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物理学進歩への期待植之原道行〈日本電気株式会社 108-01東京都港区芝5-7-1 e-mail: mickey@rdg.cl.nec.co.jp〉産業革命によって近代工業が進歩発展し,我々の物的生活レベルは大幅に向上してきた.この背景には,自然科学の知識に裏付けされた基盤技術の進歩があった.産業革命以前の技術は,経験と勘による技能の域を出るものではなかったし,科学は産業とは無関係で,自然の哲理を探究する哲学の一部であった.科学と技術は無関係であった. 産業革命前後から,技能によって構築され,活用されていた機械に興味を持った科学者が,水車から水力学,蒸気機関から熱力学,構造物から構造力学のヒントを得て発達させ,産業技術は大きく進歩発達し,産業も急速に発展してきた.市民の中に技能と知恵に関心を持った科学者が,それらの中に埋もれて顕在化されていない原理原則を体系化し,より多くの人が理解し活用できる知識として顕在化したのが近代の科学であり,それらの科学知識に裏付けされて,素晴らしい技能が誰でも活用できる技術へと発展してきたのが現代の産業技術である. 基礎研究を推進すれば新しい技術が創造され,新しい産業が生まれるとよく言われるが,現実とはかなりかけ離れた言論である.原子力発電やトランジスタの発明は,原子物理や半導体物性の基礎研究の成果が基盤となって生まれたものであるが,今でも社会のニーズに応えるために考案され,未熟な技術で試作されたものが新事業の発端となっているものが圧倒的に多い.それらが産業技術の研究開発や目的を持った基礎研究によって,より普遍的で発展性のある科学知識や共通基盤技術で裏付けされてくるにしたがい,多くの研究者や企業が参入し,技術革新と呼ばれるほどの一大産業へ発展してきているのである. 発明は社会のニーズに対する広い知識と問題意識がなければ生まれない.新しい発見の多くは,全く異なる目的の研究途上になされることが屡々ある.同じ現象を観察していても,それが重要な発見であると認識できる人は以外と少ない.認識できるかできないかは,問題意識を持っているか否かにかかっている.問題意識を持っているということは,そのような現象を必要とするニーズがあることを知っていることである.企業の研究開発の生産性は,市場のニーズと技術の相関性を持っているか否かによって大きく変わると言われている.基礎研究が優れた成果を生むか否かは,学問的にせよ社会への応用にせよ,少なくともマクロなニーズを意識しているか否かにかかっていると言ってよいと思う. 工業社会から高度情報社会へ移行するにしたがい,産業技術は急速にハードウェア技術からソフトウェア技術へと比重が移りつつある.かつては全盛を極めたアメリカ企業の多くは,ソフトウェア・サイエンスの研究を拡大するために,フィジカル・サイエンスの研究を縮小している.しかしながら,ハードウェア技術の重要度が減ったわけではない.優れたハードウェアがなければ,ソフトウェアの生産性は向上できないからである.また機械をより人間に親しみやすいものにするためには,人間と機械のコミュニケーション能力を大幅に向上させなければならない.そのためには高度な技術を駆使しながらも,技術を利用者に感じさせないハードウェアが必要である. 地球環境問題や資源エネルギー問題を解決するためには,あまりにも未知の科学知識が多すぎる.現在製造業では,製品の生産から,利用者の手に渡って活用され,用済みとなって廃棄され,再資源化されるまでの全周期にわたる環境負荷を評価するLCA (Life cycle Analysis)を義務付けられようとしている.しかし部分的なLCA分析は可能でも,物質の人体や環境への影響まで考慮して環境負荷を分析するとなると,あまりにもデータ不足であることが明白となってきた.科学技術は大きく進歩発展してきたとはいえ,未知のことが多すぎるのに愕然としている. 世界中の大学や研究機関で,莫大な数の物理学者が日夜研究に没頭してきた筈なのに,どうしてこんな身近なデータが不足しているのであろうか.恐らく多くの人が,学会の流行に引きずられて,しっかりとした問題意識もないままに,重箱の隅をほじくるような実験や理論計算に貴重な時間と労力を消費してこられたのではなかろうかと疑いたくなる.研究室という蛸壺から出て社会の動向を学び,どんな基礎問題が研究されることを社会は真に望んでいるのか,肌で感じとって欲しい. 企業の研究所の中には,新学問として創造される可能性のあるノーハウがある.深く研究しなければならない基礎研究の種は一杯転がっている.厳しい競争の事業環境の中では,そのような課題を研究したくても無視して走らざるをえない苦しさがある.その中には恐らく画期的な基礎研究の成果につながるものが少なからずある筈である.日本で新しい物理学が生まれることを切望している. |