研究室制度の導入を進めた.この主張はさらに教室全体の支持を受け,民主的教室運営を定めた名古屋大学物理学教室憲章の制定をもたらした.教授が絶対的権限をもった当時の講座制に対して,研究員(現在のドクター・コース以上に相当しようか)によって構成される最高決議機関としての教室会議の票決によって,教授などの選考をも行なうことなど定めたこの憲章は,まさに瞠目すべき事件であった.しかしそれは当時の若い研究者達にとって研究者としての自覚と自信をおおいに鼓舞したものである.同じ研究室会議において,坂田は当面取り組むべき課題として素粒子論の基本的困難,すなわち場の理論における発散の困難の解決を目指し,混合場の理論を提唱し,それはまた戦後創設された日本物理学会第1回総会において発表されたのであった. この理論の意義を坂田は次のように述べている.6)「自然を全体的関連から引き離してその個別において研究する態度は自然科学の発展の初期の段階においては極めて有力な方法であり,近代自然科学の偉大な進歩の根本条件であった.…しかしBaconに始まる斯様な形而上学的方法はその適用限界を超えればたちまち一面的な偏狭なものと化し,解くべからざる矛盾に迷いこむのである.…従来は場の理論において個々の場の相互作用が単独にとりだされ他と切り離して研究されて来た.ところが私どもは同一の粒子と作用する全ての場及び同一の場の湧源となるすべての粒子の相互作用間の内部的な関連を探求することが今後の理論的発展の有力な方法であり,現在の理論の困難を解決する有望な路である…私どもが湧源の多様性をも含めた混合場理論の総合的研究の必要を説く所以は,本質論への移行に先立って現象論的実体論的段階の整理が大切な仕事と考えるからである」.この陳述の中に武谷三段階論の影響を読み取ることができ,またこの考えは現在の素粒子論の研究にも依然大きな影響を遺しているのである.それはともかく具体的仕事としては,電子が電磁場の他に凝集力場(cohesive field)とも相互作用し,結合常数の間に適当な関係があると電子の自己エネルギーの無限大は相殺できることをが示され,陽子と中性子との質量差にも好ましい結果を与えたのであった.井上健,高木修二,続いて原治との協力によって進められたこの考えは,朝永学派を刺激し繰りこみ理論の提唱を促すことになった.続いて坂田学派では,梅沢博臣を中心として光子の自己エネルギーの無限大を同じく混合場の方法によって解決することを目指した.この仕事はPauliによって注目され,梅沢らの仕事は具象的方法として評価された.しかし,亀渕迪らを加えたその後の研究によって,真空偏極による誘起電荷の無限大は近似方法によらず混合場によっては解決できないことが明らかになり,混合場の方法の限界は漸く見えてきた. くりこみ理論をめぐって一方量子電磁力学に関するくりこみ理論の成功は,目覚ましいものであった.しかし,50年代に入ると強い相互作用系であるp中間子についての計算と,漸く始まった加速器による実験との食い違いは大きく,また宇宙線実験によりすでに得られた2中間子論の証明に加えて,新しい粒子も続々見つかり始め,素粒子物理学の局面は次第に変わりつつあった.湯川はくりこみ理論の成功を一応評価しながらも,くり込みの手続きを正当化する根拠が理論のなかにないことを指摘して不満を表し,7)また朝永自身,量子電磁力学にくり込まれるにしてもその項が無限大であることに矛盾を表明していたのである.8)日本において素粒子(場の理)論に関する信頼は,極めて低いものとなった.坂田も,無限大回避の手続きは定義されているが,その物質的根拠を欠いたくり込み理論に不信を表明し,一方では自然界に現れる相互作用がくり込み可能か否かの判定基準を,梅沢,亀渕らと研究し,さらにまた新しく見いだされた粒子群に関して関心を深めていった.この頃坂田は「相互作用の構造」と題して,新しい研究方針の模索を開始した.そして一方では自然界に現れるさまざまな相互作用がすべてくり込み可能か否か,他方では新粒子を含みこれら粒子の間に見いだされる現象論的規則性,とくに中野菫夫・西島和彦およびGell-Mannによって発見された,強い相互作用を共有する粒子群(ハドロン)の間に成り立つ規則(NNG規則)および大根田定雄・小此木久一郎・岩田健三,崎田文二・筆者らによる弱い相互作用の普遍性の研究に注目した. 複合模型の提唱1954年春から秋にかけて坂田はCopenhagenに外遊したが,この時遺したノ−トを見ると中野・西島理論と武谷三段階論をいろんなところで紹介した跡が伺われる.また坂田は,Fermi・Yang(1949年)によるp中間子が核子と反核子とから構成されているとする理論に当初から関心をもっていたが,この関心は坂田が1940年,実験的確認に先立つこと10年,谷川と共同で中性p中間子が核子,反核子を媒介してγ崩壊しうることを,初めて提唱した時点に遡ると思われる.1955年秋,基礎物理学研究所では素粒子物理学のその後の研究計画に向けて大規模な研究会が予定され,坂田はその責任者となった.その準備のため研究室でも各研究員の報告が求められ,なかでも田中正のFermi・Yang模型による研究が報告された.田中の意図はNNG規則における新しい量子数(ストレンジネス)を,力学的自由度から導こうとするものであったが,それは容易ではなかった.その議論に刺激され,坂田はストレンジネスを担う実体を導入することを試み,それとしてストレンジ粒子のひとつΛ粒子をとることとした. おそらく坂田には,京大において卒論を用意する年(1932)発見された中性子によって,原子核の原子番号と質量数にかかわる秘密が晴れた当時の記憶が甦ったと思われる.9)こうして陽子(P)・中性子(N)・L粒子(L)およびそれら各反粒子をハドロンの基本粒子とし,他のハドロンはこれら基本粒子の複合系であるとする坂田模型が提唱されることとなった. しかし坂田模型に対する当時の一般的受け取り方は決して好意的なものではなく,NNG規則の単なる言いなおしに過ぎないものと見做されていた.しかし松本賢一は坂田模型に基づき,粒子の質量を構成粒子のそれと各構成粒子間のポテンシァル・エネルギーとの和という単純な表現で,加速器実験で見いだされた励起状態を含めてハドロンの質量を表すことを試みた.坂田は松本公式を原子核の質量公式に準えて大いにもち挙げ,自己の模型の妥当性を擁護していたが,胸中には別に確信に満ちたものがあったようである.事実坂田は,1956年春基礎物理学研究所で開かれたシンポジュウムで,当面の素粒子論の研究状況における困難の分析と研究方法について展望を述べている.10)それはかつて2中間子論を提唱した時の所論を彷彿させるものであるが,ここでも困難克服の方法として模型の変更を提唱しているのである.その後,坂田模型によればストレンジ粒子のレプトンへの崩壊にある種の規則性があることが大根田定雄らによって指摘されたが実験的検証も得られず,しばらく停滞の続いた坂田模型に関する研究であるが,それは模型に含まれる対称性の発見によって一歩前進することとなった. SU(3)対称性ここで筆者の関わりを述べることにする.さきに触れた相互作用の普遍性,とくに強い相互作用の普遍性は坂田模型における基本粒子間の同等性を示唆している.電荷(電磁相互作用)および質量における若干の相違を無視すれば,基本粒子は互に同等であり,したがってそれら粒子間の入れ替えに対し,理論は不変となろう.これと陽子・中性子間に見られる荷電不変の性質から,当時知られていたp,K中間子の電荷の自由度のほかに新しく中性中間子(現在hと呼ばれる)を加えて8個の粒子が一つの組(オクテット)を作って存在することが予言される.山口嘉夫もCERNにあって同様な考察を進めていた.さて筆者の依頼に対して大貫義郎は,この同質性が3次元のユニタリー群によって記述できることを見いだしてより一般的観点から新しい粒子の枠組みをつくり,さらに池田峰夫との協力で数学的な理論構築を行なった(1959).11)沢田昭二・米沢穣はさきの松本公式をこの対称性理論に適合するよう修正したが, それは当時続々加速器実験で発見されるハドロンの励起状態に−今から考えれば多分に偶然でもあるのだが−うまく符合し,坂田模型への関心を一挙に高めることになった.坂田はしかし対称性理論そのものへの関心はあまり示さず,むしろ上記の同質性を保証する物質的根拠を探しはじめるのである.現象論的規則の背後に物質的根拠の存在を,そして自然界の階層的構造を強調することは彼の持論であった.ちょうどその頃,Marshak一派が坂田模型の基本粒子とレプトン粒子との間に対応関係(BL対称性と呼ぶ)があることを見付けていた.この関係とさきの同質性とを物質の構造として理解すべく,坂田は牧二郎,中川昌美,大貫らと,坂田模型の基本粒子P, N, Lは,強い相互作用の源となるB物質(一種の電荷と云えようか)とニュートリノ(n),電子(e),m中間子(m)とのそれぞれ(超量子力学的に)結合したものとする模型(名古屋模型と呼ばれる)をハドロン・レプトンの統一模型として提唱した.B物質は今で云えばグルーオン場の先駆といえるかも知れないが,B物質と言ったところに当時の場の理論に対する不信感がよみとれる.実は坂田模型については,場の理論の観点から基本粒子間の強い相互作用を媒介するものとして中性ベクトル場を,すでに坂田のもとにあって藤井保憲が導入していた.彼はそれをゲージ場として導入することを考えたのだが,湯川の中間子論と同じく力の有限到達距離をだすためには媒介粒子の固有質量に帰着させざるを得ず,固有質量をもつ場をゲージ場とするためいろいろ工夫をこらしたが,結局対称性の自発的破れのメカニズムの知られていない当時としては理論的に無理であり,その頃の雰囲気もあって埋もれてしまったのであった. 新名古屋模型と重粒子オクテット模型の次の進展は,実験に先導されるものであった.一つはかつて坂田が気にしていたm中間子に伴うニュートリノ(nm)と電子のそれ(ne)とが同一か否かという答えが,BNLで否と出た.この事実を先の統一模型に組み入れるために,ハドロンの基本粒子を一つ(第4番目P'と記す)増やすことを,片山泰久,松本,田中,山田英二および牧,中川,坂田がそれぞれ独立に提唱(1962,新名古屋模型とよぶ)した.とくに後者では,弱い相互作用に見られる特長の分析から,neとnmの間に相互転化の振動現象が起り得ることを予見したが,これは現在も実験的関心を集めている. もう一つは,ハドロン粒子のうち重粒子群も,坂田模型の三つの基本粒子を含め新しく見つかった粒子とともにオクテットを作ることがだんだん確からしくなり,模型の変更が迫られて来た.1963年春坂田は広島で開かれた研究会で,重粒子のオクテットを取り上げ,さきの階層論の立場から陽子,中性子をもその複合系とする,より基本的要素(Ur-P,Ur-N,Ur-L)の探求を次の研究課題として述べている.この方針は64年牧によって具体化され,上記の基本要素から先ず従来通りオクテットを作り,それに新しく導入した基本重粒子要素を結合するのである.この方法は原康夫によっても独立に出された.実はそれに先立ってすでに1959年暮れ,山口嘉夫はCERNから坂田に手紙を寄せ,名古屋模型にヒントを得て3個のレプトンm, e, nでまずオクテットを作り,それに重粒子要素を結合する模型を述べている.重粒子オクテット説の多分最初であるが,残念ながら公表されていない.12) 坂田は研究室にあって,若い研究者との談笑をことのほか大切にし,またそれを好んだが,この頃が坂田のもっとも円熟した時であると思われる.研究室の忘年会で新聞を丸めて弟子と頭をたたき合ったり,餅つきに興じているフィルムが遺されている. 一方同じく1964年,全く斬新な模型がGell-MannとZweigによってそれぞれ独立に提唱された.それは基本要素として,もとの坂田模型の各要素の電荷をそれぞれ1/3減らしたもの(Gell-Mannに従いクォークと呼ばれ,PNLに対応してそれぞれudsと記す)をとり,現実の中間子は従来どおり要素と反要素の2体結合系とするが,重粒子は反要素を含まず要素だけの3体結合系とするのである(もちろん反重粒子は全て反要素からつくる).この3体系はオクテットの他に10個の粒子の組(デカプレット)をもつくり,その存在が実験的に確認されることによって,この新しい模型は次第に広く受け入れられることとなった.しかしMillikanの実験以来,素粒子の電荷は電子のそれを単位として0か1かであり,自然界に半端電荷は見いだされていない.この新しい要素の導入は,古代ギリシャ以来の原子論の発展に大きな影響を与えるものと筆者は考えるが,その意義は現在必ずしも明らかでない.事実,提唱者のひとりであるGell-Mannも,この要素の役割は理論構築の手段以上ではなく用が済めば棄てるものであるかのように述べてそれ以上の言明を避けている.一方坂田はこの新しい要素を彼の階層論の立場に沿うものとしてすんなり受け入れており,むしろその実在性をないがしろにするGell-Mannを批判しているのである.13)ところでクォークが電荷は別として,従来のフェルミ粒子と同じくフェルミ統計に従うとすると,これらクォークはさらに厳密なSU(3)対称性に従う三つの(カラーと呼ばれる)自由度を共有すべきことが,Han・南部陽一郎,宮本米二および堀尚一らによってそれぞれ独立に提唱されており,それはまたクォークが単体で(半端電荷が)見いだせないことの理論構築の可能性を与えている. 1粒子交換とクォーク組替振幅少し遡るが,武谷を中心とする湯川中間子論に基づく核力の研究グル−プは,1個のp中間子を交換する効果は比較的離れた領域での核力をうまく説明できるが,さらに近似を上げて2個の交換の効果を見ると,必ずしもよい結果が得られないことを示していた.一方坂田模型の立場から考えると,基本粒子間の相互作用が元であって,湯川型相互作用はそれから導かれたいわば有効相互作用と見做すべきことになる.坂田模型において色々な複合粒子の存在が予想されるとすれば,有効相互作用での近似を上げる前にそのことを優先して考えるべきではなかろうか.星崎憲夫,大槻昭一郎,亘和太郎,米沢はこうした考えに基づいて,粒子1個の交換ではあるが,p中間子の他に模型から予想される全ての粒子を考慮に入れて,近距離までの核力をかなりうまく説明できた.沢田,上田保,亘,米沢らは,さらにこの考えをp中間子・核子反応にまで広げて適用した. ところで,さきに中間子は2体系,重粒子は3体系と述べたが,強い相互作用系であるこれらの粒子には,通常の場の理論からすれば無数の要素・反要素の対が介在しているはずである.したがって2体,3体と云うときは,各粒子を特長づける量子数を担う,いわばこれらの対のくり込まれた最小数の要素について述べていると考えよう.この要素像にしたがって粒子の強い相互作用による崩壊を見ると,最初の粒子に存在していた要素・反要素が崩壊さきの粒子の中に残っているような過程がとくに優先している,という特長がある.大久保進,Zweig, 続いて飯塚重五郎によって見いだされたこの特長を,さきの一粒子交換による反応過程に適用し,それをFeynmann図に表すと,各要素の描くさまざまなラインの組み替え図が得られる.1967年,井町昌弘,松岡武夫,二宮勘助,沢田らによって始められたこの研究は,その頃盛んに行なわれていた分散理論による散乱振幅の研究と良く符合し,ハドロンの複合性を素粒子反応の面でも裏付けることとなった. 標準模型の成立1971年,丹生潔らのグループが宇宙線実験中,写真乾板上に見いだした新しい粒子の崩壊を示唆する軌跡が,次の発展の契機を与えることになった.林武美,川合栄一郎,松田正久,重枝新成と筆者は,この軌跡の分析からそれが従来のストレンジ粒子に同定できないことを見いだし,これをさきの新名古屋模型の第4番目P'に対応する要素(c-クォーク)の兆候とする予想と,その場合の粒子の崩壊の示す実験的特長を与えた.これが正しければ,クォークレベルであるが重粒子とレプトンとの対称性=新名古屋模型が予想した対称性は実験的に完結する.この予想は研究者の間に模型に関する注目を引くことになったが,なかでも小林,益川はWeinbergらの電磁・弱相互作用のゲージ場による統一理論と弱い相互作用に見られるCP変換に対する理論の毀れをともに保証するためには,少なくともさらにもう1世代のクォーク・レプトン(tb; ntt)が存在しなければならないことを結論した(1973).こうしてクォーク・レプトンの3世代の存在を核とする標準模型が成立するのであるが,加速器実験においても,翌年ようやく第2世代に属するハドロン(上記c-クォークを含みチャーム粒子と呼ばれる)が見いだされたのであった.14)しかし遺憾なことに坂田はこれらの発展を見ることなく,1970年10月16日逝去していた. 文 献
* 485愛知県小牧市桃ヶ丘1-13-14 |