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50年をかえりみる

ある流体物理屋の軌跡

今井 功*


Lagrange的見方とEuler的見方

流体力学は水・油・空気など流体の運動とそれに関連する力学現象を対象とする.その考察の方法には,大まかにいって,Lagrange的な見方とEuler的な見方の二通りがある.前者は,流体をそれを構成する粒子の集団と見なし,各粒子の行なう運動の総合結果として流体の運動を理解しようとする立場である.これに対して後者は,流体の運動を4次元空間(x, y, z, t)の現象としてとらえる立場,すなわち,流体を一望のもとに見渡し,流体内の各点r(x, y, z)での流速が時間的にどう変化するかを追求する立場である.このEuler的な見方は「場の理論」の原形をなすもので,数理解析の手法の適用が便利に行なえるために,現在,流体力学の研究はもっぱらこの立場で行なわれている.

ふつう「歴史」といえば,このEuler的な立場で叙述される.すなわち,その対象(たとえば社会状勢)が時代とともに推移してゆく有様を記述するのが一般である.しかし,その対象の一部のみに注目する「個人史」,つまりLagrange的なもの,もあってもよいだろう.そして,「個人史」の集合(適切な価値判断による取捨選択を経て)として客観的に信頼できる「歴史」がつくられるだろう.

「流体物理学の50年史」は,どのようなかたちのものであれ,だれか書いてくれないかとかねがね筆者は待望していた.しかし自分がその責めを担うことになり甚だ困惑した.客観的なEuler的な記述はとても無理である.ただ,物理学会とともに歩んで来たものとして,流体物理学の進展の流れの中を漂って来た1個の ‘流体粒子’ の体験をLagrange的に述べることなら可能であろうと腹をきめた.したがって,個人の主観にもとづく独断と偏見のみによる ‘個人史’ である.このような ‘個人史’ を他の流体物理の方々にもお願いして,いつの日か信頼できる ‘流体物理学50年史’ の完成することを切望する.


日本物理学会の創立と流体力学

日本数学物理学会が解散して日本物理学会が創立された1946年4月は,筆者が東大物理学科を卒業して阪大物理学教室の友近晋先生のもとで流体力学の勉強をはじめるようになってからちょうど10年たった時である.この10年間は,「流体力学」といえば「航空力学」が主流を占めていた.実際,筆者の卒業当時,物理の出身で流体力学を専攻する者はきわめて少数であった.それも,気象方面を除けば航空機関係に限られていた.しかし,戦時色が濃厚になるにつれて,航空機関係からの要望が増大し,若い物理出身者が航空力学の分野で大いに活躍することになる.この時期の流体力学の進展についてはここでは述べない.

敗戦によって,航空に関する研究は連合国の命令によりいっさい禁止されることになった.戦前・戦中を通じて日本の航空学研究の中心を占めていた東大附置の航空研究所は1945年末をもって廃止され,全国各大学の航空学科および航空関係の講座もすべて廃止される.流体力学の研究者(その大部分はなんらかの意味で直接・間接に航空に関連する)の挫折感は大きかった.日本物理学会の発足はちょうどこの時期に一致する.

航空学の禁止に際して筆者の覚えたのは一種の解放感であった.大学卒業から敗戦にいたる9年間のうち2年半は友近先生のもとで流体力学の勉強をはじめ,そののち東大物理学教室にもどり航空研究所に兼務することになる.それとともに「日本航空学会」の「抄録委員」として,物理出身のみならず工学部出身の生粋の航空力学研究者との接触がはじまる.こうして自然に「翼理論」や「高速流体力学」の研究にのめり込むことになる.そして,戦争末期は,「航空技術協会」の研究補助金で採用したお嬢さんを相手にしてタイガー計算機に明け暮れる毎日であった.敗戦によってこの緊張状態は一挙に崩れ去ったわけである.

解放感とともに訪れたのは,今後どうすればよいかという考えである.戦争中にやった仕事を一応まとめておくこと,それと流体力学を勉強し直すことである.時間は十分ある.先を急いで研究にあくせくする必要はない.ここらで一服しよう.物理教室は,復員・復帰して来た若手の研究者や大学院学生で活気が満ち溢れていた.そこで研究室関係の人達とSeitzやMott-Gurneyの固体論の本や,Ndaiの塑性論の本などの輪講をするなど,物理の栄養補給をはかることにした.流体力学方面では,乱流のKolmogorov理論に関する情報が入りはじめ,研究者を大いに刺激した.東大理工研(航研の後身)と京大の友近研究室が東西呼応して入手論文のコピーをガリ版印刷にして配布する事業をはじめた.友近先生を中心とする物理出身者と谷一郎先生を中心とする航空工学出身者が緊密な関係をもつようになったきっかけは,このガリ版刷りであったと思う.これはやがて「流体力学懇談会」の結成となり,「日本流体力学会」の創立につながる.


東大理学部1945〜1960

大学卒業後の2年半の友近先生のもとでの修業時代(1936〜1938)に続く数年間(1938〜1945)は,高速気流の問題に専心していたが,研究の途上で新しい問題が続々と出て来た.終戦はこれらの問題を落ち着いて考える余裕を与えてくれた.1945〜1955の約10年間はその整理と展開の時期にあたる.そのはじめの数年間は「遷音速流」が世界的に関心をよぶ問題であった.筆者は「量子力学」でよく知られているWKB法が「遷音速流」にも応用できることに気がつき,これを精密化することを試みた(1948).

WKB近似の精密化

Schrdinger方程式で電子の運動を考えると,波動関数は ‘束縛状態’ では ‘振動型’,‘自由状態’ では ‘指数型’ である.偏微分方程式論では,前者は ‘双曲型’,後者は ‘楕円型’ に対応する.ところが,気体の流れを支配する方程式は‘亜音速流’に対しては‘楕円型’,‘超音速流’に対しては ‘双曲型’ になる.つまり,電子の ‘束縛状態’,‘自由状態’はそれぞれ気流の‘超音速’,‘亜音速’に対応するのである.そして‘遷音速流’は流れの中に亜音速の領域と超音速の領域が混在するものとして,いわゆる‘混合型’の偏微分方程式に支配されるのである.WKB法では‘束縛状態’と ‘自由状態’ をつなぐ「接続公式」が重要であるが,遷音速流の理論ではその「接続公式」をさらに精密化することが必要なのである.(WKB法の精密化については文献1のp. 205,高速気流への応用については文献1のp.694を参照.)この‘精密化’は‘高速気流’(1949)のほか‘電磁波の回折’ (1954), ‘特殊関数の漸近展開’ (1956),‘境界層内の熱伝導’ (1958)にも適用することができた.

一方,流体力学を勉強しはじめた頃から気になっていたことがあった.それは,粘性流体の基礎方程式であるNavier-Stokesの方程式に対する‘有用な’厳密解が一つも見つかっていないことである.ここで ‘有用’ というのは,‘一様流中になんらかの物体をおいたときの流れ’ の意味である.たとえば,流体力学よりも ‘高級’ と考えられている「量子力学」では,水素原子に対するSchrdinger方程式の厳密解が知られている.ところがNavier-Stokes方程式についてはこのような,たとえば ‘一様流中の球’ に対する厳密解は見出されていないのである.Navier-Stokes方程式の厳密解が求めにくいのは,本質的にはそれが非線形であること,つまり ‘解の重ね合わせ’ がきかないことに原因する.厳密な ‘特解’ は多数見つかってはいるが, ‘物体のまわりの一様流’ を表わす解が得られないのである.機会を見てこれを追究したいというのが筆者のかねての望みであった.

問題を簡単にするために,まず,流体は ‘縮まない’ とし,かつ ‘柱状体のまわりの一様流’ という2次元問題を考えることにした.そして,物体から遠く離れた点で厳密に成り立つ解,つまり ‘無限遠での漸近解’ を求めた(1951).(物体からの距離をrとし,流速ベクトルをrの降ベキの級数で表わすと,rの負の整数ベキのほか,半奇数ベキおよびこれらとlog rの積も現われる.そして各項の係数は物体に働く力とモーメントの関数として具体的に与えられる.この事情は,任意に帯電した物体による真空中の静電場のポテンシャルが,物体の形や電荷の分布状態によらず,F〜(Q/4peo)r−1の形に表わされることに似ている.ただし,Qは全電荷である.)

これによって,物体に働く力とモーメントの値と無限遠での流れの状況との間の対応関係が明らかになった.そこで,円柱を過ぎる一様流について,Navier-Stokes方程式の厳密解を少くとも数値的に求めるための準備がととのった.Reynolds 数40の場合についてこれを実行したのは川口光年君で,タイガー計算機で毎週20時間,約1年半を要する大計算であった(1953).これは1970年代に始まる数値流体力学のさきがけをなすものである.

1950年代に入ると,「高速気流」の研究はやや下火になり,これに代わって「粘性流」の研究が盛んになってきた.Navier-Stokes方程式を線形化したStokes近似やOseen近似を用いるもので,とくに京大の友近研究室を中心に精力的な研究が進められた.球,円柱,楕円柱などの単独の物体が無限にひろがる流体の中で運動するばあいのほか,流体が壁で限られているばあい,あるいは複数個の物体が相互干渉するばあいなどである.筆者の周辺でもこれに呼応した形で粘性流が中心課題になったが,筆者自身の興味はむしろ「線形近似」から出発して高次の近似に進む方式を見出すことにあった.実際,戦時中の「高速気流」の研究では,その基礎式は ‘非線形’ であって,これをとり扱うのに‘M2展開法’が成功した.MはMach数で,流速Uと音速cの比:M=,U/cとして定義される.そして,流れを表わす諸量は形式的にM2のベキ級数として表現され,その ‘第0近似’ が ‘縮まない流体’ に対する周知の解を与えるのである.Mach数Mはいわば ‘無次元の流速’ を表わすので,「粘性流」においてこれに相当するものを考えると,‘Reynolds数’Rがただちに思い浮かぶ.RはR=rUL/prは密度,mは粘性率,Lは代表的な長さ,Uは代表的な流速)と定義されるからである.(実際,非粘性の縮む流体(気体)の基礎方程式を無次元化すれば,パラメーターMが現われ,縮まない粘性流体の基礎方程式(Navier-Stokesの方程式) を無次元化すれば,パラメーターRが現われる.M,Rはともに無次元で流速Uに比例するから,‘無次元の速度’ と考えられるのである.)

こうして,粘性流に関する諸量をRのベキ級数の形に表わすと,その第1近似は周知のStokes近似である.球の抵抗Dに対する有名なStokesの法則D=6pmUa (aは球の半径) はこの近似で得られたものである.ところが,第2近似に進もうとすると,境界条件を満足する解が得られない.この事実はA.N. Whiteheadのパラドックスとして古く(1888)から知られていた.すなわち ‘R展開法’ なるものは第2近似で挫折する.なお不思議なことは,円柱を過ぎる一様流に対してStokes近似を適用しても有意義な解が得られないことをStokes自身が注意していることである.円柱とは限らず一般に柱状体に一様流があたるばあいの2次元的な流れはStokes近似では扱えない.これをStokesのパラドックスという.この難点を避けるためにW.OseenはNavier-Stokes方程式に対する新しい ‘線形化’ を提案した(1910).現在 ‘Oseen近似’ とよばれるものである.

Oseen近似は2次元流に対しても応用できる点ですぐれているが,その解析的な厳密解を求めることは困難であった.たとえば球,円柱,楕円柱については,Bessel関数,Mathieu関数などの特殊関数が必要である.友近研究室の諸氏が苦労された一因はこの点にあった.まして,Oseen近似を第1近似として高次近似に進むことは到底無理なように考えられる.また,はたしてOseen近似の第2近似は存在するのだろうか?Stokes近似におけるWhiteheadのパラドックスのようなことは起こらないのだろうか? 実はL.N.G. Filon (1926)がそのようなパラドックスの存在を推測していたのである.さいわいこの問題は前記 ‘無限遠での漸近解’ によって解決した.(前述の ‘無限遠での漸近解’ は,実は,Oseen近似の第3近似に相当するもので,逐次近似の遂行にはなんら支障はなかった.Filonは第2近似までしか求めず,しかも重要な項を見落すという誤りをおかしていた.つまり彼のパラドックスは見掛けに過ぎない.)すなわち,Oseen近似を第1近似として逐次的に高次近似を求めることは原理的には可能であることが判明したのである.

ここで注意すべきは,Oseen近似の ‘厳密解’ といっても,それはNavier-Stokes方程式の ‘近似解’ に過ぎないことである.つまり,その解をReynolds数Rのベキ級数に展開すると,Rの低次の項しか意味をもたないはずである.それなら,むしろ最初からOseen近似の方程式の解をRのベキ級数の形で求める方がよいのではないか? このような考えで,任意の柱状体を過ぎる一様流に対する計算方式を導き,特別なばあいとして,一様流に対して傾いた姿勢の楕円柱について実例計算を行なった(1954).これは三角関数だけを使用するもので,Mathieu関数を用いた橋本英典君の結果(1953)と一致する.後に,川口光年君はこの方法を使って正三角柱のばあいをとり扱った(1959).

1953年9月,国際理論物理学会議が京都で開催された.これはIUPAP(国際純粋・応用物理学連合,International Union of Pure and Applied Physics)の主催によるもので,日本の物理学界が戦後はじめて世界の物理学界に仲間入りしたことを象徴する画期的なイベントであった.筆者も組織委員の一人としてその議事録(1954)の編集に当ったが,とくに印象が深かったのは,J. H. VanVleckが「アルカリ金属の凝集エネルギー」という講演で筆者の ‘WKB近似の精密化’ について相当詳しく紹介してくれたことである.流体力学以外にも役に立つということで,筆者には大きいはげみとなった.

アメリカ滞在

1955年9月から米国Maryland大学のInstitute for Fluid DynamicsandAppliedMathematicsの客員教授として勤務することになった.それに先立ち,同年の6月にMichigan大学でURSI主催の「電磁波理論」のシンポジウムが開催され,招待講演をすることになった.当時は海外渡航がめんどうな時代であったので,シンポジウムのあと9月まで米国に居すわることができればと思っていたところ,Cornell大学の航空学教室で夏休みの2か月間の滞在を引き受けてくれることになった.Michigan大学では生れてはじめての英語講演で大いに緊張した.会場からの質問はチンプンカンプンで意味がとれず閉口した.このとき助けてくれたのがNew York大学Courant研究所のJ.B. Kellerで,同氏の厚意は終生忘れられない.当時Michigan大学ではO.Laporte教授が衝撃波管による高温度気体の特性の研究をしておられた.教授は量子力学の揺籃時代に活躍した方で,戦前,理研で研究生活を送り,日本語にも堪能であった.教授は筆者を晩餐に招いて下さった.後年,アメリカ大使館の科学担当参事官として東京に二度滞在し,日本の物理学者との親交が深かった.

Cornell大学ではW. R.Sears, Y. H.Kuo, N.Rott, A. Kantrowitzのほか短期滞在中のTh. von Krmn, G.K. Batchelorなどの方々と会談の機会が得られた.Maryland大学では「高速気流における近似法」と「物体の抵抗理論」についてそれぞれ半年間のセミナー講義を行なった.オランダのJ.M. Burgers教授もちょうど同じ時期に着任され,例の「Burgers方程式」について講義をされた.こうして同教授との長いつきあいが始まった.研究所には1年前から浜良助氏が勤務されていた.氏は谷一郎先生の一番弟子で,戦中・戦後を通じて航研 (とその後身である理工研) での親友である.滞米の経験が豊富で,研究所内外の生活・行動の万端について親身になってお世話してくださった.氏の実験室には絶えず出入りして大いにおしゃべりした.流体力学における理論・実験の関係がやっとわかったという気がした.

Maryland大学はWashingtonの近郊にあり,Johns Hopkins大学,NBS (National Bureau of Standards:現在のNational Institute of Standards and Technology), Naval Ordnance Laboratoryなども近く,流体力学研究者との接触にきわめて便利である.浜氏に誘われてこれらの研究所で開かれる談話会に参加して多くの研究者たちと知り合いになれた.F. Clauser, L.S.G. Kovsznay, G.B. Schubauer, P.S. Klebanoffなどである.New York, Bostonなどに行くことも簡単で,S. Goldstein, C.C. Lin, H.W. Emmonsなどかねて論文で名前だけは知っている人達にも知り合いになれた.アメリカ物理学会やアメリカ航空学会の講演会などにも参加できて,流体力学の最新の動向や研究者の関心を身近に感得できたことは,筆者にとって大きい収穫であった.

セミナーの準備は,‘高速気流’ や ‘粘性流’ の仕事をまとめるのに絶好の機会を与えてくれた.等間隔にならんだ無限個の円柱の列に対するM2展開法の応用,平板に沿う境界層の高次近似,境界層の熱伝達に対する精密化したWKB近似の応用などを行なったが,「にぶい物体の抵抗理論」2)の構想を得たことは,筆者にとってMaryland大学滞在の最大の収穫であったと思う.

電磁流体力学

1957年の春,1年半のアメリカ滞在の終るころ,物理で同級の宮本梧樓君から手紙をもらった.「核融合」のために必要だから,ぜひ「電磁流体力学」の研究をしてくれとの熱烈な勧誘状である.帰国して宮本研究室をのぞいて見ると,森 茂,大河千弘,吉川允二などの若手の研究者を擁して正に核融合のフィーバーであった.

翌1958年9月,第8回応用力学連合講演会が東京で開催され,W.R. Sears(Cornell大)とJ.R. Spreiter(NASA)が招待講演を行なった.前者は「電磁流体力学」,後者は「遷音速流」に関するものである.

「応用力学連合講演会」(略称NCTAM)は日本学術会議の「力学研究連絡委員会」の主唱のもとに,「力学」関係の学協会の共催として毎年1回開催される.その第1回は1951年11月に開かれ,共催学会は応用力学会 (現,航空宇宙学会),応用物理学会,機械学会,建築学会,造船学会,土木学会,物理学会の7学会であった.1996年1月には第45回が開催され,共催学会も,化学工学会,資源・素材学会,原子力学会,数学会,農業土木学会,流体力学会,レオロジー学会の7学会を加えている.NCTAMの発表論文は日本での力学関係の研究の動向を示すものと考えられる.

Searsの講演は日本の流体力学研究者に強烈な印象を与えた.「電磁流体力学」は1940年代のはじめごろH. Alfvnによって天体物理学での重要性が指摘されていたが,1950年代に入ると実際方面での応用として「核融合」,「MHD発電」,「超高層飛行」などが考えられるようになっていた.流体力学の新分野の登場に研究者達は色めき立ったわけである.

1960年1月にWilliamsburg(米)で開催されたIUTAMシンポジウム「電磁流体力学」には筆者のほか谷一郎,木原太郎,巽友正,橋本英典,中川好成 (Michigan大) の諸氏が参加した.橋本君はJohns Hopkins大学に滞在中で,‘前向きの伴流’ ですでに有名であった.同年9月Zrichで開催された第2回ICAS (International Council of Aeronautical Sciences)会議では,「日本における電磁流体力学」という標題で約30篇の論文を紹介できるまでに成長を遂げたのである.

同じ1960年の6月,Wisconsin大学のMathematics ResearchCenterで「偏微分方程式と連続体力学」の国際シンポジウムが開催された.筆者は「物体を過ぎる流れの無限遠での漸近的ふるまい」について話したが,筆者にとって大きい収穫はL.M. Milne-Thomson, D.P. Riabouchinsky, J. Kamp de Friet, J. Leray, F.G. Tricomiなどの碩学と1週間寝食をともにして語り合えたことであった.


ヨーロッパ滞在1960〜1961

1960年は忙しい年であった.8月の末から9月上旬にかけてイタリアのStresaでIUTAMの第10回大会が開かれ,谷一郎先生とともに日本から7名が参加し,中旬にはZrichでICASの第2回会議が開かれ6名が参加した.

IUTAM3, 4)

IUTAMはInternational Union of Theoretical and AppliedMechanics(国際理論応用力学連合)の略称で,1947年設立され,ICSU(International Council of Scientific Unions)に所属する.そして「力学研究連絡委員会」はその「国内委員会」の役割を果たす.これは物理学での前記IUPAPと「物研連」との関係に対応するものである.つまりIUTAMは全世界的に力学関係の研究の連携をはかることを使命とし,4年ごとにInternational Congress of Theoretical and Applied Mechanics (ICTAMと略称) を開くほか,流体力学関係の国際シンポジウムを毎年3〜4件主催している.その標題はその時点での最も中心的な課題を示している.前記の「電磁流体力学」シンポジウムはその例である.なお,厳密にいえば,国際応用力学会議は1924年にDelft(オランダ)で第1回が開かれ,第6回を1942年に開催の予定のところ第2次世界大戦のために中止され,戦後1946年に第6回がParisで開催された.その機会に各国を代表する機関を構成員とするIUTAMが設立されたのである.わが国の加盟は1951年で,力学研連の創設された1950年の翌年にあたる.

Stresaの会議では,Maryland大学に滞在中から考えていた「にぶい物体の抵抗理論」について講演した (文献2を参照).この会議にはドイツのAachenからDVL Institut fr theoretische Gas-dynamikの所員が数名参加していて,会議後Aachenに来ないかというK.Oswatitsch教授(所長)の勧誘を伝えた.実は会議後9月から12月までフランスのMarseille大学のInstitut de Mcanique des Fluidesに滞在することになっていたので,その旨伝えると,その後でもよいという.結局,1961年の1月〜3月の3か月間をAachenで過ごすことになった.

StresaのIUTAMの大会が終ってZrichのICAS会議に参加したのちMarseilleに到着したのは9月の中旬であった.ここでの仕事は大学院学生に「電磁流体力学」の講義をすることである.実は筆者を招いてくれたH.Cabannes教授は9月はじめにParis大学に転任しており,理論家の彼との討論を期待していた筆者にはいささか拍子抜けの感があった.しかも,初対面の所長のJ.Valensi教授はエネルギッシュな実験家で,汽船の煙突に関する特許をもつというような実際面を重視するタイプである.これは困ったと思ったが,教授は親切な人で,‘平板に沿う気流中の熱伝達’ についての大がかりな実験を見せて何かと意見を求める.なかなか刺激的である.これに答えるかたちで ‘平板の後縁の近傍での粘性流’ を研究することにした.その理論的とり扱いにはWiener-Hopf法が必要である.これと前述の ‘WKB近似の精密化’ との組み合わせを当面の目標に定めたわけである.

当時Marseilleには素粒子論の梅沢博臣氏が家族連れで滞在しておられた.近郊のドライブや御馳走などずいぶんお世話になった.Marseille大学にはA.Favre教授の主宰する乱流実験の研究所もあり,これと共同の談話会も開催された.

クリスマスを終ってMarseilleを去り,年末・年始の1週間をParisで過ごした.物理で同級の野上茂吉郎君がOrsayに滞在中で,同君のお世話でCit universitaireの「日本館」に宿泊し,野上君と旧交を暖めながらParis見物を楽しんだ.

Aachenの研究所では特に義務はなく,毎週1回のセミナーに参加するほかは,若い研究者たちの高速気流関係の研究の相談相手になっておしゃべりするだけである.所長のOswatitsch教授はWien工科大学との兼任で,2週間ごとに現われる.その不在期間は所員連中もなにかのんびりするようであった.暇を利用して,2月中旬にはKarlsruhe工科大学,3月のはじめにはGttingen,さらにAachen→Paris→Marseille→Milano→London→Stockholm→Hamburg→Aachenの大旅行を試みた.GttingenはL.Prandtlにはじまる流体力学の大本山で,ここではA. Betz, W. Tollmien, F. Riegels,……などに会えた.Londonでは足を延ばしてCambridgeのG.I.Taylor教授を訪ね,実験室など案内していただいた.ここは友近先生が若き日の2年間を過された所である.そして友近先生はTaylor教授をとりまく新しい流体力学の雰囲気をわれわれに伝えられたのである.筆者にとってまぶたの祖父にお会いする感があった.

4月はじめに帰国するまでのヨーロッパでの7か月の体験は流体力学の現状についておぼろげながらイメージを与えてくれた.それは日本で想像していたものとあまり違いはないということであった.もっとも,それにはアメリカでの体験がすでにしみついていたからでもあろうが.


東大理学部1961〜1975

流体物理学

ドイツから帰った年の10月,金沢で開催された物理学会の年会で,「流体物理学-その現状と将来」を標題とするシンポジウムが催された.流体現象を扱う学問分野として「流体力学」があることは周知のとおりであるが,この名称では流体現象の力学的側面のみを研究するかのような印象を与える.熱流体力学,電磁流体力学,化学反応流体力学,…などの登場によって,流体の粘性,熱伝導性,電気伝導性,磁性,…など諸種の物性が流体の運動をいかに支配するかを積極的に考慮するように流体力学の責任範囲を拡げるべきだという意図を「流体物理学」の名で示したものである.実は,3年前の1958年にアメリカ物理学会によってThe Physics of Fluidsが創刊されたのが,この名称がいわば公式に認められるようになったはじまりである.なお,この雑誌は現在この方面で最高の権威をもつものと考えられている.

上記のシンポジウムの開催にいたった背景には,流体力学の研究者 (物理関係) の全国的なグループが当時結成されていたことがある.文部省科研費の総合研究として友近先生を中心とする研究班が数年前からつくられ,京大と東大を中心として活動していたが,1958年1月には「流体力学懇談会」が発足し,筆者の研究室を事務局として機関誌「流力ニュース」が年4回発行されることになった.その中心になって活躍したのが高見穎郎君である.この「流力懇談会」の発足が上記シンポジウムの下地をつくったわけである.

1962年9月初旬,AachenでIUTAMシンポジウム「遷音速流」が開かれた.日本からは6名参加した.筆者は組織委員として8月下旬から「理論気体力学研究所」に滞在していたが,会議終了後も引きつづき研究所に年末まで滞在し,1年半前の仕事を再開することになっていた.この期間にWien, Berlin, Hamburg, Parisの大学・研究所を訪れ,流体力学の研究の動向に触れることができた.コンピューターの導入がはじまったことが印象に残る.

1964年7月の上旬,IUTAMシンポジウム「集中した渦の運動」がMichigan大学で開かれ,日本からは5名参加した.種子田定俊氏の ‘渦列の実験的研究’ はその美しい流線写真で参加者一同の賞讃を博した.同氏が「流れの可視化」の第一人者として世界に登場する記念すべき講演である.

この1964年はICTAMの開催年 (それはオリンピックの開催年と一致) である.8月末から9月はじめにかけてMnchenで第11回ICTAMが開催され,日本から11名が参加する.

この年,12月9日,われわれ研究グループの父として敬慕の的であった友近先生が亡くなられた.現職の京大教授として,また力学研連委員長としてご在任中であった.

コンピューター

話は遡るが,1954年,東大物理教室では,筆者の同僚の高橋秀俊さんの研究室で後藤英一君がパラメトロンを発明した.高橋研でこれを利用した計算機の製作が鋭意進められていたのは,ちょうど筆者のMaryland大学滞在の時期に一致する.帰国した翌年(1958)の3月にはパラメトロン計算機第1号PC1が誕生する.高嶺の花とあきらめていた電子計算機が身近で使えるというので,教室の内外は熱気に溢れていた.筆者も早速,助手の高見穎郎君をけしかけて ‘任意翼型理論’ のプログラム化を試みてもらったが,メモリー容量256では,残念ながら完全自動化は無理であった.

第2回のAachen滞在から帰国した1963年ごろ,物理で同級の高橋浩一郎君(後の気象庁長官)から明石大橋の建設計画について勧誘を受けた.明石海峡付近の風の分布の予測・計算をしてほしいというのである.当時,気象庁には数値予報を目指してコンピューターが導入されており,これが使えるというのはすこぶる魅力的であった.物理の大先輩Lorentzがオランダのダムの建設に大きい役割を演じたことも頭をかすめた.それに明石は子供のときから馴染みの土地である.「薄翼理論」と「境界層理論」を総合すればよかろう.実際,山あり谷ありの大地を風が吹きわたるときの空気の運動は,凹凸をつけた無限平面に沿う気流と考えられる.凹凸の高さ(深さ)を微小量と見なして気流を求めることは,薄翼に一様流があたるばあいと同様と考えられる.つまり「薄翼理論」が使える.地面付近の領域では,粘性 (このばあいは乱流による ‘渦粘性’) の影響が現われるので,「境界層理論」を使えばよい.

こう考えて,さっそく高橋君の勧誘に応じた.数値計算の実行は助手の宗像俊則君と大学院生の神部勉と金子幸臣の両君に頼んだ.

1965年には東大に「大型計算センター」が設置され,コンピューターはいよいよ身近なものとなった.筆者の周辺でも,‘渦糸近似’ による高Reynolds数の流れの研究がはじまる.高見君や大学院学生の桑原邦郎君の ‘渦面の変形’ や ‘剥離流’ の研究である.

1965年の7月から翌1966年の8月まで筆者はCornell大学に滞在することになった.「電磁流体力学」の講義が主な仕事である.この年の9月Honoluluで日米物理学会の合同会議が開催され,日本からも仲間の流体力学研究者が多数参加した.Cornell大学に着任早々のこととて,残念ながら筆者は参加を断念した.

1966年9月,IUGG/IUTAMシンポジウム「乱流と境界層(地球物理学的応用を含む)」が京都で開催された.IUGGは国際測地学・地球物理学連合(International Union of Geodesy and Geophysics)の略称である.IUTAM主催のシンポジウムが日本で開催された最初である.流体力学の研究者にとってその意義は1953年開催の「理論物理学」京都会議に劣らぬ重大なものであった.その組織・運営のための苦労はいま思い返しても大変であった.この経験はそれ以来日本で催される流体力学関係の国際会議の良き範例となった.

1968年8月,第12回ICTAMがStanford大学で開催され,日本からの参加者は21名である.その直前,近郊のMontereyでIUTAMシンポジウム「流体力学における高速計算」が催された.流体力学へのコンピューター利用の本格化を告げるものである.筆者は桑原邦郎君との共著の ‘円筒内の粘性流’ を発表した.Navier-Stokes方程式の厳密解をReynolds数Rの昇ベキの級数として解析的に表現するものである.コンピューターによる ‘数式処理’ の恐らく最初の試みであろう.高見君は ‘円柱を過ぎる一様流’ について前記の川口君の手動計算機による計算のコンピューター版を発表した.

このシンポジウムで最も印象に残るのは,アメリカのコンピューターの威力を見せつけられたことである.かれらに追いつけるのはいつの日かと嘆息をもらしたものである.やがて桑原君が民間の研究所として世界最高峰のコンピューターを擁する(株)計算流体力学研究所を設立するとは夢想だにしなかった.

ICTAMでは筆者は ‘平板の後縁付近の粘性流’ について講演した.82歳の高齢のG.I.Taylor先生が ‘粘性流体の糸や薄膜の不安定性’ という講演をされるお元気なお姿に深い感銘を覚えた.

Nagare

この年の10月,「流体力学懇談会」5)が発足した.これは1958年から「流力ニュース」を発行していた同好会的な同名の「流体力学懇談会」を発展的に解消して設立されたものである.そしてその機関誌は翌1969年から年4回発行されることになった.1970年発行の第2巻から,会誌名は‘Nagare'となった.

この年,日本物理学会誌に「流体物理」の特集号が発行された.‘流体物理’の名称が定着したことを示すものといえよう.

1969年6月,フランスのLilleでCNRS主催の国際シンポジウム「古典的および相対論的電磁流体力学」が催された.筆者は ‘電磁流体力学における薄翼理論’ の講演を行なったあと,昔なじみのAachenの理論空気力学研究所で2か月ばかり過した.この滞在中にAachen工科大学で「流体力学における関数論的方法」という題目の講義をした.

1971年9月,IUTAMシンポジウム「電離気体の力学」が東京で開催された.1966年の京都シンポジウムの経験のお蔭で,会の準備・運営について不安感はなかった.

流体数学

1972年3月下旬,筆者は思いがけず東大附属図書館長に選任された.このため,図書館に関連する東大内外の雑務に振り回されることになる.

9月には日本機械学会主催の国際シンポジウム「流体機械およびフルイディックス」で ‘流体力学における関数論の応用’ について講演する.ひき続きSeoulで,韓国物理学会創立20周年の記念講演会に招かれ,‘流体力学のパラドックス’ について話した.

図書館長の任期3年間は,暇を見て ‘流体数学’ のとりまとめに当ることにした.‘流体数学’とは筆者の思いつきの用語で,流体力学への応用を目指す数学であり,また流体力学的イメージによって数学を直観的に理解しやすくすることを意味する.たとえば,「微分可能性とは ‘近似的に1次式で表わされる’ ことである」,や「縮まない流体の2次元の渦無しの流れは正則関数のグラフである」というような標語をつかう.このような趣旨で ‘等角写像とその応用’ について1968年4月以来1973年1月まで19回にわたり「流体数学のすすめ」をサイエンス社の『数理科学』に連載してきたが,さらに ‘佐藤の超関数’ について「超関数は渦層である」を標語として初等化を試みた.その連載は定年退官後の1975年8月にはじまり,1979年2月まで26回続いた.そして,これらは後に単行書としてまとめられた.6〜8)


大阪大学基礎工学部1975〜1978

1975年4月,東大を定年退官して大阪大学基礎工学部に移る.機械工学科に所属するが,周囲の方々の暖かい配慮により雑用が少なく,大学院での講義とセミナーの他はまったく自由である.そこで,応用を目指した「超関数論」の整備に専念することができた.

この年の9月にはGttingenでIUTAMシンポジウム「遷音速流II」が開かれ,日本から筆者のほか3名が出席した.

1977年の2月から6月までCornell大学に滞在して ‘粘性流’ の講義と ‘応用超関数論’ のセミナーを行なう.同年10月には「日本物理学会100周年記念講演会」が開催される.そして流体力学分野ではOswatitsch教授が招待講演「翼の上の波」をされた.


工学院大学1978〜1987

1978年4月,阪大を定年退官して工学院大学に移る.本務は教職課程の担当で「数学科教育法」の講義であるが,学部学生に対して ‘応用解析’ の講義をするほか,大学院学生に ‘流体力学’, ‘電磁流体力学’, ‘応用超関数論’,‘等角写像’,…など随意に講義するよう求められた.そして,大学院では「電気工学科」に所属したので,かつて電磁流体力学を研究していたときから ‘電磁気学’ について抱いていた疑問を,この機会に徹底的に追求してみようと志した.その結果は「電磁気学を考える」の標題で『数理科学』に1985年3月から1989年8月まで20回にわたって連載された.これを補足・整理したものが文献9である.

1979年10月下旬から11月上旬にかけて「流体力学者訪中団」16名が北京・西安・成都・綿陽・杭州を訪問した.中国流体力学者との交流と綿陽の地下大風洞の見学を目的とするものである.宇宙航研の佐藤浩教授の周到な準備によって実現した.これには,物理学会の日中交流委員会の有山・周協定で有名な周培源教授のご尽力も大きかった.日本流体力学者の国際的な活動のひろがりを示すイベントである.

1980年8月カナダのTorontoで第15回ICTAMが開催され,日本から33名が参加した.このときの総会で谷一郎先生が日本としてはじめて理事に選出された.無任所理事 (会長,副会長,事務総長,財務理事以外の理事)4名のうちの1名である.

同年12月にはインドのBangalorで第1回アジア流体力学会議が開催された.この会議の開催母体はAFMC (Asian Fluid Mechanics Committee) で,その設立に主導的役割を演じたのは佐藤さんである.AFMCは1982年にはIUTAMの連携機関として承認された.

日本流体力学会5)

1982年1月,「流体力学懇談会」は発展的に解消して「日本流体力学会」が設立され,機関誌は‘Nagare'から「ながれ」に名称が変更された.

1983年9月,京都でIUTAMシンポジウム「乱流とカオス」が開かれた.日本の流体力学が世界の拠点の一つであるという認識がすでに定着していることのあらわれである.この年10月には北京で第2回AFMCが開催されている.

1984年8月,デンマークのLyngbyで第16回ICTAMが開催され,日本から43人が参加した.この総会で谷先生に代わり筆者が理事に選出された.

1986年8月には日本流体力学会の英文誌FluidDynamics Research(FDRと略称)が創刊された.当初季刊で,現在年6回発行されている.この年9月,東京で第3回AFMCが開催された.


定年後1987〜

1987年3月末,筆者は工学院大学を定年退職した.もっとも,その2年前から講義以外の大学関係の用務はいっさい免除されていた.この年,8月下旬から9月上旬にかけて二つのIUTAMシンポジウム「非線形の水の波」と「渦運動の基本的様相」が東京であいついで開催された.

翌1988年5月にはGttingenでIUTAMシンポジウム「遷音速流III」が開かれた.このときCFD (Computational Fluid Dynamics,数値流体力学) のことばが定着しつつあることに感銘を受けた.同年,第17回ICTAMがフランスのGrenobleで開催される.日本からの参加者は33名であった.

1989年8月,第3回ISCFD(InternationalSymposiumon Computational Fluid Dynamics-Nagoya)が名古屋で開かれる.また,その直前に第4回ACFMが香港で開かれた.

1990年 5 月28日,谷一郎先生が亡くなられた.友近先生亡きあと,われわれ研究グループの中心的存在であられたのである.

この年8月下旬アメリカのLa Jolla(Calif.)で開催されたIUTAMシンポジウム「流体の攪拌と混合」に出席した筆者は,昔なじみのCornell大学を訪れたあと,9月Wienで開催されたIUTAM総会に出席した.ここで,次期ICTAMを日本で開催したいとの提案を行なった.同年10月,Seoulで韓国理論応用力学会の創立記念講演会が開催され,筆者は ‘電磁場中の電磁性流体の運動’ という招待講演を行なった.翌1991年8月には,第5回ACFMが韓国の大田で開催された.

1992年8月,イスラエルのHaifaで第18回ICTAMが開催された.日本からの参加者は22名である.この総会で,筆者に代わり巽友正教授が理事に選出された.特記すべきは,次期1996年のICTAMを京都で開催することが圧倒的多数で決議されたことである.日本はもちろんアジアでICTAMが開催されるのはこれが最初である.われわれにとって多年の宿望がついに果たされたとの歓びと,同時に強い責任感を覚えた.なお,この年9月には,IUTAMシンポジウム「高迎角の流体力学」が東京で開催された.

1993年6月,日本流体力学会は社団法人となる.また,8月末から9月はじめにかけて,仙台で第5回ISCFDが開催された.

1994年は筆者にとって忙しい年であった.6月にはアメリカのLakeTahoe(Nevada)で催されたアメリカ機械学会「流体力学」夏期集会に招かれ,「流体力学を教える--個人的経験」という話をした.また8月にはIACM(Inter-national Association for Computational Mechanics)の第3回会議WCCMIIIChibaが幕張で開かれ,基調講演として「シミュレーション--物理モデルと数学モデル」を述べた.前者は数学ぬきでどこまで流体力学のエッセンスを伝え得るかについての体験を述べるもの,後者は ‘現象のモデル化’ について日頃考えることを述べたものである.いわば多年の講義と研究の総決算である.この ‘現象のモデル化’ については,物理概念を明確にすることが肝要であることを強調した.この趣旨で,保存法則を基礎として「力学」(連続体を含む)と「電磁気学」を統一的にとり扱ったのが文献10である.

この年5月には,IUTAMシンポジウム「液体/気体および液体/蒸気混相流中の波」が京都で,また9月にはIUTAMシンポジウム「層流-乱流の遷移」が仙台で開催された.翌1995年5月,第6回ACFMがSingaporeで開催された.

そして,1996年8月,京都において宿願の第19回ICTAMが開催されたのである.


おわりに

Lagrange的個人史を目指したが,ご覧のとおりまことに味も素っ気もないものとなり,恐縮千万である.ただ,シンポジウムの主題などをいちいち記したが,これはその時どきの重要課題を示すものとして,ある意味でEuler的歴史の役割を果たすのではないかと思う.

流体力学の歴史として本稿には重大な欠陥がある.「乱流」についての記述がないことである.もちろん日本でも,乱流の実験については谷一郎・佐藤浩両教授を中心として,また理論方面では巽友正教授を中心として卓越した研究が行なわれており,研究人口も非常に多い.これについてはどなたかにお書き願いたいと思う.

なお,本稿を補足するものとして,文献11〜13)をお読みいただければ幸いである.


文 献

  1. 寺沢寛一編:『自然科学者のための数学概論-応用編』(岩波書店,1960).
  2. 今井 功:科学28 (1958)110--流体抵抗の理論.
  3. S. Juhasz: IUTAM-A Short History (Springer-Verlag, 1988).
  4. IUTAM Annual Report. IUTAM本部から入手可能.
  5. 松信八十男:ながれ(日本流体力学会誌)12 (1993) 89, 233--学会25年のあゆみ1, 2.
  6. 今井 功:『等角写像とその応用』(岩波書店,1979).
  7. 今井 功:『応用超関数論I,II』(サイエンス社,1981).
  8. I. Imai: Applied Hyperfunction Theory (Kluwer Academic Publ., 1992).
  9. 今井 功:『電磁気学を考える』(サイエンス社,1990).
  10. 今井 功:“古典物理の数理”岩波講座『応用数学』[対象1](岩波書店,1994).
  11. 今井 功:『複素解析と流体力学』(日本評論社,1989).--第III部,複素解析-個人的体験
  12. 今井 功:ながれ 4 (1985) 180--研究生活をふり返って.
  13. 今井 功:“流体力学に学ぶ”『流体力学の世界』日本流体力学会編(朝倉書店,1990)p. 1.

*112東京都文京区水道1-11-5