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もっともっと語りかけてほしい辻 篤子〈朝日新聞大阪本社科学部 e-mail: KYK01734@niftyserve.or.jp〉一応真面目に物理を勉強したのは大学受験まで,大学に入学するや,あっというまに理科系を落ちこぼれてしまった私にとって,物理,というより物理学者とのつきあいは,記者になってからの方が長い.取材を通してさまざまな世界を知り,なるほどこんなにおもしろいこともあるのだと,目を見開かされ,大いに知的興奮も覚えてきた. と同時に,自分がかつて在籍したはずの同じ大学の中で,こんな研究が進められていたのだと,改めて大学を見直したことも多い.そして,ふと,もし学生時代にこうした研究に出合っていたら,別の人生があったかもしれないと,考えてみたこともある. 昨年のことだったが,米沢富美子先生がこんなふうにいわれたことがある.なぜ物理学をやるのか,科学の魅力とは何か,そう尋ねたときの答えだったと思う. 「何か新しいことを見つけたとき,世界中でこのことを知っているのは私一人なんだ,だれもまだ知らないことを私だけが知っているんだ,そう思うと,わくわくしてくるんです.」 まるで少女のように,などというのは,物理学会の今期会長に就任することがちょうどその日に決まったばかりだった先生に対してはちょっと失礼かもしれないが,本当に目をきらきらさせてこうおっしゃった先生の姿には,誇張でなくまぶしいものがあり,私は心底,科学者をうらやましいと思った. 学生時代にもひとつ,物理学をめぐって忘れられない言葉がある.教養課程の物理学を担当しておられた中村純二先生の研究室を,友人とともに訪ねたときのことだ.追試かどうか,気になる学生は聞きにくるようにといわれてのことだった.物理学はどうも難しくてついていけない,という私たちに,先生はこういわれた. 「別に難しく考えることはないんです.この自然界がどうなっているのか,そのしくみを知ろうということなんですよ.」 間近で見る先生の眼鏡の奥の目がにこにこ笑い,窓の外で木がそよいでいた. まだ受験物理を抜けきっていなかった私たちに,この言葉は実に新鮮に響いた.無味乾燥に思えた数式の羅列も,急に身近に感じられた.幸い追試もなく,帰る道々,「なあんだ,物理って,そういうことだったのね.」 友人とそんな話をしたのを覚えている.見慣れたキャンパスの光景が,いつもとちょっと違って見えた. 今にして思えば,これは,物理の魅力との接近遭遇の瞬間だった.しかし,残念ながら,後が続かなかった. ここで場面はアメリカのHarvard大学の大教室に飛ぶ.ときは1989年,私はMITの科学ジャーナリストプログラムに留学していた.このプログラムは,MITだけでなく,隣のHarvard大学の授業を聴講することができる.米国だけでなく,オランダやブラジル,それに日本から参加した記者仲間と情報交換しながら,さまざまな授業をのぞいてみた. 仲間内で評判の高かったのが,Harvard大学の一般教育の中の自然科学の授業だ.記者にとっては,MITの専門科目より,入門として役にたつ. 例えば,79年のNobel物理学賞を受賞したGrashow先生の授業はこんな具合だ.ある日のテーマは,太陽.まず黒板に,大きく太陽定数を書いた.そこから,太陽のエネルギー,中心温度と,導いていく.面倒な数式はいっさいなく,簡単な計算のみ,平易な言葉と論理で学生を引っ張っていく.話は超新星を経て最後はニュートリノに及び,まだまだわからないことがたくさんあると,疑問符で終わった. こうした授業を,多くは文科系の学生たちが熱心に聞いている.Harvardの人気授業ではよくあることだが,社会人とおぼしき人たちもいる. 実にぜいたくな授業だと感心したが,必ずしもぜいたくというばかりではないのだと思い至ったのは,それからしばらくして,当時上院議員だったGore副大統領の話を聞いてからだ.Gore副大統領はHarvardの出身.学生時代に大気化学の権威の授業を受けたのが,地球環境に関心を抱くきっかけになったのだと,母校の後輩たちに語っていったのだ. アメリカでの地球環境問題や情報技術の展開は,Gore副大統領抜きでは考えられない.Harvardでの一般教育としての科学教育が,大きく実ったということだろう. 最先端の科学の興奮は,決して専門家だけのものではない.それを伝えることによって,研究者をめざす若者が出るかもしれないし,国を動かすことになる青年の胸にまかれた種が,将来大きな花を咲かせるかもしれない.自然の秘密を知ることは,人生の楽しみでもある. もっともっと語りかけてほしい. 私のこれまでの取材経験では,研究の成果や意義を専門家以外の人にもわかるように語ることにかけては,概して欧米の科学者の方が熱心だし,それだけ巧みだ. 科学,とくに最先端の科学が見えにくくなっている時代だからこそ,科学者側の積極的な働きかけが重要になってくる. そのリーダーシップを,ぜひ物理学者に期待したいと思う. |