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周辺からみた物理

子どものための科学の本

百々佑利子*


子どもの本に携わる私達は,ファンタジーとリアリズムという分け方をすることがよくある.定義は難しいがファンタジーに分類されるのは,ふしぎで奇想天外,信じたい人の目にのみ真実が見えてくるという,読者に全幅の信頼を置く楽しい世界の物語だ.ファンタジー文学の代表作にLewis Carroll作『ふしぎの国のアリス』がある.主人公である少女アリスは,白兎について穴に飛び込み,連続して非日常的なできごとに出くわす.

科学の本は,常識的にいってリアリズムの本として分類されるだろう.しかし,ついさきごろ訳出というかたちで子どもの科学の本とつきあったときに,私はファンタジー文学を読んでいるような(訳しているような)感動を覚えた.その感動は,アリスの本を読みながらアリスとともに「ふしぎの国」でのふしぎなできごとを体験していくときに感じる興奮と,質的にそう変わりはなかった.科学の本が,なぜファンタスティックな感動を呼び覚ましたのか.少々の訳出体験しかなく,訳したのも物理学の本ばかりでなく,また自分が訳した本を取り上げるはしたない所行はお許し頂きたいが,ともかく考えてみる機会を得たのである.

最近訳したのは,『いのちの木』(Barbara Bash文・絵)および『マリー・キュリー』と『パストゥール』(ともにSteve Parker著.3冊とも岩波書店刊行)である.『いのちの木』は,小学校低学年からの子どもを対象とした美しい絵本だ.アフリカのサバンナに自生するバオバブの木が育む多彩な生命を描いている.作者は装飾書体に凝る書家である.文字の姿を追求するうち,動物や植物の姿が気になりだし写生を始めた.やがて動植物のきめ細かな写生を確かなものにするために,自然界の観察に熱中するようになる.この経緯があって,文,絵ともBashによるバオバブを扱った科学絵本が生まれたのである.合理的で神秘的で優しい自然の営みに抱いた作者の感動は,各頁の精密で力強い絵に流れている.科学者の方々にもそれは分かちあってもらえるだろう.何しろバオバブときたら,アリスが訪れた地底のふしぎの国以上にふしぎな世界を,たった1本の木の内と周りとに形成している.そのこと自体は科学的に説明でき,ファンタジーとはいえないが,世界の驚異は非日常的であり,子どもはファンタジー文学から得る感動を,この絵本からも受け取るだろう.

科学者でない訳者にとって『マリー・キュリー』と『パストゥール』の訳出は無謀であり専門家のチェックを頂いてはじめて可能になった.そもそもなぜこの仕事に魅かれたかと問われても,「ふしぎの」国に通じる穴へアリスが後先を考えないで飛び込んだように,我知らず物理学や化学や細菌学の世界へ飛び込んでしまったとしかいえない.我知らずという気持ちを起こさせたのは,未知というだけで一層ファンタジー的要素が濃く思える科学の吸引力だったかもしれない.無責任な怖いもの知らずの側面もあるが,ラジウムや細菌の世界を,生まれてはじめて,絵本という小さな窓から覗く子ども達が,ファンタジーの世界に浸るときの,ときめきを覚えてくれればという期待ももった.

この2冊は『ニュートン』『ガリレオ』など他の6冊とともに「世界を変えた科学者」のシリーズに入っている.他の訳者の方々は,各分野の専門家である.全冊の執筆者ParkerはBash同様,科学者でなくジャーナリストだ.科学の素人である著者や訳者による本は,専門家の厳しい批判に耐えられないところがあるだろう.その点はいつでも御教示を頂きたいと思う.訳者として印象に残ったのは,科学者は人間を愛する人々だという著者の信念だ.子どもの本が素朴で明快な信念に支えられているのは,大切なことである.

各冊が科学者の生涯と研究や業績について書かれている.写真やイラストなど豊富な視覚資料は理解の助けになるだろう.対象は小学校高学年生徒から中学生までである.研究の内容,例えば「原子と放射能」(Curie)の説明の頁はちょっと難しいねと思う読者もいるだろう.若い女性が貧困と孤独を道連れに異国で勉学にいそしんだくだりを読んで感激する読者も出るだろう.読者の年齢や体験の積み重ねによって読み方が異なるのは当然である.百年近くも前に科学の道を歩んだ人々の一生や,当時は誰も知らなかったことを発見していく過程は,よくできた本が呈示する場合,すぐれたファンタジー文学と同じ感動を与える.

ファンタジーになぜ拘るのか,という問いが聞こえてきそうだ.児童文学と子どもに関わっていて思うことをまとめると次の3点になる.まず単純ながら,今の子ども達にもっと本を読んでほしい.次に読み通してもらうために,昔話も創作文学も科学の本も,子どもの本はファンタジー文学の魅力を備えていなければならない.最後に子どものための科学の本の選択肢はもっと多くあるべきだ,ということである.物理学者を含め科学者が,子どもの本にどう目配りなさっているか知らずに申し上げるのだが,科学者が活字や絵という媒体を通して子ども達にどしどし語りかけて下さるよう願っている.専門家の手になる年長の若者向けの本,成人するまで物理や化学や生物への興味が持続するように誘う本が多くほしい.いや,子どもの本の世界を広げるために,物理学者にもファンタジー文学を書いて頂きたいと願うべきかもしれない.『ふしぎの国のアリス』の生みの親は,Oxford大学の数学者であった.


花型の結晶

図(a)はSi2Cl6+NH3+H2系を用いて約1200℃の温度域で得られたアモルファスの窒化ケイ素ウイスカーのSEM写真である.
 石英管の中央に置かれた石英ボート中に,Si基板を置き,その上にCr粉末を分散させ,CrCl3+H2+Arの混合ガスを送り込み,温度約900℃で反応させると,Si基板上に図(b)に見られるようなCr5Si3の結晶が成長した.この結晶は六万晶系に属しているので、六角形をした渦巻状の花形を示している.



* 112東京都文京区小日向2-26-9 児童文学翻訳家