戻る
50周年特別寄稿

磁気共鳴の夜明け

伊藤順吉*


日本物理学会が発足してから今年で50年になる.これを記念して,この50年間の我が国の物理学の進歩を,いろいろな分野でまとめた記述が会誌を飾っているが,私は50年前の前後それぞれ数年間にまたがる我が国の磁気共鳴誕生の歴史を,当時の我が国のおかれた情況に触れながら記述した.戦争を挟む前後の時代を体験した一人の昔の話としてお読みいただきたい.本稿は,昨年春の物理学会年会で,磁気共鳴誕生50年を記念したシンポジウムが開催されたが,その際の私の話を加筆したものである.

凝縮系におけるESRは,1945年にZavoiskyが初めて観測し,その翌年にはNMRも行われたが,磁気共鳴そのものは分子線を用いて,自由原子,分子について,7年前の1938年にRabiによって初めて行われた.この頃の原子核物理学の進歩の情況を簡単に記しておく.1932年には,人工的に加速した陽子による原子核の人工変換が行われ,より高いエネルギーを得るための加速器としてサイクロトロンが発明された.一方,同年に中性子が発見されて,原子核は中性子と陽子から形成されていることが分かった.湯川先生が中性子や陽子の間に働く力の分析から中間子の存在を予言されたのは1934年である.ヨーロッパにおける開戦直前の1938年には核分裂が発見された.大阪帝国大学はこの間の1933年に理学部が開設され,第一回生として私も入学した.1934年には理学部の建築が完成したが,当時としては世界に通用する60万ボルトの加速器が作られ,当時たしか31歳であった菊地正士先生を中心に,中性子の研究が勢力的に行われた.さらに,先生はサイクロトロンの有用性に着目され,その設置を熱望された.大阪の財界人の一人がオーナーである財団からの,今の価値で約3億円に相当する寄付を得て,1936年にサイクロトロンの建設が始まり,ちょうど卒業した私が菊地先生の指揮の下で,それに従事した.しばらくして,後に大阪市立大学学長になられた渡瀬譲さんと原子核研究所で活躍された山口省太郎さんが加わり,三人で建設に従事した(菊地,渡瀬,山口三氏ともすでに故人となられた).当時のサイクロトロンでは,原子核反応をオンラインで研究することは技術的に困難であり,Lawrenceの所でも,専ら中性子による研究か,人工放射性元素を指標とした研究が行われていた.われわれの当面の研究目標は,人工放射性元素のb線およびg線の研究であり,その精密測定のために,当時としては世界有数の180°収斂のb線スペクトロメターを作り,正確なエネルギー分布を求めることに努力した.Berkeleyに遅れることほぼ4年で,われわれの実験結果が出だしたのは1938年からであった.また,渡瀬さんは宇宙線の実験で修得されたコインシデンスの方法を駆使して,継続して放出される放射線の相関を測定し,励起状態の研究を行った.

さて,原子核の構造を論ずる時には,その核のスピン,磁気能率は重要な指標となる.スピンは超微細構造の線の数から求められるが,Rabiは磁気能率の精密測定の殆ど唯一の方法として,分子線による磁気共鳴を開発したのであり,最初の研究は塩化リチウム分子中のリチウム7の核磁気共鳴による磁気能率の測定であった.1)この方法はサイクロトロンで生産される人工放射性核についても適用できる可能性があると思われるので,われわれにとって関心の的であった.Rabiは引き続いて電子磁気を持っている原子についても研究を拡張していった.特にその1年余後に行われた水素分子についての研究2)は優れたものであった.また,AlvarezとBlochによって中性子についてもこの原理により磁気能率の精密測定が行われ,3)重水素核の磁気能率が,陽子と中性子の磁気能率の代数和と少し異なることから,この核の軌道運動に少しD状態が混在していることも分かった.この時点で,菊地研究室でも,将来は放射性核についての実験に進むことを期待しつつ,分子線磁気共鳴の装置の建設に取り掛かった.

ここでRabiの研究の全貌に触れておく.Rabi一党は1960年の始めまでの約25年間に,創始者のRabiと,戦後に電子の磁気能率を精密に測定して,それがBohr磁子と僅かに異なることを示したKusch,4) および,励起状態にある水素の原子線を用いた励起エネルギーの精密測定から,同じ結論を出したLamb5)の三人のNobel賞受賞者を出すほどの多くの重要な研究を行ったが,Rabi一党以外でこの方法によって重要な研究を行った例は殆どない.これはRabi一党はその時点でこの方法によって行い得る物理的に重要な研究を次から次へと行い,的確な解釈を行ったので,他の付け入る隙がなかった上に,この実験は当時として技術的に最も難しいものであって,この点からも他の追随を許さなかったのである.そして,この期間にやるべきほとんど総ての研究をやりつくして,原子時計その他の特殊な研究を除いて,本流の研究を終了したのである.従って,今日の若い研究者の方々で,この分子線磁気共鳴法の詳細を知っておられる人は殆どないであろう.

菊地研究室の場合も,幾多の困難に遭遇した.まず,分子線を曲げるための勾配のある磁石の場合には,長さが数十cmで複雑な形をした磁極を,1 mmほどの間隔で精密に仕上げることが要求されたが,これは当時大砲の砲身の内孔を工作している軍需工場に頼み込んで製作してもらった.その他幾多の困難なところがあったけれども,これを担当された渡瀬さんが次々に解決し,完成に近づいていった.しかし,最後の段階で,表面イオン効果を用いる検出器に使うタングステンの細線が,線引きの時の潤滑材の影響のためか,不純物を含み,微弱な分子線の検出には不適当であることが分かった.しかし,戦時態勢に切り替わったその時代に,特別に不純物のないように線引きを依頼することは不可能であった.そうこうするうちに,1941年12月には太平洋戦争が開始され,その後半年ほどで要員の減少,物資の欠乏などが始まり,分子線磁気共鳴,加速器類の運転など,中止せざるを得ない情況となった.これが菊地研究室における分子線磁気共鳴研究の顛末である.**

1943年になると,菊地先生の海軍技術研究所への出向に伴って,渡瀬さんは静岡県島田の大電力マグネトロンの研究所へ,私と山口さんとはマイクロ波のレーダーの製作のために,東京の海軍技術研究所分室へ,いずれも出向した.これが私とマイクロ波との始めての遭遇である.このレーダーの受信部については,東大の霜田光一さんが大変貢献されたと聞いている.島田には理論の先生方も来られて,マイクロ波関係の研究をされていた.小谷正雄先生のマグネトロンの発振機構に関する理論,朝永振一郎先生の量子力学のSマトリックスと類似の方法での立体回路の理論などの解説を聞く機会もあった.われわれは立体回路と全体の構成を担当したが,与えられた最終目標はこのレーダーで敵の軍艦を的確に捕え,これによって大砲の照準を定めて,闇夜でも砲撃が可能な装置の開発であった.米軍はすでにこのような装置を開発しており,南方海域の夜の戦闘において,こちらが敵艦を発見する以前に砲撃を受けたと聞いた.装置の開発が得意であった山口さんのアイディアで,1944年になって,ほぼこの要求を満たす装置に見通しがつき基礎実験を行っていた.海軍の専門家が兵器化を検討していたが,何分波長が10cmであるので,立体回路が大きいものになり,これをまとめて兵器として設計することは容易なことではない.一方,1944年の夏すぎになって,かりに兵器化ができても,これを積む軍艦の数が少なくなり,これらの兵器を用いる可能性のある海戦は期待できなくなった.これらの理由で,これ以上の研究は中止することになった.折から,Saipanが陥落し,そこから直接本土を爆撃機で空襲できるようになり,晩秋に第一回の東京空襲が行われたが,これを体験した後,大阪に帰ったのが,終戦の9箇月ほど前であった.東京滞在中も,大阪に帰ったときにも研究ができるように,ある程度の装置を大学にも整備していたし,引き上げるときに,マグネトロンなどを幾つか持ち帰った.1945年になると東京は3月から,関西も5月から,夜間の大空襲が度々行われ,東京も大阪も次第に焦土と化していった.大阪大学は,木造の仮教室など以外は焼け残ったが,西側一帯は焼け野原となった.そして 8 月15日の終戦を迎えたのである.

終戦になり,留守をしていた人々も徐々に復帰したが,身内の人に戦争犠牲者のあるもの,戦災で家を失ったものなども多く,また,研究に必要な物資は勿論のこと,明日の食糧にもこと欠く生活のもとで,組織的に実験を開始できる環境ではなかった.サイクロトロンなども,いまさら数年前の状態を再現するのみというのも気がすすまなかったし,なによりも,戦争に負けた心身ともにどん底の状態の無気力さのうちに,日をすごしていた.12月になって,理化学研究所を始め,日本中の総てのサイクロトロンが米軍によって破壊され,阪大のものは大阪湾に投棄された.同時に,私が研究に使っていたb線スペクトロメターも,単にそれがサイクロトロンの磁石をずっと小形にしたような形をしているという理由で投棄され,大学卒業後の総ての努力の結集は完全にゼロとなった.その他にもいろいろあったけれども,結局これが私の原子核物理学の研究との決別となった.

ここで,科学研究の鎖国について触れておく.太平洋戦争開始の約半年前の夏ころから,今でいう経済封鎖が行われ,以後,42〜45の4年間は戦争で,さらに終戦後も連合軍総司令部(GHQ)の管理下にあった46〜48年までの6年半の間,外国文献は一切入らず,学問的な鎖国状態が続いた.私のように,サイクロトロンについては,Lawrenceの一,二の論文と,仁科先生の所から戴いたBerkeleyの最初の小さいサイクロトロンの設計のブループリントを頼りに製作し,その後の実験も先陣を勤めているBerkeleyを手本にし,ただ,b線スペクトルを精密に測定することに勤めていたので,戦時研究から解放された段階での,6年半に亙る鎖国状態は,羽根をもがれた鳥にも等しい状態と言えた.勿論,このような状態を自分独自の考えを深めるいい機会として,着実な発展を遂げられた方も多くおられたのであるが.

このような情況にあったある時,多分1946年始めの頃であったと記憶しているが,渡瀬さんとの会話の時に,どちらからか,Rabiが分子線で行った磁気共鳴が固体でできないであろうかという話になった.渡瀬さんは勿論,私も波長10cmのマイクロ波を用いたときの電子磁気共鳴の共鳴磁場は約1000ガウスであることはよく知っていた.詳しい検討はしなかったが,電子スピンが最も多くあって並んでいるのは強磁性体であるから,何等かのレスポンスが得られるであろう,一度やってみようということになった.手元にマイクロ波の装置のあるのは私であったので,私がレイアウトを考え,東北大学出身の渡瀬さんが強磁性の材料を手にいれることになった.渡瀬さんは二,三の方にこの話をされたが,そんなことができますかね,どういう物理的意義があるのですか,というようなことであったと聞いた.試料はずっと後になって,東北大学のどなたからか,超パーマロイの板などをいただいた.しかし,結局,この実験は行わなかった.多分,他に雑用が生じてそれにかまけてしまったからであったろう.空洞共振器のQの測定なども行っていたから,外国でこの種の実験7)が行われた頃に,われわれの技術でも何等かの結果が得られていたであろう.もっとも,強磁性共鳴の結果の解析は簡単ではなかったであろうが.結局は,磁気共鳴の物理的意義をよく検討し,その重要性を認識していなかったことが,敗戦の沈滞状態のもとでも敢えて実験を行う気力を起こし得なかった原因であったろう.

1948年1月になって,GHQはまず東京に,続いて地方都市にアメリカ文化センターを設置し,各種の書籍や資料と共に,学術文献をも閲覧できるようになった.これと相前後して大阪大学(他大学も同様であったろう)に学術雑誌が寄贈された.それでわれわれは6年半ぶりにバックナンバーも含めPhys.Rev.などに接することができるようになった.しかし,帯出禁止であり,今のようなコピー機もないので,必要なものは手書きで写した.そして,1946年にわれわれも行おうとした強磁性共鳴も,ESRもNMRも行われていることを初めて知った.この頃から物理学会誌に文献抄録という欄が設けられ,また,解説の中にも新しい文献から引用した事項が多く見られるようになった.会誌に掲載された解説の中に,磁気共鳴関係の研究が紹介されている初期のものとして,次のようなものがある.

村川 :電子の自己エネルギーに関連した分光学の問題[日本物理学会誌 3 (1948) 1645〜6号 (9-12月号)].

宮嶋龍興,福田信之:磁気共鳴による精密測定−素粒子論の発展におけるその意義について[日本物理学会誌 4 (1949) 39(1月号)].

渡瀬 讓,小田 稔:マイクロウエーブ[日本物理学会誌 4 (1949) 932〜3号 (3-6月号)].

これらには,分子線磁気共鳴,強磁性磁気共鳴,常磁性磁気共鳴,核磁気共鳴などの新しい研究が紹介されている.アメリカからの文献が入ったことにより知り得た,凝縮体についての磁気共鳴の最初の研究を以下に列記しておく.ただし,ヨーロッパの研究は後に文献が入ったとき,またはアメリカの論文からの孫引きで知ったものである.

  • 常磁性磁気共鳴(ESR) Zavoisky.6)

  • 強磁性磁気共鳴(FMR) Griffiths.7)

  • 核磁気共鳴 (NMR) Purcell, Torrey, Pound.8)

  • Bloch, Hansen, Packard.9)

このころは原子核実験は,GHQから禁止命令が出ていたばかりでなく,到底できる情況でなかったので,マイクロ波の装置を動かしていた研究室の若い人々と,FMRとESRを開始した.私自身はNMRの方により興味を持ったが,これを始める余裕はなかった.そのころに,神戸大学工学部教授の神田貞之助さんが,新制大学に切り替わる時に新設される理学部に移られることが内定していた.その神田さんと共同で,新しいNMRを始めようという話がまとまった.そこへ1946年4月に入学した終戦後の第一回の学生が3年になり,この中2名が卒業研究としてわれわれに加わることになった.名古屋大学を定年退官した益田義賀さんと新日鉄東京研究所を経て豊橋科学技術大学を定年退官した草鹿履一郎さんである.この4人で,菊地研究室に転がっている鉄材で磁石を作り,これにコイルを手巻きすることから始めて実験を開始した.回路は神田さんが専門であったので,専らその指導によった.FMRとNMRで研究結果が出始めて,学会に報告したのは1949年の10月の年会であった.そのときFMRは後に日本無線に就職した秋岡哲夫さんと,NMRは上記の人々との共同研究であった.翌1950年になると,後にカナダの大学の教授になった藤本稔さんが加わって,ESRの研究結果が出始たが,このころになると,東北大学科学計測研究所の岡村俊彦氏,東京大学理工学研究所の熊谷寛夫氏のグループの研究が発表され始めた.岡村氏の方は,もっぱら東北大学の磁気の研究をバックにしてFMR,熊谷氏のほうは専らESRであった.岡村氏は割合に早く故人となられた.熊谷氏自身は間もなく原子核の研究に戻られ,今は故人となられたが,ESRは阿部英太郎さんに引き継がれた.私が上記の共同研究者との共著で成果を学会誌に発表したのは1951年のことであった.磁気共鳴の原理はRabiの研究で周知のことであり,また,マイクロ波は,世界中を通じて,戦前は市販の発信管一つなく,すべて戦時中のレーダーの製作に伴って発達したものであり,戦争中にこれに関係した物理学者の数はアメリカに比しては少ないとはいえ,日本でもかなりの数に上っていた.勿論,戦災を受けた敗戦国と戦勝国とでは条件は大いに異なるとはいえ,この方面の新しい研究が鎖国の間に芽生えなかったのは,やはりわれわれが模倣の科学の域を越えられなかったことを現しているのであろうか.

ここで初期の我が国の核磁気共鳴の実験的研究の進歩に貢献した一,二を述べておく.1953年の日本における初めての国際学会に出席した,NMRの創始者の一人ともいい得るBloembergenは,訪問した各大学において,また大阪大学で開かれたシンポジウムの講演などで,NMRがいかに物性の研究に役立つかを示し,我が国のNMRの研究者に多大の影響を与えた.また,1954年の久保亮五,富田和久の論文10)は磁気共鳴のすぐれた一般理論であるが,色々な問題について直接教示を受け得たので,われわれ実験をしている者は大きい寄与を受けた(両氏とも故人となられた).この二つを特に挙げておきたいと思う.それから後の国の内外の磁気共鳴の進歩については,この稿の意図の外であるので,ここには述べない.

ただ,NMRの応用について一,二触れておきたい.NMRの創始者の一人であるBlochは,Blochウェーブ,Blochウォールなどで知られる理論物理学者であるが,それがAlvarezと共同で中性子の磁気能率を精密に測定し,戦時中にレーダー関係の研究に従事してエレクトロニックスに通暁した.彼は戦後NMR法を創始し,さらに高分解NMRを開発した.その後,CERNの初代所長も勤めた.高分解NMRは,液体中の陽子の共鳴幅が実質的に0であり,磁場の均一性を上げれば上げるほど,幅の狭い共鳴線が観測された.有機化合物中の異なる基に属する陽子は,僅かな化学シフトの差によって,それぞれ分離した共鳴線(さらに電子を幾らかでも共有するグループ間のスピン間相互作用で微細構造を持つ)となるので,構造の未知の有機物の共鳴を解析することによって,この化合物の構造解析が可能となる.Blochの属するStanford大学と密接な関係を持つVarian社が,これをもとに高分解核磁気共鳴装置を製造した.理論物理学者であったBlochが,重要な中性子の実験を行い,NMR法を発見し,しかも,これを有機物の分析に利用する道を開いたのは,まさに驚く外はない.1957年に開かれたアメリカでの学会に私が初めて出席できたのは彼の好意によるものであり,ちょうどその頃,私が属していた大阪大学産業科学研究所にこの装置が入ることになっていたので,帰途彼の研究室を表敬訪問して高分解NMRの話を聞いた(我が国の大学での高分解能の装置の第一号は,東北大学非水研究所に入った).私の最後の海外での国際学会出席となった1974年のBombayの学会で,NMR学会の会長とて来ておられたBlochに最後にお会いした(1983年に故人となられた).

このBombayの学会で,NewYork州立大学の化学の教授のLauterburが‘NMRZeugmatography'と題した講演をしたが,これは勾配のある磁場を用いてNMRの強度を磁場を変えて測定すると,物質内のその核の一次元の分布が測定できるというそれまでの手法をさらに発展させ,共鳴強度をコンピューターで二次元の画像化し得るように拡張した研究であった.11)これは現在医学に用いられている Magnetic Resonance Imaging (MRI) のアイディアと原理的に同様であるが,これに基づいて,蛤を殻のままで陽子のNMRを観測し,それを画像化すると,殻は水素を含まないからなにも現れず,水素を多く含む消化管の部分はたいへん濃く,肉の部分は水素密度が多くないので薄く,蛤の殻を割らずに内部構造を知るという極めて面白い実験であった.帰ってから関係のありそうな向きに三,四話したが,これが数年後に,MRIとして医療用の診断の手段として,今日のように重視されるようになるとは思いもよらなかった.高分解NMRについても,このMRIについても,その発展の道程で日本人の寄与はほとんどなかったのは寂しいことであった.私自身の40年の研究生活を振り返って,模倣の科学の壁を大きく乗り越えられなかった感を深くするのである.


文  献

  1. I. I. Rabi, J. R. Zacharias, S. Millman and P. Kusch: Phys. Rev. 53 (1938) 318.
  2. M. B. Kellogg, I. I. Rabi, N. F. Ramsey and J. R. Zacharias: Phys. Rev. 56 (1939) 728.
  3. L. W. Alvarez and F. Bloch: Phys. Rev. 57 (1940) 111.
  4. P. Kusch and H. M. Foley: Phys. Rev. 74 (1948) 250.
  5. W. E. Lamb, Jr. and R. C. Retherford: Phys. Rev. 72 (1947) 241.
  6. E. Zavoisky: Fiz. Zh. 9 (1945) 211, 245.
  7. J. H. E. Griffiths: Nature 158 (1946) 670.
  8. E. M. Purcell, H. C. Torrey and R. V. Pound: Phys. Rev. 69 (1946) 37.
  9. F. Bloch, W. W. Hansen and M. Packard: Phys. Rev. 69 (1946) 127.
  10. R. Kubo and K. Tomita: J. Phys. Soc. Jpn. 9 (1954) 888.
  11. P. C. Lauterbur: Nature 242 (1973) 190.

*658神戸市東灘区住吉山手1-9-40

**Rabiは戦後の我が国の教育改革の顧問団の一員として1948年12月に来日し,その機会に東京と京都で講演を行った.私は京都のを聞いたが,内容は水素の超微細構造の精密測定であった.研究の物理的意義,実験の詳細,その的確な解釈など,Rabiに敬服していた私は深い感銘を受けた.また,1957年にColumbia大学のKuschの研究室を見学したが,かれの秘蔵の分子線の装置が奇麗に磨きあげられており,それを示しながら電子の磁気能率の測定の話などをしてくれた.昔の菊地研究室の装置などを思い出して感慨無量であった.