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生物物理始まりのころ大沢文夫〈愛知工業大学 470-03愛知県豊田市八草町八千草1247〉1. 生体物理分科設立日本物理学会に生体物理という分科が設けられたのは1954年秋であった.物理学会で,あるいは物理研究者の間で生物物理が本格的にとり上げられたのは,この頃である.その数年前から高分子物理の岡小天が小林理学研究所(小林理研)でOparinの“生命の起原”を紹介し,つづいて生 物についての連続セミナーを行った.都心を離れた国分寺に大ぜいの人々が集まったという.同じ小林理研で杉田元宜が生体における動的平衡,代謝制御の数理的解析を展開していた.生体物理分科設立はこの2人の力によるところが大きかった. 物理学会誌9巻2号(1954)に“生物物理学のために”と題する杉田元宜の文章がある.1)その冒頭に「学問は日進月歩するものなのに,セクショナリズムにとじこもるくらいみじめなものはない.今日の物性論や統計熱力学の発達を知らないで,生物学者が古風な研究をしていては,世界の動きにとりのこされる.それを日本の物理学者がわれ関せずえんと見送ってよいわけがない.また生物学の発展はいろいろの物理学,化学の問題を提供していて,それを知らないで縁なき衆生だなどと考えていると,物理学自体もおくれをとることになる.……」とある. われわれが名古屋大学理学部物理学教室でうさぎの筋肉から蛋白質アクチンを採り,そのG-F変換(粒状アクチン分子−Gアクチン−のせんい状重合体−Fアクチン−形成)の研究を始めたのは同じ1954年秋のことであった.われわれは高分子電解質の研究をしていた.蛋白質は高分子電解質である.高分子電解質ゲルが筋肉モデルとして提出された.われわれにとって生物へという方向は必然であった.それにしても物理学教室にうさぎがもちこまれ,人々はおどろいた. この研究にとりかかる前,研究室でぶっつづけに一週間朝から晩まで,何を対象にどういう方法でどういう研究をするかの議論をした.横軸に感覚,運動,光合成などの生理現象を並べ,縦軸に研究方法,あるいは構造のレベルを並べ,研究の現状分析をした.生理学と生化学の間,細胞と分子の間を埋めなければ,と考えた.筋肉の研究をする,それも分子レベルから,そしておそらくまずアクチンからと暗黙のうちに了解はしていたが,議論することによって自ら納得しようというのであった.何しろうさぎの殺しかたから習わなければならないのである.しかし,突飛なことをはじめるという気はしなかった. 1955年秋に京都大学基礎物理学研究所(基研)で生物物理の研究会が開かれた.そのときの主題は生体における(1)動的平衡の物理的特色(杉田元宜ら),(2)筋肉などメカノケミカルシステム(名大物理高分子グループなど),(3)酸化還元とエネルギートランスファー(九州大学生産科学研究所・大森恭輔,富田義一ら,小林理研・押田勇雄,大鹿譲ら)であった.この3つは当時のわが国の生物物理の動向をよく反映している. この研究会では研究発表と討論に加えて,生物物理研究の進め方についての議論があった.Schrdingerの“生命とは何か”がよく読まれていた.われわれの主張は反 Schrdingerといわれた.生物については理論は無力であるというのであった.生物の側からの一片の情報をたよりに理論をたてても現実からは遠い.(当時細胞分裂時の染色体の動きと関連して,同種及異種巨大分子間に働く力の量子力学的理論が提出されていた.)とにかく,生物の現場で実験しなければというのであった. 筋肉蛋白質アクチンのG-F変換の研究を計画したとき,われわれは(1)試料であるアクチンは自分たちの手で筋肉から抽出精製すること,(2)できるだけ多くの測定方法(光散乱,流動複屈析,電気泳動,……)で,(3)できるだけ広く環境条件(pH, イオンの濃度と種類,温度,蛋白質濃度,……)を変えてアクチン溶液の性質をしらべることにした.そしてアクチンの状態についての徹底した地図を作ろうとした. これには一つの理由があった.それは生物分野では実験データが,細胞レベルでも分子レベルでも,しばしば人によって研究室によってくいちがうことであった.高分子の場合もそうであったが,生物の場合はより顕著であった.矛盾がいっぱいであった.(例えば,横紋筋の収縮のときI帯がちぢんでA帯はちぢまないかどうか.A帯の太いフィラメントは筋肉せんいの方向に横紋をこえてつながっているかどうか.アクチンとミオシンのとけている溶液にATPを加えたときアクチンとミオシンは解離するか,形状を変えるかなど.)原因は試料の差か,方法の差かそれとも条件の差か.結局全部自分たちでやるほかはない.まず第一歩としてのアクチンの状態について統一的な描像を画きたかった. 物理学会の生体物理分科は発足後毎年2回それぞれ10件余の研究発表があった.急激に件数が増加する様子はなかった.上記の人々を中心とする常連の集まりの感があった.その中でわれわれは実験結果の報告をつづけた.毎回,うさぎの筋肉からアクチンを採るプロセスのスライドからはじめた.データは集積されたが,1〜2年は特別な発見があったわけではない.それでも生体物理分科の人々は寛容であった. 1956年の生体物理分科会で例によってアクチンについての報告をしていた.その中にFアクチン溶液の電気泳動のパターン(昔のシュリーレン光学系による)があった.それを見た九大の大森の質問が忘れられない.FアクチンとGアクチンがいっしょにいるのか? パターンにFアクチンのピークと別にGアクチンに相当するピークが出ていた.われわれはアクチンの精製の仕方が拙くFアクチンになれない変性アクチンが混じっていることもあって,第2のピークについて真剣に考えていなかった.(同じ質問は“変性”をよく知っている生化学者からは出てこなかった.)これが重要なヒントとなった.G-F変換と気-液凝縮との類似を見つけたのは同じ年の暮のことであった. その後この発見を確認する実験をつづけ,最初の論文が出たのは1959年であった.5人の研究者2)の今いうところのプロジェクト的研究であった.はじめは大まかに目標をきめてやみくもに実験し,2年後に筋書きが浮び上って,5年で一応まとまった仕事になった. 2. 他の分野との交流物理学会生体物理分科での研究発表はほとんど“物理”の人々によるものであった.ときどきの招待講演以外に他からの参加はあまりなかった.しかし,個々の生物物理研究者にとって物理以外の人々との交流と協力が問題のとびらを開くための鍵であった. 高分子電解質から筋肉に興味をもったわれわれは名古屋大学医学部生理の伊藤竜研究室を訪ねた.1952年,伊藤は東京の慈恵会医科大学の名取礼二を招き,名取筋原せんいの収縮実験とわれわれの高分子電解質ゲルの収縮実験(野口肇による)とを引き合わせるべく,医学部で研究会を開いた.われわれは名取の実験,光学顕微鏡で手でメスを使って油に浸した筋肉細胞の細胞膜を取り除く,を見て驚嘆した.その後,慈恵医大での“筋生理の集い”に参加することになった.そこで筋肉の生理学,生化学の研究者と知り合った. 同じころ,筋肉モデルと関連して,合成ポリペプチド研究のことで大阪大学理学部化学の赤堀(四郎)研究室を訪ねた.隣の生物学教室で神谷宣郎による粘菌細胞の原形質流動の実験を見た.当時,生物学をエグザクトサイエンスにしたといわれた見事な実験である.これも“光学顕微鏡と手”によるものであった. こうしてつき合いが広まり,名古屋大学理学部で生物化学物理討論会を開くことになった.一つの目的は生命現象を研究するとして,その方向を定めるための勉強であった.1953年に第1回を開き,本格的になったのは1954年からで毎年2月,5回つづいた.3) 若いわれわれからの「こういう会をしたい.」という一本の手紙や電話に応じて,上記の人々をはじめ各分野の最高の研究者たちが集まった.当方で旅費を用意した記憶はない.教室に暗幕がないので葬儀屋へ借りに行ったとか,停電になったら新聞紙をもやして明りをとって議論をつづけたとか,なつかしい思い出がある.討論会の話題はかなり広かった.第3回の記録をみると討論の主題は“生体→蛋白質分子→生体”となっている.当時と今と考え方は変っていない. このようなつき合いの中で先輩たちはわれわれをおだてて,“ATPのことなど知らなくてもいい,大丈夫”とはげました.それにのって実験をはじめた.低温室も超遠心機もなかった.電気冷蔵庫を買ったのはしばらくたってからであった. こう書いてくると,いまさらのようにわれわれは何の制約もなく,「やりたいことをやりたいようにやった」と思う.名古屋大学物理学教室は1942年に創設され,戦後の1946年に講座制度を排し,教室憲章を作り,研究室制度を発足させた.教室全体として意気さかんであった.物理で生物を研究するのは望ましいことであると教室はサポートした.ただし,理屈と現実との間にはいささかのへだたりがあった.教室の一角でうさぎが殺されるのである.物理の人の多くはそういう生きものの嗅いは苦手である.にもかかわらずサポートした. 当時,生物物理に人気があったわけではない.特にわれわれの場合,まるで生物学教室か化学教室でやるような実験に明けくれていた.毎日ビーカー洗いであった.卒業研究や大学院でわれわれの研究室へ入る学生は少なかった.せっかく物理へ来たのに生物とは,と感じたであろう.生物物理にいくらか人気が出はじめたのは1960年代に入ってからである. 1955年に東京大学医学部の熊谷洋を中心に筋化学の研究班が組織された.われわれもその一員となった.江橋節郎,殿村雄治ら同じ世代の人々が主力であった.出身分野も研究場所もいろいろであった.班会議での討論はきびしかった.研究の意図を問われ,意義をつっこまれ,単なる追試は許されず,データのくいちがいは放っておかれなかった. 上記の名古屋での討論会ではまだ“物理の方の御意見は? 生物の方の御意見は?”というやりとりがあったと思う.この班会議ではそれはなかった.最近いわれている“異分野交流”とは全くちがう.同じ土俵で研究を競い合う状況であった.ちがう考え方,ちがうバックグラウンドの研究者をおもしろがらせなければだめであった. この研究班が主催して1957年秋,国際酵素化学会議のサテライトミーティングとして,筋化学シンポジウムを東京で開くことになった.研究者たちにとってこのシンポジウムで研究発表し,外国の研究者と討論するのが当面の目標となった.多くの研究者にとって初めての経験であったが目標を達成し,各研究者は自信を得た. その後この研究班は筋肉収縮と原形質流動など細胞運動をふくめた生物物理の総合研究班へつながった.現在も“運動班”は存続し,テーマ中心,所属いろいろの班会議はますます盛会である. 物理から生物へと向かうとき,われわれは筋肉収縮,原形質流動に興味をもった.わが国のこの分野には非常にすぐれた研究者がいた.先輩にも同世代にも.これがまさに幸運であった.どの分野に入ってもそうであるとは限らない.日常的につき合えるためには,まわりにそういう人たちがいることが大切である. 自分にとって新しい,すなわち自分のような考え方,方法ではまだ誰もやっていないと思う問題にとりかかったとき,そこにはかねてから別の考え方,方法で研究している人々が必ずいる.そこですぐれた研究者を探せというのである. 3. 生物物理学会設立Watson-CrickのDN 2重らせんの発見は1953年のことである.遺伝情報のなかみとその複製過程についての推論までいっきょにできてしまった大事件であった.生物の人々の反応はさまざまであった.われわれはことの重要性は理解できたが,ひとごとのような感じをもった. 物性論−高分子物理もその一つであるが−から生物へ向かった研究者はどうも生理現象に興味をもつらしい.それに対して量子力学・素粒子論から生物にひかれた研究者は遺伝現象に興味をもつようである. 京大基研で湯川秀樹は生物物理の大ファンであった.1950年代後半から京大では遺伝情報についての討論がさかんであったらしい.生理現象とともに遺伝現象もわが国の物理研究者の対象に入ってきた.分子生物学の画くストーリーの明解さが物理研究者を魅了した.わが国の生物物理が生理と遺伝をカバーして健全に成長しそうに思われた. 折から,国際物理学連合では生物物理についての議論が行われていた.同連合の中に生物物理のコミッションを作り,それを将来独立の国際生物物理学連合へ発展させようというのであった. 国際物理学連合の副会長であった小谷正雄はわが国に生物物理の組織すなわち生物物理学会を作らねばと,1959年秋東京大学に関係研究者を召集した.物理,化学,生物はもちろん医学農学工学からも関心をもつ代表的研究者が集まった.学会結成へむけての活動が始まった. 1960年夏,生物物理若手夏の学校が志賀高原で開催された.主に名大の若手研究者が世話をした.熱気あふれる学校となった.研究発表は若手であったが,東京都立大学の団勝磨ら熟年の研究者も大ぜい参加した. この学校が生物物理のグループと分子生物のグループが一堂に会して議論する初めての大会であった.夜には生物物理とは何か,どういう学会を作るかなどの討論がつづいた.学会会則の案まで作られた. 同年12月生物物理学会が誕生した.生物物理に関心をもつ研究者が広く各分野から参集した.応援団ぐるみの学会となった. 第1回国際生物物理学会議は翌1961年夏Stockholmで開催された.そのプログラムからみて外国もわが国も生物物理のイメージに差はなかったようである.国際的にも国内でも生物物理の学会ができたのは生物物理の内容が豊かになったからというよりも,生物物理は将来発展するはずの,あるいは発展させるべき分野である,もり上げなければ,という意志によってであったと思われる. 物理の側からみて,生物物理学会設立の効能は何であったか.物理学会の分科会では似た考え方の研究者の集まりで同好会風になりかねない.おまけに生物へというような新しい対象に向かって新しい領域を開こうとする研究に,物理の人は一般に甘い.他からの批判をうけ,視野を拡げなければならなかった. 生物物理学会では生命現象がいかに多面的であるか,その中で物理になりそうな,物理がからみそうな問題がいかに多いかを知り,それらの問題についてちがう立場,方法の研究者と議論できる.もっとも生物物理学会がこういう意味で真に総合的な学会になったのは誕生後数年をへてからであった.(1964年ごろ生物物理特定研究が計画され,生体物性,分子遺伝,分子生理,細胞生物物理,生体機能を5本の柱として20余の研究班が作られた.特定研究は1966年から6年間つづいた.) 東大物理で小谷研究室が大学院のテーマとして生物物理実験を掲げたのは1960年であった.つづいて和田(昭允)研究室ができた.名大理学部では物理,化学,生物各教室の研究者の協力によって1961年分子生物学研究施設が創設された.1960年代は各地の大学に生物物理関係の研究室が続々生れたときである. 生物物理学会ができたからといって物理学会から生物物理が消え去っていいわけはない.物理と生物物理,隣り合う組織の中に研究分野の重なりのあることが絶対に必要である.大学の場合も同じである.物理と生物物理が縦割りで画然と分かれていては,そのときはよくても次の発展が難しくなる. 4. 再びふりかえって,そして今生物物理始まりのころから40年余りが経過した.生物物理は生物学であり,かつ物理学である学問である.生物と物理との境界にじっと立っているのではない.生物物理は生命現象のある面を切りとって物理にしようとする.物理にした問題を物理として解こうとする.解けたならばその答えを生物にかえして,生物の中で適用し評価しようとする.生物物理は生物と物理とをいききしながら発展する学問である. 1950年代に蛋白質の変性が可逆であることが証明された.多数のアミノ酸のつながった鎖として合成された蛋白質分子が特定の立体構造をとる過程が統計熱力学の問題となった.その証明は精製された蛋白質分子の稀薄な溶液という,いわば理想的な環境条件で行われた.しかし,基本的に同じ過程が生きている細胞の中でおこっていると考えられる.それ故にこそ,この過程を物理として解くことが重要である. 蛋白質分子同士が結合して集合体をつくる現象も統計熱力学の問題となった.余計なものを洗い流して純粋にした現象を試験管内に実現し,その物理的記述を作り上げる.生きている細胞のあちこちで,同様の現象を種々の蛋白質分子が演じている.細胞の中でその現象は幾重にも修飾されている.物理的記述の枠組みの中で各修飾因子の役割が位置づけられて,現象全体が把握される. 生命現象を物理にしたとき,既存の物理で間に合うとは限らない.そうでないことを期待して研究する.今までの物理になかった問題に出会う.筋肉収縮をになうすべり運動の分子機械の場合がその例である.4)単位分子機械のエネルギー変換の統計力学をつくらなければならない.そこまで問題がつまったのは単位分子機械の機能,すなわち入力出力関係を広い条件で定量的にしらべる研究が進んだからである.それには新しい物理的実験方法の開発が必須であった. 別の例は分子機械システムとしての細胞の場合である.細胞は環境の変化に自主的にレスポンスする.もともと物理が得意とする対象のはずである.自発性を内蔵し,空間的時間的階層をもつシステムの統計力学が必要である. この40年間の分子生物学の発展は目ざましい.種々の生命現象を多くの種類の分子のおりなすストーリーとして記述してきた.生命現象のドラマを演ずる役者とドラマの筋書きを明らかにしてきた.物理の出番はなさそうに見えるかもしれない.しかし多くの場合,分子生物学による筋書きにはエネルギー,エントロピー,場,分子の数,空間の大きさ,時間の長さなどが出てこない.これらの“物理”によってドラマに肉づけをしてはじめて生命現象を再構成することができる.まさに物理が待たれている. 生物物理は生命現象を物理にすることから始まると書いた.身のまわりにはいっぱい生物がいる.そこに多種多様な生命現象が見られる.そのどの面のどの部分に興味をもってもよい.そこへ飛びこんで対象に密着して研究する.そのとき物理の人はわざわざ物理を意識しなくても,やがて我田引水的研究をすることになるであろう.物理にして物理として解く.くりかえしになるがそこで,自然の中の生物の理解へつなぐことが大切である. 生物物理は窮極的には生きているとはどういうことか?生きものらしさとは何か?に物理的立場から答えることを目ざしている.しかし,この目標はいっきょに達成できるものではない,何よりも個々の生命現象についての理解を積み重ねることが必要である.そのための物理を一歩一歩作っていかなければならない. 生物物理は40年前の始まりのころの性格を常にもちつづけている,またもちつづけることが望ましい.生物物理とはそういう学問である. 注および参考文献
非会員著者の紹介:大沢文夫氏は1922年大阪生まれ.1944年東大物理卒,名古屋大学理学部助手,1950年同助教授,1959年同教授となる.1968年大阪大学基礎工学部教授を併任.1986年定年退官し,1987年愛知工業大学教授,1995年同客員教授となる.専門は生物物理. |