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50年をかえりみる

物理学で見直す化学工学

岡上 明雄

〈日揮株式会社 232横浜市南区別所1-14-1 e-mail: okagami@janus.co.jp〉

化学工学という学問の領域があります.これを学んだ企業人は化学工業やエンジニアリング会社など種々の産業で活躍しています.ケミカルエンジニアと呼ばれる技術屋達です.学界の人達と一緒に「化学工学会」にも参加し,互いに切磋琢磨しています.筆者もその一人です.

研究の対象は物理化学,反応工学,流体工学,物質熱移動論,それらを活用した分離などの単位操作などです.この化学工学のおかげで,化学装置の合理的な設計やスムーズな運転ができ,化学産業技術の発達に大きく貢献しています.そして広義の化学産業である石油精製や天然ガス液化のようなエネルギー産業から,動物細胞培養による製薬などのファインな工業に至るまで,化学工学の応用範囲は広がっています.

石油精製に例をとると,重油を水素化脱硫する巨大な高圧反応器,例えば直径3 m,高さ30 mの肉厚円筒容器は,反応工学を駆使して適切に形状と寸法が設計されています.その基になるデータは,代表径約2 mmの工業用固体触媒粒子で実測した総括脱硫反応速度式です.実験には内容積1リットル程度の反応器を使用します.工業装置は20万倍の容量になりますが,充填した約200億個の触媒粒子すべてが本来の成績を挙げるように,流体が均等に,かつ実験と相似の条件で流下するよう反応器の内部構造を工夫すれば,予定通りの性能が発揮できます.

ところで,最近の固体触媒の多くは内表面の化学的活性レベルが高く,当然ながら総括反応速度は物質移動律速になっています.反応物の分子が反応流体の流れから触媒粒表面の境膜に接近し通過して粒子内に入り,細孔内を拡散して触媒内表面に到達して化学反応し,生成物の分子は全く逆の道を辿って流れに戻る全過程のうち,物理的移動過程が支配的になります.

反応工学は,この物理過程の抵抗を減らすことを目的にしています.その研究内容は触媒粒子形状や細孔径の適化による粒子内移動速度の増大策であったり,触媒粒外表面の境膜内物質移動速度の増加策であったりしますが,化学過程を検討することは先ずありません.反応工学以外の化学工学,例えば蒸留,抽出,吸着などの単位操作も気液や液々間の物質移動など物理過程が研究の対象となっています.化学自体が物質変換で代表される殻外電子のやりとりなど,分子の電子軌道に着目しているのに対し,化学工学では化学の名をつけていながら分子の中で起きていることには殆ど目を向けていません.

電気工学が自由電子自体を,核工学が粒子や核種そのものを対象としているのに,化学工学は本来の化学である殻外電子を扱わない工学と言ってよいでしょう.名前と内容の不一致は,別に悪いこととは思っておりません.しかし,化学に近そうだという誤解を生む原因になって,物理学との縁が薄くなっているように思います.むしろ,化学工学の基礎は物理学にあることをより強く意識して,物理学的アプローチに挑戦するべきではないかと考えています.

先の触媒反応の場合,触媒粒子の外の物質移動については,Reynolds数や,Peclet数などの無次元項を基にして検討します.しかし,乱流域か層流域かの判定をする粒子基準の臨界Reynolds数は,粒子の形状や充填状態で変動し,2ないし20と言われていて実用になりにくいのです.つまり,細かい固体粒子充填層の境膜抵抗評価には,流体工学の限界があり,精度を上げる時は未だに実験的検討に頼っています.

一方,触媒粒子内の物質移動については,はじめから流体工学の援用を諦め,分子拡散,Knudsen拡散,表面移動を並直列事象として扱ってきました.そして,内部表面での化学反応過程に対してシリーズの抵抗となる移動過程として扱い,触媒内表面の活性点の利用率を評価しています.この利用率を大きくするのが工業触媒の目標ですが,分子レベルの移動概念で統一されていますので,相や反応分子の大きさなどが決まると,触媒の細孔径や触媒活性成分の粒子内分布を見事に設計できます.物理が化学工学の基礎であることの好例です.

似たような事例は,従来の流体工学では扱い困難であった粉体の気流搬送にもあります.粉体粒子1個1個に着目して個々の粒子の軌跡をNewtonの第二法則を適用して解く試みです.粒子の持つエネルギーの衝突などによる減衰には,spring, dashpot, friction slider のような物理の概念を取り入れて計算します.実際のシミュレーションでは数十万個の粒を扱うので,エンジニアリング・ワークステーションではいささか時間が掛かりすぎるのが欠点ですが,現実の流れ状態とよく合致します.過渡的な状態や,異種粉体の混合分離状態まで画像に模擬できます.これも,従来の化学工学が避けていた領域に,古典的物理学に基礎を置く新しいエンジニアリング手法が生まれ,スケールアップを容易にしつつある例です.

とかく化学との交流が盛んな化学工学ですが,以上のように物理学的検討の効用が強く認識されてきました.物理学に基づいて化学工学を見直せば,多くの課題がブレークスルー可能と考えます.そして,化学工学が目指している,より安全,より省資源,より環境調和型の技術構築が,理論的基盤を得るように思います.読者の方々が化学工学に少しでも関心を持って下されば幸甚です.