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科学雑誌の戦前と戦後高田誠二*1. はじめにかれこれ60年間,さまざまな科学雑誌と付き合ってきて,いろいろ教えてもらったし時々は稿料も頂戴した.この際お礼をという気持で,この課題と取り組もうと思う. この課題に対する正攻法は,せっせと図書館に通って雑誌の大群と対面し,データベースや書誌学者の助けも借りながら公正不偏のサーベイをすることである.私自身は,数学物理学会100年記念事業1)等で学会誌,専門誌のサーベイをしたことがあり,今回も同じ姿勢を貫きたいのだが,この度は啓蒙誌,一般誌のサーベイも必要なので,探訪すべき図書館の数はむしろ増すはずなのに,与えられた助走期間は甚だ短い.それでこの際,公正不偏性は大胆に切り捨て,〈物理系の一読書人の科学雑誌に関する私的印象〉 プラス 〈case studiesによる多少の肉付け〉 で任を果たすことにしたい.師友諸氏に対する敬称および書誌事項の詳細は,不本意ながら省略する. 2. 明治の科学雑誌明治維新後の近代日本社会へ送り出された最初の学術誌「明六雑誌」は,明六社発足の明治6 (1873)年の翌年に創刊されたが,中味は総合雑誌であり,理系専門誌ではなかった.次の「学芸志林」(1877創刊) は東京大学法理文三学部編だから,理系の記事たとえばフランス人物理教師G. H. Bersonの魔鏡考も邦訳掲載した.2)ただし長続きせず,「明六…」は1875年,「…志林」は1886年に廃刊となる.学会誌のほうでは,周知の「東京数学会社雑誌」が1877年に発刊,今日の本誌へ繋っているのである. 続いて薬学,地学等の専門誌が生まれるが,〈自然科学を含む総合学芸雑誌〉を自認する「東洋学芸雑誌」の成立は1881年,〈英国誌Natureが目標〉だったから理系色は濃く,新元素発見とかグリニッジ経度の協定とかX線発見とか物理の教え方とか,up-to-dateな記事を載せた.大正の一時期「学芸」と改名したが,長命で1930年まで続く. 明治中期に至って,島津製作所の「理化学的工芸雑誌 (1886創刊)」,2)「サイエンス(1911創刊)」が,得意の電池・X線をはじめとする科学機具・計測器・新素材の原理や使い方を生き生きと説き始める.企業広報活動の先駆的な例だが,なかなか気宇壮大なものだった. その他,「太陽」という一般誌で千里眼問題が論じられたり,ローマ字普及のための雑誌で物理学者の寄稿が目立ったりしたのも,明治理学界特有の事象と言えよう. 3. CaseStudyI--寺田寅彦が購読・寄稿した雑誌物理学者・寺田寅彦(1878〜1935)の活動領域の広さ3)は,彼が購読および寄稿した雑誌の種類の多さからも窺える.彼が少年時代に購読あるいは借覧していた雑誌「日本の少年」,「文庫」,「少国民」の誌名変遷の跡は,寺田全集への注(矢島祐利担当)でわかる.「少国民」には理科記事もあったそうだ4)が,少年・寅彦は,雑誌・書籍を含め文芸・地歴・伝記なども広く読んでいた.中学5年の日記に「東洋学芸雑誌」のことが出始める.1896年4月5日,帰宅したら届いていたとあるので,家で購読していたに違いない.X線の発見と応用の報に接して驚くのだが,前年(1895)11月の欧州の出来事を半年足らずの時期に雑誌で知ったのだから,環境の良さといい,少年の早熟ぶりといい,並々のものではない.旧制高等学校に入ってからは英国誌Natureさえ購読し始める. 明治末(1903)に「理学界」が創刊される.寺田は大学院へ進み,帰朝した夏目漱石と再会して一層ふかく交際し,その勧めもあって小品“團栗”等を発表するが,掲載の場は文芸誌「ホトトギス」だった.「理学界」への寄稿は,助教授時代の“物理学の応用に就て”(1913), “方則に就て”(1915)以後ずっと続き,晩年の“物理学圏外の物理的現象”(1932)と“物質群として見た動物群”(1933,死去の前々年)に及ぶ.途中の“時の観念とエントロピー並にプロバビリテイ”(1917)はBoltzmann的な統計物理への言及としてすぐれている.平行して「東洋学芸雑誌」への寄稿も開始され,“物理学と感覚”(同1917)で今度はMachの物理観への共感を表明することになる. 他方,閲読誌は大学所蔵の各誌へ急速に拡張されて行くが,著名なPhil. Mag. について言えば,前時代的な論文“On Hanging" (1866)を読んで漱石に報じたりした(『我輩は猫である』(1905)の“首縊りの力学”のソース). 後に理化学研究所ができ寺田研究室が編成された時の話によると,寺田研が購読する専門誌の種類は甚だ多く,寺田はそれらに万遍なく眼を通し,興味ある題目を抽出して弟子の研究テーマにしたという.この話は,いわゆる寺田物理学のoriginalityを論ずる際の一ヒントになるだろう--液晶・ベナール対流・熱電気ベネディクス効果は,文献渉猟から生まれたテーマで,originalityよりはむしろ海外動向敏感体質(のやや屈曲したシンドローム)の産物だろう.逆に椿の花の落ち方・金平塘は,海外誌に依存しない独創の産物と評価できる.寺田物理学の功罪を断ずるには実直な科学史的吟味が必要だということをここで訴えたい.ただし残念ながらこの雑誌群は戦災で焼失した. 寺田の論文発表先は,数物学会・学士院・地震研・航空研・理研・水産講習所の彙報の類から気象集誌・地質学雑誌・火兵学会誌・コロイド科学会誌に及び,Nature, Phys. Rev., Phil. Mag. にわたる.ドイツのPhys. Z. に抄訳されたものも多い.研究領域の広さも抜群だが,更に多彩なのは,随筆と呼ばれるジャンルの作品である.主要な発表誌を分野別に示せば--【理学】理学界/現代之科学/東洋学芸雑誌/科学知識/科学/応用物理/理科教育/(東大)理学部会誌/Scientia【総合】中央公論/改造/思想/唯物論研究/日本及び日本人/週刊朝日/日本放送協会調査時報【文芸】渋柿/アララギ/ホトトギス/明星/赤い鳥/文芸春秋/文学界/文学/文芸/俳句研究/短歌研究/科学と文芸/電気と文芸【美術・映画】美術月報/中央美術/キネマ旬報/映画評論. 新聞記事や講座(とその月報)等を除いても以上のとおりであり,物理学者にして歌人・評論家だった石原純の寄稿範囲よりも更に広いと推察される.寺田の逝去に際して総合誌「思想」が出した追悼特集号は,彼の影響の広さを見事に証明している. 4. Case Study II--大正から昭和前期--原田三夫の活躍上記のほかに,寺田が一度も寄稿しなかった科学誌があったとは,ほとんど信じ難いことだが,それは確かに存在した--啓蒙家・原田三夫の闊達な活動4)のもとに刊行された雑誌群である.誌名・発刊年を整理すれば,「子供と科学」(1917),「少年科学」(1917),「科学画報」(1923),「子供の科学」(1924)となる.拠点は誠文堂新光社. 原田は札幌農学校で有島武郎に私淑,東大で植物を専攻し教職を兼ね翻訳に携わり,科学ジャーナリズムに開眼,科学知識普及協会「科学知識」創刊(1921)にも携わった. 「科学画報」創刊号は,ラジオ・農村・桜草・光の速さについての専門家記事を目玉とし,原田自身が欧米科学雑誌に取材した各種記事を織り込んだものだった. 「子供の科学」創刊号口絵にグラビア(月面の望遠鏡写真)を使ったのは日本の雑誌では最初だったらしい.1942年には軍寄りの雑誌「国民科学グラフ」に関与,1945年には札幌へ移りラジオで科学普及を担当.終戦直後に中谷宇吉郎への接近を試みたが,一蹴されたそうだ.4) 原田の活動は「宇宙旅行」等へ続くが,ここで彼の仕事ぶりを一考しておこう.実を言えば私は小学初期に,兄の購読する「科学画報」,「子供の科学」を手にし,旧制中学の半ばまで愛読した.2誌を選んだのは,土木屋の父または物理屋の叔父だが,私の愛読の一因は原田の書きぶりにあった--正月号であれば「やっ諸君,新年おめでとう」という具合に始まり,そのままの調子で1月の星座・虫の冬眠・今年の機関車などを説くのだ.お蔭で私は,ひとかどの天文通・昆虫マニア・模型工作好きになった. しかし私は今日いうところのオタクにはならなかった.牧野富太郎は偉いのだろうが雑誌に載る植物談議は中途半端だし,野尻抱影の古典素養は奥深いらしいが星座神話も毎年くり返されれば飽きる.中学後半から高校にかかる時期,原田の雑誌に代わって私の机辺に置かれたのは,叔父が届けてくれた仁科芳雄監修の「図解科学」だった. さて,原田と寺田との間に接触がなかった理由を,私は私なりに推測する--〈書きぶり〉ひいてはその根底にあるジャーナリズム観が大幅に違っていたのだと.奔放な原田4)はアカデミズムに取り入ろうとはしなかった.他方,寺田は,権威主義に抗したが,良家の出としての慎みや学者としての誇りを捨てることはなかった.こうした差が,ジャーナリズムでは違和感として強く働く.中谷の場合にしても,原田との距離はむしろ小さかっただろうに,接近が不首尾だったのはやはり違和感のせいであろう. 中学生だった私は,「図解科学」の現代科学説話はもとより,「科学画報」の中の性科学寄りの暗喩なども理解できるはずはなかったのだが,それはそれとして,ジュニアー・ジャーナル(または,より広くポピュラー・ジャーナル)にまとわり付いている〈敷居〉のようなものを次第に感知し,うっとうしく思うに至ったのであった. 5. 昭和ふた桁--特に昭和16 (1941)年私たちの世代の中学生が上級にさしかかった頃,日本の社会は大変な状況に向かいつつあったが,科学雑誌は意外な程の賑わいを見せるようになる. すでに,原田の雑誌より早い時期に,そして,より高い水準で,「現代之科学」(1913)が一戸直蔵の手で刊行されていた.更に,大正末から昭和に入る段階で,まさに最高の水準と称すべき2誌が誕生する--「自然科学」(改造社,1913年12月印刷,1914年1月1日発行)と「科学」(岩波書店,1931)である.「自然科学」創刊号後記にいわく「本誌は自然科学の研究と普及のため,斯界の権威に乞うて,その圧窄されたる精髄のみを登載する」と--まぶしい程の自負である.物理系の記事も“自然科学に於ける物質概念(石原)”,“ギリシヤ科学に於ける物理的科学の発生(桑木ケ雄)”,“最近の物理学説(石原)”,“彗星の研究(新城新蔵)” と,豪華に並んでいた. 「自然科学」は1929年に休刊となるが,岩波「科学」は還暦を過ぎた今も健在である.その他に,学術研究会議(1920創設)の論文誌「日本物理学輯報」(1922)や,一般誌「科学の世界」(1925)が発刊されたが,この時期の大トピックス〈アインシュタイン来朝〉に関連して,雑誌「改造」が派手なキャンペインを繰り広げた(1922)こと2)も忘れ難い.その前後,三高の生徒だった朝永振一郎は,父君の哲学者・三十郎の元に届けられていた「思想」(岩波)を,父が読んだ後で手に取り,科学雑録など(石原ら)の欄をむさぼり読んで理論物理志向を固めたそうだ.5) 「世界文化」(1935〜37,京都)は,武谷三男の論文を何度か載せた.その武谷が「子供の科学」や「科学画報」も読んでいたという話1)は,示唆的である. 「科学ペン」(1936, 三省堂)は批判精神に富み,他誌掲載記事の紹介論評に誌面をさいた.ナチスドイツやソビエトの科学事情にも敏感だった.“科学術語の統制”という短文を抄録しよう-「術語の無用な漢字化には反対….スペクトルとかエントロピーとか…の言葉は万国共通語である.…漢字化した所で徒に語彙を増すのみ…テレフォンと書いてあった公衆電話函をフェルンシュプレヒヤーと塗直している国でさえ,科学用の万国共通のラテン系の術語を依然用いているではないか(渡邊彗)」(1937). 1941〜42年のビッグな創刊ニュースを月単位で示そう--「科学朝日」1941年11月(朝日新聞社),「図解科学」41年12月(中央公論社),「科学史研究」41年12月 (日本科学史学会/岩波書店),「科学文化」41年12月(科学文化協会),「科学日本」42年4月(大日本出版). 論評は後まわしとし,差し当たり,物理学史研究にかかわることを少々見ておきたい.「科学日本」は,国立国会図書館の目録(1988年版)には1942年4月第1号から7月第4号までしか記載されていないそうだ(大森一彦氏ご教示)が,科学史家・天野清の3篇をはじめ,科学史記事を数多く載せた.「科学史研究」No. 4+5 (1943)の文献集成欄に「科学日本」1942年の論文24編の記載がある.また「科学文化」1943年3月号特輯 『科学史入門』 では,物理の項を皆川理が担当し,核爆発の可能性に言及した. 6. Case Study III--『科学技術年鑑』(1942〜43)戦局深刻化を余所に科学雑誌界は一層の賑いを呈する.その実態を図書館で追認するのは困難だが,厚い年鑑6)(これも時局の産物!)のお蔭で,大勢は一望できる. まず,1943年鑑の“科学技術関係雑誌要覧”を見よう.延々18ページにわたるそのボリュームはすさまじいが,今は,関連の強い分野の誌名のみを列挙する. 1. 科学技術(イ)科学技術一般:科学/科学知識/科学画報/科学技術/科学朝日/科学思潮/日本の科学/科学評論(福岡・東京)/科学と工業(大阪)/図解科学/科学文化(協会・社).その他に満州台湾/発明特許/映画/博覧会/博物館/公園などの分野 (ロ)科学技術政策: 科学主義工業/技術評論 (ハ)科学技術教育: 技術と教育/現場技術/青年技術/学生の科学/子供の科学/児童科学絵本/理科教育/数学教育/中等教育数学会誌/手工研究/工場家庭学校/小学校教材研究/保健教育/産業教育.他に模型などの分野 (ニ)生活科学 (ホ)厚生科学 (ヘ)国防科学 2. 自然科学(イ)自然科学一般 (ロ)数学 (ハ)天文・気象学 (ニ)物理学: 基礎研究(工業雑誌社)/理学界/応用物理/電子(電気書院)/X線(阪大)/地球物理(京大)/理科評論(日本地理学会).学校別に:理科報告(東北大)/台北帝国大学理学部紀要/東京物理学校雑誌 (ホ)地質・鉱物・地理学 (ヘ)生物学(博物学) (ト)化学 (チ)医学 大分類は,更に3.応用科学,4.産業科学,5.その他と続く. 我らの数学物理学会の「記事」,「会誌」は,理研彙報などと共に 2. (イ)自然科学一般に記載されている. 次に,1942年刊“科学技術関係出版界の動向”の分析結果を抄録しよう. 1942年に於ける科学技術関係の出版は…かなりの盛況を呈しているが,仔細に見ると1.通俗科学書の過多(及び悪質),2.科学技術の歴史書の氾濫,3.科学専門書の過少,4.米英図書の翻刻乱発,5.外国書翻訳の過多,6.科学者技術者の随筆の氾濫などの諸点に憂うべき傾向が認められる(芝亀吉). 雑誌事情への直接のコメントではないが,図書界の実態への鋭い批判として貴重である. 7. Case Study IV--戦争は終結したが学会誌は戦時下の科学雑誌は外見上でこそ華やかな進展を続けたが,やがて用紙不足に悩み,印刷後に空襲で焼かれる例も増して,1945年にはほぼ休刊の状態に陥る. 戦争終結前後の本学会の動きは別途に述べられるだろうが,ここでは総合文献7)の着眼を借りて当時の学会誌の状況を分析したい.この文献は「学会雑誌の出版は,研究成果発表という立場からいって,学会の諸事業のうち,最も重要」と評価し,「のみならず,…すべての研究発表手段のうち,最も権威あるもの」と強調し,統計資料を分析した後に,二つの学会を例として戦後事情を総括している([…] は高田が補った). 日本遺伝学会について見ると…1930〜34年度に比すれば,1951年度は会費において125倍,会員数において1.65倍に上昇しているに反し,[会誌の]総頁数はやっとその水準に迫ったというに過ぎない.…雑誌を昔日の水準に達せしめるには足りない.…また,日本物理学会雑誌に掲載された資料7)によれば,同誌も,最近はほぼ昔日の水準に復しているようである. ここには,遺伝学会の指数に当たる物理学会の値が示されていないので,試算しよう.ただし1951年のデータはないので1949年のデータを使い,独立前の会員数・頁数のうち物理が占める割合は,独立時点での会員数比率0.702に等しいとする.試算結果は次のとおり-- 1930年に比し1947年には 会員数:2 358名÷678名=3.48倍, 会誌総頁数:1 223p÷539p=2.27倍. これを見れば,物理関係の学会活動の復興が遺伝学関係のそれよりも急速だったことは主張できよう.両分野の規模や社会的な機能の違いはもちろん考慮すべきだが,物理のほうでは1946年4月からの学会誌(邦文)とJournal(欧文)に加え7月のProgress(理論の欧文誌)創刊,1947年6月の「物性論研究」復刊,1949年8月の「素粒子論研究」創刊もあった8)のだから,1949年で‘昔日の水準’を超えたと判断しても不当ではない. しかしながら,物理分野とて,労せずしてそこに至ったわけではない.その間の消息を裏付ける生々しい記録が学会の古い書類の中に残っている.9)雑誌刊行費支払い延期とか赤字対策委員会とかの苦労話から名誉会員制度創設への展開--このストーリー9)は,50周年の機会に再読されるべきであり,今後に語り継がれるべきであると信ずる. 8. 戦後--再生と新生焦土のさ中で学会が復興に腐心していた頃,科学雑誌は何度目かの高揚期を迎える.ただし,1945年を境にしてどの雑誌が生き永らえ,どんな雑誌が新たに生まれたか--その網羅的な分析は容易でない.特徴的な事例に寄り添って考察を進めることにする. 生き永らえた勝れ物の中に「科学朝日」があった.1944年は“戦争と新しい物理学”特集で始まり“覆面を脱いだ皇軍新鋭機集”で終る.45年6月号では“壕舎建築とその生活”が目立つ.7月号には“どんぐりの食糧化”と並んで“ウラニウム原子爆弾”が姿を現す.そして断絶なしに8月・9月合併号が出され,“特集・新生の科学日本に寄せる”が13人の手で書かれる.10月特集で秘匿兵器(気球爆弾・特攻魚雷艇・殺人光線)の覆面が剥がされる.1943年4月で段落だった湯川秀樹連載“物理学入門”が1946年10月 “理論物理学講話”でリバイバル,そして1948年の渡米記,1950年のノーベル賞受賞所見と続く.10) さて,この推移は連続性の顕現なのか即応性の所産なのか.私は,出版側のプロ根性には敬意を惜しまないが,転轍のスマートさにはいささか無気味なものを感ずる. 「科学」は,1945年に2冊,46年に8冊しか刊行できないという苦渋を味わったが,45年秋の巻頭言“気宇を広大に”でペースを整え,基礎科学的な労作を次々と掲載して在来の見識を蘇生させたのはさすがであった. 対照的に「自然」(1946年4月,中央公論社)は,「図解科学」の路線を継ぐものだったにせよ,生まれ育つための悩みをいくつか味わわなければならなかったようだ.草創期の各号には,仁科芳雄や小倉金之助の短いがシャープな論説,湯浅光朝連載の総合科学史年表が並び,また,32ページの創刊号では梅沢浜夫のペニシリン解説が9ページをも占めていた.その他,本文より長い注の付いた原子力記事や内外人物論,あけすけな調子の書評,しばらく後に連載された広重徹の現代日本科学の社会史11)も強い印象を残した.日本学術会議について言えば,「科学朝日」は報道するものの論評はしないのだが,「自然」は学術会議の助走段階から取材体制を固めてフォロウを続け,事柄によっては激しい論陣を張った--やはり「科学朝日」は老舗,「自然」は戦後っ子だったのだ. 戦後っ子たちをランダムに紹介しよう--1946年に「自然科学」(民主主義科学者協会),47年に「アトム」,「科学季刊」,「科学圏」,「基礎科学」,「Saiensu」(ローマ字書き),「虹」.やや遅れて1955年に「国民の科学」.実験重視の「科学と実験」(共立出版)は「科学の実験」(1950)の継承で1980年に改称されたが,83年に休刊. ジュニア向けには「科学の学校」(岩波書店,1950)があった.今日,中堅またはそろそろ定年という先生がたの間で,かつて(修学期に)この雑誌を愛読したという話が時々出る.当時の単元(こまぎれ)教育を不満とした人びとが,より総合的な教育を意図して発案したもので,図版も見事だった.単行本にまとめられた(1955)が,この達成は,ずっと後の「岩波ジュニア科学講座」(10巻,1984)にも影を落としているという.12) 一方,科学史の立場から「物理学史研究」が創刊された(1958). 創刊号(ガリ版)は,表紙に日本科学史学会物理学史分科会と日本物理学会物理学史懇談会の名を掲げ,本文にはギリシャ古典の翻訳・Einstein論・原子力ソースブックの書評・米国科学政策論の紹介等々を載せ,賑やかだった.1975年に廃刊,初期論文の集成13)という経緯の延長線上で雑誌「物理学史ノート」(日大理工・物理学科・科学史研究室)が1991年から機能している. 9. 現代のトレンド不運なことに戦後っ子たちはおおむね短命だった.風雲児「自然」も1971年に廃刊の憂き目を見る.「フィジクス」(1979,海洋出版)の諸特集は,全部が成功だったとは言い難いようだ.「日本の科学と技術」(日本科学技術振興財団)も特集主義だったが,1995年に休刊となった. 前後して登場した下記の雑誌は,概してビジュアル素材に富み,おおむねハデ造りである. 「日経サイエンス」(1971,日経サイエンス社).他誌掲載の 〈我が雑誌の履歴書〉 という記事に 〈読者対象:幅広く自然科学に興味を持つ人々.産業界・大学などの研究者・技術者が中心〉,〈雑誌のコンセプト:すべての自然科学の最先端でもっとも重要なテーマを,世界の超一流の科学者が執筆〉とある.米国誌Scientific Americanの日本版だが,読者層には経営者(科学技術記事を趣味教養の眼ではなくビジネスの眼で読む人)が多いのではないか.経済新聞のトーンとの間に親近性があるのかもしれない. 「ニュートン」(1980, 教育社).編集長・竹内均は地球物理を専攻し,寺田随筆“茶碗の湯” (1922)に感銘を受けて科学ジャーナリズムへの関心を深めた. 「クオーク」(1987,講談社).ビジュアル性を強調し,生物・医学とくに脳の問題に熱心である. 「パリテイ」(1985,丸善)は,米国誌Phys. Todayと提携で,守備範囲は広く,天体・生物・医療の物理や化学物理・音響学も扱う.特集“物理科学,この1年”は貴重. 「数理科学」(1963, サイエンス社)は,誌名違反ではないかとハラハラする程に物理色の濃い特集を時々出してくれる.“物理量のイメージ”(1995年5月の特集)は私にとって大いに刺激的であった. 「年報科学・技術・社会」(1992,弘学出版)は,かつての「自然」が得意とした科学技術の社会機能論や史的批評を,より鋭く集積してゆくものと期待される.外国人が日本語で書いた日本技術史論文など,これまでの日本雑誌では見かけなかったものも現われ始めた. 10. 書き手の品定め・編集の隠し味既に述べたが,私の科学誌遍歴の一転機は「科学画報」から「図解科学」への移行という形で到来した.主な誘因は「図解…」の伏見康治の解説“飛び交う分子”等にあった.学校で教わる説とは別の,学校では教えてくれそうにない‘解釈’が横溢していたからだ.その伏見は,1941年に仁科からの電報を受け‘鞠躬如’として駅に出向き,その意を体して「図解科学」連載に取りかかる.14)仁科の人選と伏見の応答が絶妙のマッチングを見せたこの時から,日本の科学雑誌に一つの新風が吹き入れられたのだ. 伏見の弟子・内山は,「他の人がゴテゴテと推論してやっと辿りついた結論を,非常にスマートな方法で導いて,…明快なものに再構成して見せる」伏見の能力を絶賛している.15)これこそ,科学雑誌記事ライターに望まれる能力の筆頭に挙げられるべきものと信ずる. 話は戻るが,「科学朝日」は今年で通算55巻.10)人気の秘密は,程よくジャーナリスティックな編集方針に帰すると言えよう(ドライブ,ヒット商品,占いなどのテーマがそれを立証する).科学のプロでない書き手(岡部冬彦・幸田文・曾野綾子・筒井康隆ら)の登用も新鮮味の源泉になっている.片や「科学」は既に65巻.ますます端正典雅なのは長老の風格のゆえか.かつて‘寄書’欄に並んでいた読者の新‘提案’とか別‘解釈’とかの覇気は,現今,池内了の連載“転回の時代に”へ受け継がれていると言えるが,独り舞台では淋しかろう.意見のクロス・オーバーを望む若手は沢山いるはずだ. さて,そもそも編集方針・著者などはどうやって決めるべきなのか?「科学」と「自然」の編集に深く関与された方の座談会発言5)を参考に供して結びとしたい. 牧野:雑誌「科学」で私がやったときの体験では,編集の先生方の同意を得て,物理の論文を載せるのはなかなか難しかったのです.どうせ難しくてわからないといったり,誰がちゃんと書けるのだということになってしまいます.それに比べると,「自然」は伸び伸びと物理を扱っていましたね. 岡部:(「自然」には)偉い編集委員の先生がいなかったものですから(笑). 文 献
校正時の付記.本稿執筆後に貴重な論述が発表された-中山茂・後藤邦夫・吉岡斉編:『通史 日本の科学技術』(学陽書房1955).第1巻,p. 338-347.若松征男:「空前絶後の科学雑誌ブーム」. * 168東京都杉並区浜田山4-17-7 |