|
現代物理学からの世界観の確立を竹内 啓〈明治学院大学国際学部 244横浜市戸塚区上倉田町1518 e-mail: Keiy@k.meijigakuin.ac.jp〉現代社会において,ふつうの人々はNewton的世界観,宇宙観にたっていると思う.Newton力学そのものについて,ほとんど何も知らない人々から,一通りの知識を持つ人々,あるいは最先端の科学研究に従事している人々でも日常生活においては,Newton的宇宙観をごく当たり前のこととして受け入れていると思う.具体的にいえば,Euclid空間としての絶対的時間空間,客観実在としての物質,決定論的な因果性などの概念を人々は自然なものと理解しているのではなかろうか. いうまでもなく,このような概念は20世紀物理学によって根本から揺るがされたのであった.しかし量子論の確立以来60年を経ているにもかかわらず,大部分の科学者を含めてほとんどすべての人々の世界観,宇宙観は全くそれに影響されていないように思われる.理論物理学者はこの点をどのように考えているのであろうか. 一つの考え方は,「素人には正しい理論はわからない.だから素人がNewton力学のような迷信の中に生きていても,放っておくより仕方がない」ということであろう.これは,例えば生物学者が「世の中の大多数の人々が,世界がBC4004年に創造されたという説を信じていても放っておけばよい」というのと同じことになるのではなかろうか.本当にNewton力学が「創造説」と同じような「迷信」であるならば,それを批判することはやはり学者としての義務ではなかろうか. もう一つの考え方は,Humeが自分の懐疑説について「『私というものは,単なるバラバラの印象の系列にすぎない』というのは哲学上の真理だが,日常的な社会生活の中では私というものの人格的な一貫性を疑う必要はない」といったように,「物理学の理論の世界」と「日常的な世界」を区別して,前者においてはNewton的世界観で十分であるとするものである.もう少し言い換えて「マクロの世界ではNewton的近似で十分である」といういい方もできるかもしれない.しかし絶対的時空と相対的時空,決定論と確率論,唯物論とその否定というような問題を,前者には後者の「便利な近似である」といってすますことができるであろうか. 実際にNewton的な世界観が,現代物理学の理論に照らして「誤り」であるというならば,そのことを明確に示して「正しい世界観」を主張すべきである.そのとき数学的理論の難しさは,それを避ける理由にはならないと思う.Newton力学の微分方程式が全く理解できない人々の間にも,Newton的世界観は完全に浸透しているのである. 大切なことは,相対論や量子論の意味するところを,物理学の理論の中の「奇妙な世界」としてではなく,人々が現実に起きている世界における具体的な事実として何を表しているかという点から説明することである. 例えば一つの問題として「確率」の概念がある.古典的世界観の中では,Laplaceがしたように観測者の無知と結びつけられるか,あるいはMisesのような集団現象の中の頻度として定義されている.いずれにしても一回限りの現象そのものの「確率」というものを入れる余地はない.そうして確率モデルが日常的現象に応用されるときは,このような古典的な確率概念で十分である.しかし量子力学において,Schr このような考え方の展開,つまり「唯物論」を「唯確率論」に替えるというようなことがあまり浅薄な形で流行することは,かえって望ましくないが,しかしもしその方が物理学の基本原理と両立するというのであれば,結局は人々の日常的な世界観,宇宙観にまで,それは波及せざるを得ない.そうしてまたそれは長期的に科学のすべての分野に深い影響を及ぼすであろう. 世界観,宇宙観をめぐる「物理学者と哲学者の討論」などというものは,しばしば「スレ違イ」に終わり,フラストレーションが残るだけということになるようである.実は物理学者の間でも,哲学的問題に関する見解は必ずしも一致していない点もあるようである.しかし少なくとも基本的な点で20世紀物理学の起こした世界観,宇宙観上の大革命を,人々の共通のものとするよう努力することは,やはり物理学者の責務ではないだろうか. |