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50年をかえりみる

宇宙線研究50年の歩み

西村 純 

〈神奈川大学工学部 221横浜市神奈川区六角橋3-27-1〉

はじめに

宇宙線が発見されたのは1912年オーストリアの科学者V.F. Hessによる気球実験であった.Hessは自ら自由気球に乗り,高度4 kmまで昇って気体の電離度がふえることを観測し,エネルギーの極めて高い放射線が宇宙から入射していると推論した.ここに現代の飛翔体による宇宙科学研究の原形を見ることができる.数多くの追試と討論の末,宇宙物理学的な研究と新粒子の発見がもたらされ,学問の一つの分野として成立するのは1930年代のことである.宇宙線研究の精神は未掘の鉱山から未知の鉱石を掘り出すことにあった.

日本での宇宙線の研究も1930年代に入って始っている.わが国の近代物理学の発祥は戦前の理化学研究所に見ることができるが,宇宙線の組織的研究の始まりもまた理研の仁科研究室に見ることができる.直径40cmのマグネット霧箱,清水トンネルでの地下実験,安定な連続観測を可能にする大型電離箱,そして気球観測.C.Anderson達の発見に一足遅れたものの,「陽電子やm中間子の発見」,世界で最深の地下実験(水深に直して3,000 m).戦争で実現に至らなかったが,異なる地磁気緯度の宇宙線強度連続観測に樺太からパラオ諸島の5か所に電離箱を配置する計画,世界的水準をゆくレベルとその構想の雄大さは驚くに値する.

理研では1942年に大型電離箱の連続観測が始まって,すぐ太陽爆発に伴って発生する高エネルギー粒子「太陽宇宙線」の観測に成功している.しかし,これは機械の故障ということで見逃してしまった.また,陽電子やm中間子の例に見られるように,あと一息で世界最初の発見ということに止まったのは,研究者の層の薄さによることで,やむを得ない結果であった.戦争が始り,大部分の研究が停止を余儀なくされる.あと10年続けていたら,どんなにか大きな発展がもたらされていたことであろうか….

戦時中宇宙線の研究で継続していたのは連続観測と理論的研究である.連続観測は金沢に疎開して続行している.

理論の研究はm中間子の謎を解くために提唱された坂田昌一・谷川安孝・井上健の「2中間子論」,大気外から入射する一次宇宙線の「陽電子説」に対する玉木英彦の「陽子説」,坂田・谷川による「中性中間子の短寿命でのg線への崩壊」,そしてこのg線により起こされた電子シャワーが「上空の電子成分」を作るとする武谷三男の提唱,いずれをとっても戦後の宇宙線研究の根幹をなす第一級の研究であった.


1. 戦後からの出発

戦後いち早く宇宙線の実験的研究に取り掛かったのはこの理研の宇宙線研究室と,理研から名古屋大学に移られた関戸弥太郎の研究室である.また理研から気象研究所に移られた皆川理の研究室である.ついで,日本での原子核研究の禁止により大阪大学から新しくできた大阪市大に渡瀬譲の率いる大きなグループがこれに加わった.気象研究所の皆川はやがて神戸大学に移り,理研から中川重雄が立教大学に招かれ,ここに五つの大きな宇宙線研究室が生まれたことになる.戦後わが国の宇宙線研究はこれらの研究室と各地の若手の理論グループを中心に回転して行く.

1948年にはC. M. G. Lattes, G. P. S. Occhialinni, C. F. Powellによって坂田・谷川・井上が予言した2中間子が宇宙線中に発見された.p中間子の発見と,湯川秀樹のNobel賞は宇宙線研究にも大きな刺激を与えずにはおかなかった.そして,戦時中の数年にわたる文献が日本に入って来た.諸外国で行われた膨大な実験結果と新しい発見である.

1-1. 宇宙線理論の研究

素粒子論研究は湯川・坂田達の中間子論と朝永振一郎の超多時間理論を中心に意気は大いに上がっていた.その中に宇宙線の理論的研究を行うグループも生まれてきた.東京,名古屋,京都のグループである.

先年亡くなられた早川幸男は若手の研究者を組織して,この膨大な文献を整理分析し,宇宙線像の確立に全力をかたむけた.その成果の一つは朝永の電子対生成の理論を活用して清水トンネルの実験データを解析した「地下宇宙線の解釈」である.ついで共同研究者の藤本陽一・山口嘉夫は新しい「スター理論」(低エネルギー原子核反応で核の蒸発現象)を提案した.空気シャワー現象の解析に不可欠な「三次元電子シャワー理論」(N-K [西村・鎌田] 関数)はこのような雰囲気の中で刺激されて生まれてきたが,それは2〜3年後のことであった.

1-2. 宇宙線の実験的研究

設備や研究費が不十分な中で実験の成果が生まれるには今しばらくの時を必要とした.ただ,理研には僅かながら昔からの資材が残っており,三浦功(元筑波大)と亀田薫(元神戸大)は「宇宙線シャワーの遷移効果」の実験に取り組んでいた.一応の結果が得られた頃,仁科が来日された親友のI. Rabi(核磁気共鳴のNobel賞受賞者)を研究室に案内してこられた.廃屋の実験室の中,ブリキ缶を集めて作った回路の箱,そして慎重な実験の進め方を見てRabiは大変感銘を受けた様子であった.すぐ,Phys. Rev. に投稿するようにとのお勧めであった.これは,その後発展を遂げた日本の二次宇宙線研究の戦後初めての成果であった.1949年のことである.


2. 1950年代のこと

2-1. 新しい宇宙物理学の提唱

1950年,早川はMITの夏の学校を機会にアメリカを訪れている.アメリカでの実験の素晴らしい進歩の状況を見て,現在の中心課題で争っては日本では不利で長い先を見通した研究をやる方が効率的だと考えたという.そこで着目したのが宇宙物理学的な宇宙線の研究であった.

まず宇宙線の加速理論に関連して1952年に「g線天文学」の重要性を提唱した.次に宇宙線の超新星起源説である.「超新星起源説」は1934年にF. Zwicky自身銀河外超新星の観測に成功した際唱え,1950年にはV. L. Ginzburgも提唱していた.早川の説は元素の生成に関連したところが新しい点である.ついで,宇宙線が宇宙空間で作る「放射性物質10Be」の重要性の指摘である.g線も10Beも実際の観測に成功したのは1970年代に入ってからで,現在も宇宙線の中心的課題である.とくに,g線天文学はg線大型衛星GROの登場により宇宙物理学の一つの学問分野を形成している.1950年代にその重要性を提唱した先見性は素晴らしいというほかはない.

2-2. 宇宙線研究の息吹

1950年代は日本のその後の宇宙線研究の発展をもたらした重要な時期であった.一つは1950年「朝日新聞の寄付による実験室」が契機となって,1953年に作られた「乗鞍宇宙線観測所」である.この年,日本で戦後初めての理論物理国際学会が京都で開かれている.H. J. Bhabha, M. S. Vallarta, J. A. Wheeler等著名な宇宙線物理学者も来日し,我々に刺激を与えてくれた.

ついで1956年に共同利用研としての「原子核研究所」が設立されたことである.そして1950年代の終りには,これらを軸として日本の宇宙線研究は世界の学会で第一線に並ぶレベルにまで発展することとなった.

2-3. 乗鞍宇宙線観測所の設立

比較的お金のかからない宇宙線研究にまず力を注ぎ成果を上げるべきではないかと,朝永・武谷は宇宙線の研究を応援して下さった.朝日新聞の学術奨励金による朝日の乗鞍岳山頂の実験室は1950年に渡瀬,関戸,宮崎友喜雄,皆川を代表者として贈られている.

大阪市大は乗鞍にすでに小屋を持っていたので,朝日の小屋と並んで,宇宙線研究者は乗鞍山頂で日夜その研究に没頭することになった.しかしこの二つの小屋だけではいかにも手狭であった.要望が叶って現在の宇宙線観測所が東京大学の付置として出来あがったのは1953年である.

観測所が出来あがると,それまで胸にためた構想と鬱積を吐き出すように本格的な研究が始まることになった.まず作られたのが大型のマグネット霧箱,高圧水素霧箱,大型霧箱,空気シャワー観測装置,そして高山での宇宙線強度の連続観測装置などである.いずれも当時の宇宙線研究の中心的テーマに対応する観測装置であった.

当時の研究の状況を知る上で,ここでは一つだけ三宅三郎の「高圧水素霧箱」の実験に触れておきたい.「中間子の多重発生」はすでに観測から知られていたが,これが核内カスケードによるものか,核子-核子衝突で中間子が一挙に多数発生するのかというのが議論の分かれる所であった.実験的には高圧の水素霧箱が本命の装置であったが技術的に難しく,諸外国でも成功した例はなかった.研究費のほとんどない中で,設備や人材の整った大会社には製作を頼むことはできない.三宅は町工場と掛け合って,設計・製作・組立て・検査・安全について全てに責任を持つからこちらのいう通り作ってくれと頼み,一緒にその製作にあたった.

一号機は直径25 cm,深さ10 cm,水素100気圧の霧箱で,1950年には完成し,市大の小屋で陽子-陽子衝突による中間子多重発生と思われる1例を捉えることに成功した.ついで二号機は大型化し,直径50 cm,深さ20 cm,水素圧150気圧の霧箱を1953年には完成し,目標とする現象を数例捉えることに成功している.丁度その頃,コスモトロンがアメリカで完成し,この研究自身が加速器実験の分野に移ったため,その物理的成果は大きく取り上げられることはなかったが,三宅の示された物理実験学者としての高い技量は多くの人に深い感銘を与えずにはおかなかった.

2-4. 地上,地下,気球実験へ

この時期,地上,地下,そして気球での実験も始められている.一つは,関戸を中心とする名古屋大学,そして理研の連続観測のグループの研究である.戦時中からの長いデータの集積とユニークな考察を下に,日本の研究は国際的にも注目される成果を生み始めた.この分野には天文の萩原雄祐を委員長に地球物理の永田武や天文の畑中武夫が中心となって電離層委員会(現在の超高層委員会)という組織があり,日本の地球物理や天文の関係者が毎月集って,各自の観測結果と研究の意見交換が行われていた.このように多くの他分野の学者の意見交換が太陽活動と宇宙線の強度変化に関する新しい考察を生み出した功績は大きかった.

地下の宇宙線の研究は大阪市大の渡瀬の主導の下に,静岡県焼津の旧国鉄のトンネル跡で精力的に行われている.地下深く「十数本のm中間子が同時に入射してくる現象」の発見は,当時は初めて見る新しい現象であった.焼津の地下で培われた実験の技術はその後の地下の実験に生かされることになったものと思われる.

原子核乾板による宇宙線の研究は顕微鏡で乾板の観測を行うということで,あまり研究費を必要としない分野であった.p,m中間子,そして高エネルギー・ジェットの観測が比較的簡単にできるので取り付きやすいテーマであった.戦後間もなくBerkeleyのサイクロトロンに当てたp中間子検出用の乾板をスキャンしてはどうかという話が持ち上がり,各大学に幾つかのエマルション・グループが発足した.ゴム気球による観測も始まった.問題は,宇宙線に感度をもつ高感度の原子核乾板である.Powellの指導によって作られたIlfordのG5は日本へは輸出禁止項目であった.富士フイルムや小西六写真工業も原子核乾板の開発に力を注いでくれたが,暫くは高感度のものはできなかった.

長時間の気球観測を行うためには「プラスチック気球」が不可欠である.海外からの僅かな情報をたよりに,神戸大学の皆川を中心にプラスチック気球を自作して初めて打ち上げたのは容積600 m3の気球である.1954年に気球は米子から打ち上げられ約1時間半の水平浮遊に成功している.やがて,G5の禁輸もとかれ,原子核乾板による宇宙線研究の基盤はととのったが,やはりこの分野でも研究費のとぼしさが決定的であることが明らかになってきた.

この時期,藤本は早川の勧めでBristol大学のPowellの研究室におられた.Bristolの研究室は当時世界の第一線を行く研究室で,世界各国から2, 30人の研究者がつめかけていた.藤本からの情報は最先端の情報を日本にもたらしてくれた.Powellの研究室では,その当時従来の約10倍の量の原子核乾板を露出していた.日本の研究費ではその1/100の量位がせいぜいである.これだけ大きいスタックだと電子シャワーが乾板の中で観測され,この解析に三次元シャワー理論が有効であろうと藤本から連絡があった.原子核乾板中の電子シャワーの解析にN・K関数が使われ始めたのはその時からである.

2-4. 中間子多重発生の研究会(横運動量の着想)

湯川のNobel賞を記念して京都の基礎物理学研究所が発足したのは1953年である.所員の木庭二郎や早川は将来の宇宙線研究の目標に中間子多重発生を取り上げ,数回にわたって研究会を開いておられる.それまでの宇宙線の実験や理論を総括し,新しく提案されたFermi理論や,それを改良したLandau理論を分析して,その本質を探り将来の手掛かりを得るべく検討を続けられた.

「エマルション・チェンバー」の有効性と,ジェットの「二次粒子の横運動量」は親のエネルギーに無関係に数百MeVという低い値をとっていること,これが中間子多重発生の本質的な部分に関係があることに気づいたのは,その刺激の賜物である.実験の一番の問題点は二次粒子のエネルギーを精度良く測ることがむつかしい点にあった.

エマルション・チェンバーは金属板と乾板を交互に組み合わせサンドイッチにした観測器で,その構想はアメリカのRochester大学のB. Petersたちによって生まれていた.その特色は,色々な物質を組み合わせることにより,ターゲットによる核相互作用の違いが観測できることと,使用する乾板の量が少なく経済性が高いという点であった.

日本でも最初は経済性が高いというところにその魅力があった.やがてターゲットとなる物質をうまく組み合わせることによって,効率的でユニークなジェットの観測器ができることに気がついた.それはBristolの大スタックでは,二次粒子として発生したp0中間子からのg線が電子シャワーを起こし,他の二次粒子と入り交じって解析が大変難しいという藤本からの知らせがヒントであった.

上段に炭素板のような原子番号の低いチェンバーを置き,下段に鉛板のチェンバーを配置する.上段で発生したp0中間子からのg線は電子対生成を起こさずに下段まで来て電子シャワーを発達させる.各々のg線を分離して観測し,親のp0中間子に組みあわて,運動学的な関係から精度良くp0中間子のエネルギーを決定することができる.それまで極端にいえば,ジェットは形状しか分らなかったこの方面の研究でエネルギー測定を可能にし,横運動量測定のような定量的な解析を可能にする道が開けたことになる.

2-5. 原子核研究所の設立

1956年には,原子核研究所の設立に伴い,どのような宇宙線部門を置くべきかの議論が高まっていた.この年の初めに木庭と早川が主催して基研で宇宙線の将来計画シンポジウムが開かれている.超高エネルギー現象のどこに焦点を当てて研究すべきか? 加速器の遠く及ばない1015eV以上の宇宙線が起こす「空気シャワー」はその中の大きなテーマであった.それまで各研究室で独自の方針で宇宙線の研究を進めてきた全国各地の宇宙線研究者が一堂に会し,それぞれの戦略と結果について述べて討論した.

初めに,空気シャワーのどこに焦点をおけば高エネルギー核現象の本質に迫ることができるかという討論があり,エマルション・チェンバー,乗鞍,焼津の地下実験などの新しい成果の発表が行われた.何日かの討論の後に,大方の意向として,近代的な空気シャワー装置の建設を行い,超高エネルギー現象の解明に迫ることと,原子核乾板による研究の中心設備をおき,エマルションチェンバーを軸に全国の共同研究を行うという二つの案に纏まってきた.

空気シャワーの装置については,その2〜3年前から小田稔はMITのB. Rossiの所で新しい装置の建設に携わっておられた.この知識と経験に新しいアイデアを加えて取り組めば世界第一級の装置ができあがり,新しい成果がもたらされるに違いない.またそのような機器開発は宇宙線の他の分野の研究にも大きな波及効果をおよぼすに違いない.

このシンポジウムが終りに近づいた頃,毎日新聞の招待で来日されたPowell博士が基研を訪れることになった.Powell博士に我々の討論の結果を紹介すると,宇宙線の実験的研究がその緒についたばかりの日本で,このような計画があることに深い感銘を受けられたようであった.Bristolで長年にわたって蓄積した気球技術についても詳しく解説し,我々を大いに励まして次の旅に立って行かれた.

宇宙線研究の将来計画シンポジウムはその後も何度か開かれているが,この基研のシンポジウムほど実りの多かった例を私は知らない.その成功の最大の理由は皮肉なことに現在のように情報が行き渡っていなかったためである.このシンポジウムで話された詳しい内容は長年にわたって各研究室で独自に考え抜かれてきたもので,他の人にとっては初めて聴くものが殆どであった.したがって,討論も熱が入り,その討論をもとに更に新しいアイデアが提案されて議論が煮詰まっていったからだと思われる.

2-6. 原子核研究所の空気シャワー部とエマルション部

1956年の5月から原子核研究所に空気シャワー部とエマルション部が発足する.エマルション部では,すぐ全国の研究者の協力の下にエマルション・チェンバーの実験に向けて準備が始まっている.その夏,20 cm×25 cm,厚さ20 cmの17個のエマルション・チェンバーが静岡と神戸から計8機の気球で放球され,実験は予定通りに進行した.このエマルション・チェンバーの中に1012eVを越す23個のジェットが見つかり,そのジェットから発生した49個のp0中間子から横運動量の分布が導き出された.その値はそれから約10年を経てCERNのISRで観測された値と良く一致している精度の高いものであった.これは気球実験としても当時の国際的に最大規模のもので,これを契機に日本におけるエマルションによる研究は世界の第一線に並ぶことになった.

丹生潔によって中間子は2個のクラスターとして多重発生する「火の球モデル」が提唱されたのもこの頃である.二中心火の球モデルは丹生とは独立にV. T. CocconiやポーランドのM. Miesowitzによっても提唱され,中間子多重発生機構に新しい手掛かりを与えるモデルとして迎えられた.

空気シャワーの装置は,大型プラスチック・シンチレーターを基盤に,「タイム・オブ・フライト」による到来方向の測定,直径30 cmの「鉛ガラスのCherenkovカウンター」によるエネルギー・フロー測定というオリジナルな検出器を含む最新技術を取り入れた世界で最も精度の高い装置であった.わずか1週間程度の運転で既存の全観測データに匹敵する成果を出している.この装置はその後「大横運動量」の可能性,「水平シャワー」の発見など数々の成果をもたらした.同時に,その後の宇宙線研究にとって基礎となるいくつかの機器開発や観測技術を生み出すもとになっている.

一つは大型のプラスチック・シンチレーターの一般化である.宇宙線研究の他の分野でも,それまでのガイガー・カウンターの装置は一掃され,安定なプラスチック・シンチレーターに入れ代わった.大型の鉛ガラスによるCherenkovカウンターの開発は,菅浩一により提案されたものであるが,菅はこの時期に空気シャワー粒子が上空の大気を励起して出す「シンチレーション光検出による空気シャワーの観測」も提案し,その基礎となる実験も行った.残念なことに,当時の光電増倍管の感度ではこの実験は成功に至らなかったが,現在はユタ大学を中心にfly's eyeと呼ばれる空気シャワー観測装置が稼働して空気シャワーの立体的構造と超高エネルギーによる空気シャワーを観測する中心的な装置として成果を上げている.

空気シャワー中心部の電子密度の高い部分の観測のために,基研シンポジウムで小型のネオン・ホドスコープを多数配置する提案がなされている.このネオン・ホドスコープの開発実験を通して,福井崇二・宮本重徳は「スパーク・チェンバー」の発明に辿りついた.スパーク・チェンバーはその後,高エネルギー実験で活躍し,現在のg線天文衛星 GROでも活躍している画期的な装置であった.

原子核研究所は当時日本の最も近代的な研究所であった.R. J. Oppenheimerを初め数多くの著名な物理学者が来所し,宇宙線研究の成果にも興味深く耳を傾け激励してくれた.

乗鞍の宇宙線観測所を経て原子核研究所の宇宙線部の発足に至る1950年代の10年間は,ほとんど無から出発した日本の宇宙線研究を世界の第一線のレベルに押上げた大切な時期であった.そしてこれらの成果をもとに1960から70年代の研究が展開して行くことになる.


3. 1960年代から70年代

3-1. 宇宙線研究の国際協力(高山と地下の海外3件)

宇宙線の研究では高山や,深い地下など国内では満たせない条件が要求されることが多い.この意味で宇宙線の研究は本質的に国際協力を必要としている分野である.ただ,国際協力は国内の実力がそれなりに整っていなければ成り立たない.日本の宇宙線研究が国際的に評価されるようになった1950年代の終わりから1960年代に入ると,宇宙線研究の国際協力が他の分野に先がけて始まった.

一つは1014eV付近の「高エネルギー・一次g線」検出のため南米のChacaltaya山上に展開した空気シャワー観測装置である.「Chacaltaya」には世界最高(5,220 m)の宇宙線観測所があり,LattesやPowellたちが初めてp中間子を発見した場所として知られていた.小田とRossiのグループとの相談の結果始まったMIT,原子核研究所,そして地元のボリビアの研究者を入れた国際協力である.宇宙線が銀河系内を伝播して行く際,星間物質と衝突し核作用を起して発生したp0中間子からのg線を観測しようという狙いである.現在のg線天文学のはしりといえる.

g線が大気中に入射すると,電子シャワーを起こすが,陽子による一般の空気シャワーと比べるとその発達が早い.また二次粒子として含まれるm中間子が極端に少ない.これらの性質を使って,ごく僅かなg線を陽子から分離する.600トンのガレナを敷いたm中間子の観測装置を含む空気シャワー装置の建設が終わり,2〜3年後には1014eVのg線が銀河面方向からやや多く来ている気配が観測された.しかし,その後統計的精度が上がるとこの増加は消えてしまった.g線の観測は不首尾であったが,世界最高の場所における貴重な空気シャワー観測器として今も活用されている.

ほぼ同じ時期にChacaltayaで始まったのがエマルション・チェンバーの実験である.原子核研究所のエマルション・チェンバー実験は気球観測で行われたが,より高エネルギーに進むには,更に大量の露出が必要で,観測気球の性能を飛躍的に高める必要があった.考え出されたのが「高山での大型エマルション・チェンバー」の露出である.大型化するため,現象を見付け出す顕微鏡でのスキャンが問題となる.この問題は高感度のX線フィルムを使うことで解決され,乗鞍山上に露出したのは1958年のことである.乗鞍での観測に成功すると,より高い山での効率の良い観測が望まれることになる.湯川の紹介でブラジルのLattesとChacaltaya山上で共同研究が始まったのは1963年のことである.初め10 m2程度であったこのチェンバーは数十m2まで拡張し,藤本が中心となって1016eVを越す超高エネルギー領域での宇宙線の相互作用を始めとし,大横運動量や,多重発生のクラスター的な振舞など様々な特徴を直接観測し,成果をあげた.

インドの「コラ金鉱」は世界最深の鉱山であり,一番深い場所は水深に換算して約9,000mにあたる.大阪市大の三宅グループとインドのTata研究所との共同で地下実験が始まったのは1960年代の始めである.このようにして,地下深く貫通する高エネルギーm中間子の絶対値を捉えると共に,地上から貫通して来た大気ニュートリノによるm中間子の発生を初めて観測することに成功している.

これとは別に当時Chicago大学のM. Scheinは,Bristolの更に数倍の原子核乾板のスタックを気球に搭載してジェットの研究を行う国際協力「ICEF計画」を提唱した.残念なことに,Sheinは計画半ばで病を得て亡くなり,小柴昌俊が引き継いで責任者として遂行した.ICEFはこれまでの世界最大のスタックで,原子核乾板による最も信頼できるジェットの基本的なデータを生み出すことになった.

現在国内のどの分野でも国際共同研究は行われている.日本の経済状況もよくなり,そのための予算や組織も徐々に整備されてきた.宇宙線の海外3件はわが国の国際協力のはしりであり,経済状態の悪い中で相手国はこちらの能力を信頼し,滞在費も相手側の調達で行われてきた.

3-2. 宇宙航空研究所と高エネルギー研究所の発足

1965年に宇宙科学研究所の前身にあたる宇宙航空研究所が発足している.この研究所は飛翔体の開発,およびこれを用いて宇宙の研究を行う東京大学付置の共同利用研究所で,1981年には現在の大学共同利用機関に移行している.

宇宙線の研究は大型の加速器の登場によって転機を迎え,宇宙物理学指向の研究が増えてきた時期でもある.当時発見された「X線星」の研究には世界的に見て宇宙線研究者が多いことからも分るように,物理的内容も観測方法も宇宙線の研究に近かった.日本でも小田を初めとして何人かの研究者がこの分野に移って発展に尽し大きな成果をもたらした.もう一つは,宇宙線研究に不可欠な大気球の本格的開発である.宇宙線研究者が同研究所に移り,やがて日本の大気球観測の基盤を築くこととなった.

日本に大加速器を作り,素粒子の実験的研究を進める構想は原子核研究所の発足当時から議論されている.1 GeV程度の電子シンクロトロンをまず建設し次に進むという構想であった.シンクロトロン建設に目途がつき始めた1959年に次の計画の議論が始まり,最終的に日本学術会議の勧告としてまとまったのは1962年である.しかし,それまでの10倍を越す300億円という予算規模と研究所の体制の問題点がからんで,発足までに更に約10年の歳月を要している.初めは宇宙線の研究も高エネルギー物理学研究所(素粒子研究所)の中に共存する予定であったが,10年にわたる議論の中で計画が進まない焦りと,考え方の違いが軋轢を生み,最終的には宇宙線研究所の設立を別に考えることになった.

3-3. 宇宙線研究所の設立

乗鞍の宇宙線観測所と原子核研究所の宇宙線部を統合し,発展的に拡大して「宇宙線研究所」が発足したのは1976年のことである.これまでの空気シャワー部とエマルション部にm中間子部門,一次線部を加え,新たに「明野空気シャワー観測装置」と,1013eV領域のm中間子を直接観測する「ミュートロン」が建設されることになった.

1960年代は50年代に発展した宇宙線の独創的な観測技術と構想をもとに研究が花々しく開花した.70年代に入ってもこの方式は基本的には変らず,研究は順調に進んでいるように見えた.隔年に行われる宇宙線国際会議でも日本が力を注いでいる分野の寄与はその比重を増して行ったといえる.その成果は,大空気シャワーの精密観測,高山のエマルション・チェンバー,10 TeVに及ぶミュートロンの直接観測,地下宇宙線の観測の成果など幾つかをあげることができる.ミュートロンのグループは後に日米協同のHawaii沖で行う深海実験「DUMAND」に加わることになる.

乗鞍,Chacaltayaに始まる高山のエマルション・チェンバーは,ソ連では「Pamir」での大掛かりな実験,国内では富士山,そして1980年には中国との共同研究で「チベットの高山」で研究が始まり,1016eVに及ぶ核作用の研究に成果を上げている.エマルション・チェンバーはこの時期,地下のm中間子によるバースト,そして気球や航空機による観測へも発展している.この中で特記すべきは,精密に組み立てられたチェンバーを使っての新粒子の発見である.

3-4. チャーム粒子の発見

丹生たちはジェット発生層として20 cm×25 cm×800 mの49枚のメタアクリルに両面塗布したチェンバーを精密に組立て,航空機で約500時間上空に露出した.このチェンバーの解析中に,ジェットの発生点から1 cm程度の所で2本の近接する二次粒子の飛跡が10−3ラジアン程度折れ曲がっている例を見つけた.一つの折れ曲がり点からはコプラナーの条件を満たすp0中間子による電子シャワーが発生していた.これは折れ曲がり点でp0と他の粒子に崩壊したことを示唆している.電子シャワーのエネルギーと崩壊点までの距離から粒子の寿命は10−14s, 2〜3 GeV程度の質量と推定され,もう一個の崩壊粒子と併せて新粒子の対発生である可能性が高いことを1971年に報告している.小川修三(名大)は四番目の基本粒子にもとづく新しい量子数を持つ新粒子であることを強く示唆した.これは未発見の「チャーム粒子の候補」ではないかと考えた人は他にもいた.しかし,これまでの数多くの実験でどうして観測されなかったのかという疑念が災して,名古屋大学の坂田を中心とするグループ以外ではその時点では大方の認める所とはならなかった.やがて,坂田のグループから小林・益川のモデルが提唱され,トップクォーク,ボトムクォークを世界に先駆けて予言したのは,この実験でチャームクォークが発見されたという確信があったためであろう.

当時の加速器ではこの新粒子の対発生にはエネルギーが足りず,宇宙線実験では寿命が極めて短い為に原子核乾板以外では観測し難い.また通常のスタックでは電子シャワーが二次粒子の飛跡と入りまじり,精密な観測は難しい.電子シャワーを起こしにくい物質で極めて精密に組み立てたチェンバーの有効性が成功の原因であった.

1974年にJ/y粒子が加速器で発見されるまで,丹生たちは更に数例の似た現象を見出し,その解釈の正当性を示した.現在では観測された粒子は「チャーム・クォークを含むD*粒子」の発見であったと考えられている.宇宙線はかつて新粒子発見の宝庫であったが,K中間子発見を最後に,加速器領域の研究に移っていた.チャーム粒子の発見は加速器に先駆けて久々に宇宙線が新粒子を発見した輝かしい成果であった.


4. 1980年代から

一つの研究分野では,初めの10年は当初の目的を目指した発展期,その成果を踏まえて次の10〜20年がその充実期にあたる.そして研究方式が質的に変らない限り,やがて清新さが失われ,自然の本質に迫るような発見や成果が少なくなってくる.宇宙線研究も例外たりえない.確かに精密な実験や定量的な実験は増えたが,物理学の本質に迫るような成果は年とともに少なくなって,1950〜60年代の生き生きとした雰囲気が失われ始めたかのように見えた.

この時期,海外ではまだ未解決の一次線宇宙線中の「同位体組成の観測」などを通して新たな道を開いていた.日本は地磁気緯度が低く,これらの研究に必要な低エネルギー粒子の気球観測には不向きで,人工衛星によるこの分野の観測も出遅れていた.いきおい,まだ観測されていない高いエネルギー領域に主力が注がれることになった.

気球観測についていえば,1970年代から始まっているエマルション・チェンバーによる「一次電子の観測」であり,もう一つは原子核研究所の実験以来の懸案であった「高エネルギー・一次線組成の直接観測」である.高エネルギー・一次線の直接観測は 「JACEE」 という計画の名のもとにアメリカとの共同研究に発展し,世界で最も高いエネルギーの1015eVに及ぶ一次線の直接観測として活躍している.

4-1. 陽子崩壊とニュートリノ物理学

宇宙線の地下実験は国際的にインドのKolar金鉱の実験がその先端を走っていたが,1970年代の後半になると,大統一理論SU(5)の検証の為「陽子崩壊の実験」の場として地下実験が世界各国で注目され始めた.力を注いだのはソ連,アメリカと日本である.Kolar金鉱に加えて,日本では東大の小柴を中心に宇宙線研と高エネルギー研とが協力して「神岡での実験」が始まっている.1983年のことである.やがて,陽子の崩壊寿命が当初考えたより長いらしいという結果が出て,「太陽ニュートリノの観測」に切り替え始めた時,一つの重大なイベントが起きた.それは1987年の大マゼラン星雲で起きた超新星の爆発 「1987A」 である.

神岡の2,000トンに及ぶ「大型水タンクのCherenkovカウンター」は,この超新星爆発の際に発生した11個のニュートリノを検出した.また宇宙科学研究所のX線科学衛星「ぎんが」は超新星を囲む厚いプラズマを通して約半年後に出て来たX線の観測に成功した.1987Aで日本が世界に先がけて主要な観測に成功したことは高く評価された.

大型水タンクによるニュートリノ観測の有効性と将来への展望はさらに大型の装置を作る強い要望を生むことになった.一桁大きい装置となると,グループも宇宙線研究所内に置くのがよいとする意見が実現したのは1988年である.この「スーパー神岡」,太陽u,大気u,超新星uについてのニュートリノ物理学と宇宙物理学的な意義と展望については他の項で述べられるが,宇宙線が大気中で発生する大気ニュートリノについてはここでも述べておきたい.

「大気ニュートリノ」は本来の実験には邪魔な粒子である.だが神岡実験の解析を通して,素粒子の本性にかかわる重大な意義を持つらしいことが明らかになってきた.宇宙線が大気中で発生するnmneの比は p-m , m-e が連鎖崩壊であるために,宇宙線のスペクトルやp中間子発生のモデルにあまりよらず運動学的な関係で決まり,ほぼ2という値を持つ.しかし,観測されたnmneの比は1に近い結果である.実験的な精度の検討は慎重に行われているが,この値は変らない.一番可能性のありそうなのは「ニュートリノ振動」と呼ばれる現象である.もしニュートリノに質量があれば,3種類のne ,nm ,nt はお互いに振動的に入れ替わる.宇宙線から発生する大気ニュートリノの実験は素粒子の本性を探る重要な鍵を握っている.


5. 1990年代とむすび

「神岡」と「重力波」のグループが宇宙線研究所に加わったことは宇宙線研究に大きな影響を与えた.新しい文化の発展は色々な文化との融合によってもたらされる.これまでの宇宙線研究に加えて,神岡実験に関連して国内外から高エネルギー・宇宙線の第一人者が研究所を訪れ,有能な若い研究者も加わり,新しい波のうねりが感じられる.

世界最大の明野の空気シャワー観測装置は,銀河系外での宇宙線発生機構と銀河間空間の伝搬の鍵をにぎる1020eVを越す超高エネルギーの銀河外宇宙線を捉え,世界の注目を集めている.

天体からの1012eVを越すg線の検出は,長い間このg線の起こすシャワーの大気中のCherenkov光を使って観測されていたが,確定的な結果は得られていなかった.1989年アメリカのWhipple観測所で直径10 mの反射鏡でCherenkov光を集め,そのイメージを観測して,ついに「かに星雲からの高エネルギーg線」を高い精度で捉え,「かに星雲」の構造と電子加速について新たな知見をもたらすことになった.

宇宙線研究所と東工大の研究者達はオーストラリアとの協同研究で,直径3.8 mの月のレーザー・レーダとして使われてきた反射鏡を転用して南天での観測を行い,「1706-44」と呼ばれるパルサーからの高エネルギーg線を新たに発見した.現在までに世界中の観測で確認された僅か4個の高エネルギーg線天体の一つであり,その発見の意義は大きい.更に多数の大型反射鏡で構成する高精度の興味深い観測を可能にする「宇宙線望遠鏡」の構想が進行中である.

「チベットの高山」では1013eV付近の高エネルギーg線天体の検出を目指して日中協同の観測が進行中であり,宇宙線が作る月や太陽による陰を明確に検出して,その精度の高さは国内外の研究者に大きな感銘を与えている.

高エネルギー物理学の研究者も宇宙線に深い関心を持ち始め,大型の超伝導マグネットを気球に搭載し,長年の謎であった低エネルギー領域の「宇宙線中の反陽子の観測」に初めて成功し,さらに陽電子や同位体の精密観測にも発展しようとしている.

JACEEは日本で発案された「南極周回気球」の手法を生かして長時間飛翔に成功し,また,今年になって長年懸案であったKamchatskaから放球しMoscow付近で回収する「日露の共同研究」の長時間観測もこの7月に成功した.

宇宙線研究の50年を振返ると,素粒子物理,宇宙物理,高エネルギー物理との色々な分野の交流によって刺激を受けた時に大きな発展をとげてきた.宇宙線研究はこれからもまた新たな飛躍の時期を迎えることになるであろう.