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フォトンファクトリー誕生のころ高良和武*1. 始めに放射光は,赤外線からX線に及ぶ広大な波長領域をカバーし,とくに真空紫外からX線にかけては比類のない線源として,自然科学の広範な研究分野で,基礎,応用の両面にわたり威力を発揮している.その有用性に関する認識も世界中で高まり,さまざまな規模,目的の放射光施設の建設や計画が,我が国や欧米のみならず,発展途上国でも行われている. 放射光を利用した研究は1960年代半ばに始まったが,我が国は初期の段階からパイオニアの役割を果してきた.筆者は,第二世代の放射光施設,フォトンファクトリーの計画から建設までに関わった.70年代半ばから80年代半ばのことである.その頃のことを中心に書くことにするが,偏った主観的なものになることをあらかじめお許し願いたい. 2. 光源の歴史放射光の光源としての進歩は高エネルギー物理実験用の加速器の進歩に負うところが大きい.世界の主な放射光施設を表1および図1と2に示す. 放射光は,1940年代に開発された電子シンクロトロン(<100 MeV)などで観測されていたが,放射光を利用する最初の本格的な研究は,1963年,NBS (アメリカ) でシンクロトロン(180MeV)を使って行なわれ,真空紫外(VUV)領域の分光学的研究に威力を発揮した.続いて1965年,我が国でINS-SORグループが,東大核研の電子シンクロトロンINS-ES (750 MeV)を使って一連の分光学的研究を行ない,内外に大きな反響をよび,放射光利用の機運を促進した.1) 1970年代になると,電子エネルギーの増大により放射光の範囲はX線まで広がり,一方,電子・陽電子衝突用に開発された貯蔵リングが,安定した強力な光源として登場する. 1970年代前半には,高エネルギー物理実験用の小型リングACO(0.8GeV,仏)等が極紫外・軟X線(VUV・SX)用の専用光源に転換され,70年代後半には中型リングDORIS (5.6GeV,独),SPEAR (3 GeV,米)等が共用になり,後に専用に転換された.70年代の前半には,最初から専用光源を目的とした第2世代のリングが建設されるようになるが,INS-SORグループによるSX用のSOR-RINGが世界最初である.2)80年代になるとX線用リングとして,フォトンファクトリー(PF)がSRS (英),NSLS (米) と前後して作られた. また80年代には,放射光用独自の光源として挿入型光源(ウィグラーとアンジュレーター)の開発により,輝度の一段の向上と円偏光放射光が実現し,放射光の威力はさらに高まったが,この分野でPFは世界をリードしている. 1990年代になると,いわゆる第3世代の光源が現れる.アンジュレーターからの放射光の輝度の極限を追求して,電子ビームの低エミッタンス化が図られる.VUV〜SX用の中型(1〜2 GeV)リングは,すでに数台が海外で活動しいるが,残念ながら我が国では未だに作られていない.X線用の大型(6〜8 GeV)リングについては,ESRF (欧州連合),APS(米)に続いて,SPring-8(西播磨)が間もなく完成する.
図2 世界の放射光加速器の電子ビームの性能.(木原元央,松下 正編:放射光実験施設(フォートン・ファクトリー)−現状と成果(高エネルギー物理学研究所,1995)より転載.
3. フォトンファクトリー計画誕生のころ放射光の超強力X線源としての可能性が,我が国において初めて公開の場で報告されたのは,1971年4月,日本物理学会年会のX線・電子線分科会で開かれたシンポジュウム「超強力X線束の発生と応用」であった.このシンポジュウムの目的は可能性のある超強X線源について,費用や規模などの制約にとらわれず検討しようということで,放射光のほかに在来の回転対陰極型X線管,プラズマ,X線レーザーも取り上げられた. このような動きが起こった背景として,三つの事情があったといえる.第1は,もっと強いX線をという要望は,X線を扱う研究者の間ではほとんどの分野で常に存在していたが,とくに当時の回折結晶学の研究グループでは強力X線源への要望が切実であった.1960年代から70年代にかけて,シリコンなど完全に近い単結晶の出現に呼応し,動力学的回折現象の研究が盛んになったが,この現象を詳しく研究するためには,入射線の角度幅を極めて狭く(<10−6rad)する必要があり,*2また,Compton散乱のほかにRaman散乱,プラズモン散乱など非弾性散乱の研究も行われていたが,いずれも強度不足に悩まされていた.3)第2に,1960年代後半には,中性子回折専用の原子炉を独仏共同でGrenobleに建設する計画が伝わってきたが,X線の場合も,あの位の規模の施設を作れば超強力な線源が得られるはずだと話し合っていた.第3は,佐々木泰三たちが進めていたINS-SORグループによる300 MeVの放射光専用リングSOR-RINGの建設計画であった.当時,筆者の研究室では,(軟)X線ホログラフィーの実験を始めており,菊田惺志たちが核研のシンクロトロンINS-ESを使わせてもらい,世界最初のX線ホログラフィー撮影に成功,その驚異的な威力を実感した.当時,計画中の専用リングは軟X線源用のもので,X線源としては絶望的に弱く,残念に思っていたところであった. シンポジュウムのための菊田の計算によれば,2 GeV,500 mA,磁場1Tの貯蔵リングからの放射光は,超強力X線管(50kV,1A)と比べると,銅の特性X線に対して2桁,白色X線に対しては4桁も強い.4月のシンポジュウムを待たずに結論は出たようなものであった.当時,筆者のいた物理工学教室には熊谷寛夫先生が核研から移ってきておられ,また講師の木村嘉孝氏から貯蔵リングなどについて教えてもらった. 1971年度の科研費 (総合研究)「超強力X線発生装置」4)が認められたが,放射光発生用の貯蔵リングに的を絞り具体的な検討を始めることになり,*3研究班のメンバーも申請の段階ではX線回折グループに限られていたが,次期電子加速器の建設を計画していた高エネルギー物理のグループと,INS-SORグループに拡大された.*4 1972年秋,国際結晶学会議5)が京都で開かれた.X線結晶学関係の研究者の大部分はそのために忙しく,放射光施設建設計画の作業は暫くの間中断されたが,72年暮れから翌年春にかけて大きく前進した.***5, 6, 7)フォトンファクトリーの構想が生まれたのは,この時期である.「高エネルギー電子加速器を共通施設として持ち,それから発生するあらゆる種類の電磁波(光)を広範な科学の分野の研究に提供する.」というものである. 「フォトンファクトリー計画研究会」(世話人・冨家和雄,高良和武)が73年3月に開かれたが,結晶学(物理,化学,鉱物など),高エネルギー物理の他に,分光学,高分子,分析化学,生物学など15の研究分野から約80名の研究者が参 加した.ここで,計画推進のため「フォトンファクトリー世話人会」を作ることが決まり,1974年度に調査費を要求するため,概算要求案を5月末までに纏めることになった. 4. 欧米の事情筆者は5月から3カ月ばかりMarburg大学に客員教授として滞在した機会に,海外の放射光利用の動向を直接見聞できた. Hamburgでは,シンクロトロンDESY (7.5 GeV)に寄生してVUV・SX領域の分光学的研究が大規模に行なわれていたが,蓄積リングDORISが間もなく完成というところで,放射光のグループはDORISに移る準備を行なっていた.X線領域の放射光利用については,欧州分子生物機構(EMBL)の建物が完成,内部に筋肉研究用の小角散乱のベンチが据え付けられているのには驚いた.しかし,X線回折の広い分野で放射光利用を進めるフォトンファクトリーのような計画はなかった. BerlinのFritz-Haber研究所でBorrmannの70歳を祝うシンポジュウムがあり,昔(1956〜57) Borrmannの研究室で始めた超平行X線ビームによる完全単結晶からの回折強度曲線の直接測定に関する研究について,筆者は我々の研究室の最近までの成果を話し,先生に喜んでもらった.その後でフォトンファクトリー計画の紹介をしたところ,先生は「我々は眠っていた.研究室の連中をHamburgに連れて行ってくれ.」と頼まれた.Dortmundに研究仲間でX線干渉計の発明者のBonseを訪ねたが,Grenobleで建設中の中性子回折研究所(後述)で実験をするための中性子干渉計の準備中で,HamburgのDORISを使う計画はなかった. フランスのOrsayも訪ねたが,e−-e+衝突実験に使われてきたリングACO (0.54 GeV)から放射光を昨日初めて取り出したところで,取出し窓の膜が燃えてしまった,と若い研究者は興奮して語った.また1975年の完成を目指してDCI (1.8 GeV)の建設が始まり,偏向磁石が据え付けられようとしていた.X線領域の放射光利用については構造解析,トポグラフィー,非弾性散乱などの作業グループが作られており,それぞれの責任者には研究仲間のCurien (後にCNRS総裁,科学技術大臣),Autier (前国際結晶学会会長) たちが名を連ねていたが,日本ほど大規模な組織ではなかった.結晶学の長老であるGuinierを訪ねたが,放射光の結晶学に与える革命的意義を語り,蛋白質の構造解析や,そのための2次元検出器などが話題になり,老いてなお独創的な研究を目指すフランスの魂に圧倒される思いがした.GrenobleのLaue-Langevin研究所(ILL)にも足をのばした.独仏共同(後に英も加盟)の中性子回折研究施設で,専用の原子炉が間もなく活動を開始しようとしていた.30本近くのビームラインと100台近くの実験ステーションを設置する計画が着々と進められ,全長数十mに及ぶ全反射利用のガイドチューブや,数十個の中性子検出器を備えた単結晶回折装置などを準備中であった.中性子回折実験施設といえば,数台のステーションと,1台のステーションに2個の検出器というぐらいのイメージしかなかったので驚嘆したが,放射光の実験施設も必ず実現できるという勇気が湧いてきた.また初代所長のMeier-Leibnitz*6 を囲むパーティがあったが,教授が挨拶で述べたことは忘れられない.「この施設はユニークで独創的な装置の集まりである.これまでの施設で行なわれているような研究をやるのは愚かなことだ.他ではやれないことをやりなさい.」「優れた研究であれば,ドイツとフランスだけではなく,世界中の研究者に開放すべきである.」 帰りには地球を一周してStanfordに立ち寄った.ここではリングSPEAR (4 GeV)が既に動き始めており,素粒子実験に寄生して,光電効果と広域X線吸収微細構造(EXAFS)のビームラインが準備中であった.ちょうどLindau (現在Lundの放射光施設長) がSiのチャネルカットのモノクロメータを据え付けたということをWinickに報告しているのに居合わせたが,Winickが「もうできたのか」とLindauの頑張りと仕事の早さに驚いていた.X線領域での放射光利用研究が明日にでも始まろうとしている事実に,筆者は大きなショックを受けた. 5. 学術会議による勧告日本に帰ってくると,1974年度に向けての概算要求は周囲の事情が熟しておらず,見合わせられていた.しかし世話人会の意気は盛んで,X線領域の放射光利用は欧米に比べて数年の遅れがあるが,次世代の放射光利用のトップを目標に,従来の共同利用研究所とは性格,規模の点で全く異なったものを作ろうという考えで固まり,「この計画はナショナルプロジェクトとして学術会議を通すのがよい」という伏見康治先生のご教示もあり,この線で努力することになった. フォトンファクトリー世話人会では1973年3月から1974年5月までに,8回の全体会議のほかに19の作業グループがそれぞれの会合を,また加速器,高エネルギー実験,回折散乱,分光分析,放射線効果にまとめて調整が行なわれ,フォトンファクトリー計画の立案,予算案の作成,要望書,趣意書の起草などが手分けして精力的に行なわれた.8) 1974年秋には日本学術会議から政府に対し「放射光総合研究所」の設立が勧告された.9)放射光総合研究所は多分野に関係するというので,原子核,物理,結晶,化学,鉱物,生物物理の6研連からの共同提案となり,最終的には理学関係の第4部から提案された.計画説明のため,いろいろな研連や委員会に冨家氏とよくでかけたものである. 学術会議による勧告の後,世話人会は解散し,フォトンファクトリー懇談会が結成された.会員は発足当時は約350名で,常任幹事として江橋節郎 (東大医薬理),黒田晴雄 (東大理化),冨家和雄 (東大核研) の諸氏と高良(代表) が選ばれ,幹事会にはユーザーズグループから8名,各作業グループの代表20名が加わった.世話人会,後に懇談会は,特に幹事会の作業グループは光学系や検出系の開発研究,10, 11)実験装置の設計などを,ユーザーズグループはそれぞれの分野で研究会の開催や啓発,12, 13)概算要求の作成,関係方面との折衝などを行なった.*7 1977年10月には学術振興会の産学協力の研究委員会として第145委員会“結晶加工と評価”(委員長,高良)が発足,また1981年6月には放射光リソグラフィー小委員会(主査,難波進 (阪大基礎工)) も設けられた.産官学の研究者が参加し,後にフォトンファクトリーにおける民間,他省庁によるビームライン設置の基礎作りなどに重要な役割を果した. 6. フォトンファクトリーの建設6.1. 放射光実験施設の発足学術会議の勧告は,1978年4月,高エネルギー物理学研究所の「放射光実験施設」(フォトンファクトリー,2.5 GeV)という形で認められた.勧告から実現までの期間が,高エネルギー研究所の場合に比べてはるかに短いと言われたが,ここに至るまでに紆余曲折があり,我々にとっては長かった.フォトンファクトリー計画の実施にあたっては,内容の一部と加速器群の構成に変更があった.高エ研ではトリスタン計画の議論が始まっており,高エネルギー物理実験の計画は見送られ,入射器としてのシンクロトロンは線形加速器に変わった.一方,アンジュレータの重要性に対する認識が国際的に急速に高まったことを受けて,リングにできるだけ長い直線部を設けるというユーザー側の強い要望が認められ,建設直前にリングの設計が変更され,形が準円形から長円形になった.14)最近のPFの加速器群の配置図,実験棟および鳥瞰写真を,それぞれ図3,4および5に示す. 建設は,主幹の田中治郎(入射器系),冨家和雄(光源系),佐々木泰三(測定系)三氏それぞれの個性的な優れたリーダーシップのもとで,定員,予算の極めて厳しい枠の中,スタッフ諸氏の超人的な努力と建設協力グループの献身的な作業により,1982年春までに予定通り完成した.15)PFの加速器の順調な立ち上げと,ビームラインおよび実験装置群の迅速な整備は海外でも評判になった.実際には高エ研全体の,とくに加速器系からの強力な協力があり,また高エ研には建設に必要な基盤施設が備わっていた.高エ研のキャンパスでなければこのようなことは実現できなかったであろう.また海外の研究者たちの支援,協力も忘れられない.とくにPFが発足した年の5月,StanfordのWinickは設計図やデータで一杯にふくらんだスーツケースを5〜6個持ってきて,PFのスタッフや建設グループ,とくに若い人たちを相手に,リングやビームラインの設計などについて一週間以上にわたり熱心に説明してくれ,質問にていねいに答えてくれた. 6.2. 線形加速器とPFリング加速エネルギー2.5 GeV,全長400 mの線形加速器はSLACの加速器に次ぐもので,日本では初めての大型線形加速器で,多くの技術が開発された.加速管超精密加工技術,大電力クライストロン高周波技術,レーザーによるアラインメント技術等は,その後の,国内のみならず,海外の加速器建設にも活かされている. PFリングの大電力高周波加速装置も日本では初めての経験であったが,メーカーとの共同の努力により大電力クライストロンの開発に成功,同種のクライストロンはトリスタン,SPring8や韓国のPLS計画にも用いられており,またPF型の加速空洞も米国のALSや韓国のPLSで採用されている.ビーム不安定性については徹底した研究が行なわれ,それに基づく対策として高周波空洞の改善,イオン捕獲の抑制などを行ない,それらの成果は内外の第3世代リングの設計,運転にも大きな貢献をしている. PFリングは1982年3月,電子ビームの蓄積に成功した後も不断の改良が続けられ,1987年2月には130 nm・radのエミッタンスを実現,さらに現在,第3世代放射光源に迫るエミッタンス(27 nm・rad)の実現に向けて改造が進められている.また1988年には蓄積ビームを電子から陽電子に変えることによりイオン捕獲の問題も解決,陽電子ビームの有効性を示した.現在,蓄積電流の初期値400 mAで60時間という高寿命を実現,故障率は1%以下で世界最高の性能と安定度を達成している. 1987年4月,トリスタン入射蓄積リング(AR,6.5 GeV)による硬X線用の放射光共同利用実験が開始され,第3世代光源による研究の先駆けとなった. トリスタン主リング(MR,30 GeV)も10 GeV程度で運転すると,エミッタンスを第3世代放射光源に匹敵する約5nm・radにすることができる.しかも約200mの直線部があり,その一部に挿入光源を入れると,極めて高い輝度のコヒーレントX線が得られることが期待される.実際にはトリスタン主リングはKEKB計画に転用することになり,計画は実現不可能になった.しかし,B計画へ転用までの準備期間を利用して,1995年秋から暮れにかけて8〜10 GeVで運転,約10種類の先駆的実験が行なわれた. 6.3. 挿入光源PFでは挿入光源の重要性を認識し,建設当初から硬X線用の垂直型超伝導ウィグラーと永久磁石軟X線用アンジュレータが設置された.その後,永久磁石を用いた多極ウィグラー/アンジュレータ2台が設置された (1987,88年).(ウィグラーはX線用,アンジュレータはVUV・SX用である.)さらに世界最初の楕円偏光ウィグラー/アンジュレータが,ARリングとPFリングに設置された (1988,1989年).また世界最初の真空封止型アンジュレータが,ARリングに硬X線領域の高輝度放射光用に設置された. 6.4. 測定系測定系については,内部スタッフも2年目に安藤正海,太田俊明を助教授に,3年目に漸く佐々木泰三を主幹に迎えることができた.最終年度に松下正,佐藤能雅,前沢秀樹の3氏が加わり,総数6人という有様であった. 懇談会の作業グループは,PFの建設が始まってからは建設協力グループに移行し,ビームラインや装置の設計,16)後にはメーカーとの交渉,装置の立ち上げ,運転なども引き受けてもらった.グループには大学の研究者の他に官公庁の研究所,さらに民間企業の研究者も参加していた.測定系の建設を進めるに当り,次のような方針を確認した.1と2は世話人会以来の方針である. 1. 研究分野は物理だけでなく,化学,生物,鉱物などの基礎科学,さらに工,医,薬など応用科学を含む.産業界(生産に近い基礎研究)にも開く. 2. 装置は研究方法,ビームの性質で分ける. 3. 施設のスタッフの主な任務は,装置の維持,外来研究者の世話および研究方法,装置の開発研究である. 4. 当面は装置の開発(高性能光学系,測定系,特殊実験槽)に努力を集中する. 5. 1〜2人の研究者が実験できるようにする.一方,長期の研究 (開発,フロンテイア) も考える. このようにして1981,82年度には約20台の装置が完成していた.(その内の数台は科研費の特定研究の予算で作られていた.) 放射光を取り出す窓として,1982,83年度には6本の基幹ビームラインしか認められておらず,1本の基幹ビームラインを3〜4本の分岐ビームラインに分け,13台のステーションを作ったが,全部を一度に張り付けることはできないので,何台かは交替で使うことにした.この困難な仕事は佐々木を中心に内部スタッフと建設協力者たちとの協力で行なわれた. 「リングが完成した暁には,出てくる光をできるだけ早く,多く使う」という最初の方針を実現するために,解決しておかねばならない重要課題があった.実験棟の拡張(いわゆる満月計画)である.挿入光源を追加したためにリングの周長が長くなり,また実験棟の幅を広くしたために,予算の制約から実験棟はリングの全周を取り巻くことができず,約半分が欠けた形になってしまった.この状態では設置可能な基幹ビームライン23本のうち10本しか使用できない.拡張工事は共同利用が本格的に始まった後では困難になるので,その前に満月にしてもらうよう,施設部はじめ関係方面に頼み,ようやく実現できた. 6.5. 初期に設置された装置群本格的な共同利用が始まって間もなく1984年4月,筆者は退官したが,その後の施設の発展は,筆者の期待,想像をはるかに上回っている.17)95年現在,ビームライン24本,実験ステーション67箇所,*81年あたりの利用者は2,000人を超え,実験課題は750に近い.ビームライン,ステーションの數は89年頃から頭打ちとなっているが,利用者数とくに実験課題数は増え続けている.これは施設の物理的容量は限界にきているが,研究面の発展が続いていることを物語っている. PFで行なわれている研究は膨大かつ多岐にわたり,進歩も急で,筆者には研究の中身はほとんど分からず,その成果をここで紹介する資格などないのであるが,筆者の昔の専門に近いこと,フォトンファクトリー計画の初期から話題になっていたこと,とくに方法や装置などについて少し述べてみたい.フォトンファクトリーの発展の一面に触れていただけたらと思う. 初期(1982〜83年度)に設置された実験装置の大部分は,建設協力グループにより概念設計からメーカーとの交渉,立ち上げまで行なわれたものである.多くのユーザーのための標準的な装置の他に,世界最高の性能を目指したもの,あるいは独自なものが多い. VUV領域の直入射分光器は,当時,世界最高の分解能(E/DE〜250,000)を持ち,分子科学のみならず,宇宙科学にとって貴重なデータを提供している.軟X線領域の分光器も早くから世界最高級の分解能を実現,1986年にはアンジュレータビームラインに移設され,E/DE=8,000〜10,000の分解能を実現している. またミラーや回折格子など,光学素子の開発研究や高精度の測定器の設計,製作など,メーカーとの協力により行なわれたことも特筆すべきである. 複結晶配置のX線光学系は,放射光X線利用の研究ではほとんどの装置に使われているが,角度分解能は10−9rad,エネルギー分解能DE/Eも10−9が実現されている. 実時間X線トポグラフィー装置には,NHKグループが開発した世界最高の分解能(6m)を持つ高感度X線テレビ管が備えられている.この装置で多くの研究が行なわれているが,特記すべき研究としてシリコン結晶成長時における転移発生,氷転移運動のメカニズムの研究などがある.またmK領域における3Heと4Heの単結晶について格子欠陥の観察,変態の機構の研究などが行なわれ,量子固体の構造解明についての扉が開かれた. X線吸収微細構造(XAFS)測定装置は,従来,有効な構造解析の手段のなかった触媒,溶液,生体試料などの研究に,初期の段階から多くの研究者により使われ,優れた成果が多数得られている.世界最高の分解能を持つ吸収曲線の測定装置の他に,蛍光X線の測定による高感度の表面解析装置も設置された.精密な測定と高度の解析を必要とするが,世界で最も信頼性の高い実験環境が提供されている. 蛍光X線分析装置も超高感度の元素分析を達成,その後さらにマイクロビームによるフェムトグラムの元素マッピング,化学結合状態分布などの方法論的開発も行なわれている. 高温高圧の回折実験装置として,1983年にMAX80 (20 GPa, 2,000度) がPFに設置され,88年にはARリングに移され多くの先駆的研究が行なわれてきた.同種の装置が欧米に2台輸出され,さらにAPSにも導入の計画がある.88年にはMAX90 (20 GPa, 1,500℃; 30 GPa, 1,000℃)も無機材研との共同研究で製作された. 小角散乱の測定装置は,1台は筋収縮分子機構の研究に,もう1台は生体物質溶液の研究等に威力を発揮しているが,とくに筋収縮の機構に関する研究は初期の段階から今日まで,この分野の先導的役割を果たしている. 6.6. 1984〜85年以降の測定装置群と研究成果筆者がPFを離れてからの,この10年余の間のPFの活躍は目覚ましい.加速器および測定装置の調整,整備が終わり,その性能を発揮し始めた.また新しい発展として,光源についてはリングのエミッタンスの改善,楕円偏光アンジュレータの設置およびARリングの利用があり,また検出器については輝尽性傾向体を用いた二次元検出器イメージングプレートの利用がある.これらが相俟って放射光利用研究を飛躍的に発展させたといえる. その発展の学問的内容について筆者が紹介する資格のないことは前節以上であり,また本稿の目的からも逸脱するが,この機会にその一端に触れることは筆者の義務のようにも感ずるので,建設の初期から準備が始まり,関心の深かったトピックスを少しばかり,あえて紹介させていただきたい. イメージングプレートは我が国のメーカにより医用診断に開発されたものであるが,PFで計測器としての定量的評価が行なわれるとともに,積極的に利用され,国際的に普及した. タンパク質結晶構造解析専用実験ステーションは,1987年,巨大分子構造解析用Weissenbergカメラをイメージングプレートと組み合わせ,共同利用に公開された.従来の4軸回折計で放射光を用いても数日を要したデータ収集が1〜2時間で可能になり,現在のところ分解能・精度ともに世界最高のデータが得られることが確認された.この数年は海外からも一流の研究者が利用にやってきている.解析法のハード・ソフト両面の充実により,我が国のみならず世界の蛋白質研究の発展に大きな貢献をしている. 表面構造の研究は,以前は電子回折が得意とした分野であるが,放射光X線により,表面のみならず界面の構造についても定量的で高精度の情報が得られるようになった.動力学的効果による定在波法,結晶内の原子配列が表面に打ち切られるために生ずるロッド状散乱等を用いる方法がある.半導体デバイスの実際の製造にも役立っている. ARのCompton散乱のビームラインでは電子の運動量密度分布が,さらに楕円偏光硬X線を用いて磁性電子の運動量密度分布が測定されている.PFスタッフの貢献も特筆に値する.磁気散乱の強度は電荷散乱の強度の10−6と弱いが,共鳴磁気散乱の場合は10−3と強くなり,非占有電子の情報が得られることを示し,磁気散乱の研究の路を開いた.磁気Bragg散乱により,実空間における磁気モーメントの分布が得られる.また円磁気二色性により,電子のスピン磁気モーメントと軌道磁気モーメントを分離することも可能になった. 核共鳴Bragg散乱に関する研究では,Fe57で冨化した結晶からの時間スペクトルの測定が,ARリングのパルス光(0.1 ns)の特性を利用して行なわれ,核準位の超微細構造(DE=10−7〜10−8eV)が数ns周期の量子ビートとして観測された.この実験は超高分解能X線モノクロメータや超高速計測システム(Dt〜0.3 ns)などの高度の測定技術により達成された.
7. その他の放射光施設東大物性研のSOR-RINGは世界最初の専用リングとして1976年に完成,以来20年になるが,気体原子・分子の光電離スペクトルの精密測定による内殻電子励起にともなう多体効果,反射・吸収スペクトルによる高温超伝導体の電子状態,共鳴電子分光によるイオン結晶,希土類化合物,ウラン化合物などの電子状態の部分状態密度などの研究が行なわれた.またDNA,ウイルスなどの照射損傷等の先駆的研究も行なわれた.さらに上述の放射光利用による分光実験のほかにさまざまなマシンスタディが行なわれ,イオントラッピングの研究,単バンチ運転なども早い段階から試みられた.多くの放射光科学の研究者,技術者を育てた業績も忘れてはならない. 電子技術総合研究所では1981年,TERAS (0.8 GeV)が建設された後,数個の小型リングが建設され,分光学研究のほか,放射標準,自由電子レーザー,逆Compton散乱などの研究や,大面積露光可能な波動リングの開発が行なわれている. 1984年には分子科学研究所でUVSOR (0.75 GeV)が完成した.化学系の研究所が固有の施設を持つというのは,世界でも例がない.世界に先駆けて遠赤外ビームラインが設置され,表面フォノンや超高圧下の研究などが行なわれている.紫外・可視光レーザーのパルスを放射光のパルスと同期させて行なう時間分解実験も盛んになっている. また我が国では1980年代の後半に,数台の小型リングが民間企業により作られた.18)大部分はマイクロリソグラフィーによる次世代の超LSI素子生産を指向している.海外ではイギリスで1台作られ,アメリカに輸出されたほかには例がない.いずれも各企業がそれぞれ設計,製作をしており,独創的なもの,優れた性能のものが多く,民間企業における加速器技術が短期間に向上したことを示している.それにはPFも大きく貢献していると思う. 8. 終わりにフォトンファクトリーは海外の同種の施設とは独立に,むしろ先駆けて計画され,その後も放射光科学のパイオニアの一員として活動してきたので,放射光模倣追随型ではない,独創的な研究,技術が数多く生まれた. フォトンファクトリーは広範な分野の多数の研究者の共同利用に供する巨大施設であるが,計画の段階では社会的有用性はもちろん,学問的意義も認められてはおらず,異分野,異組織の壁を越えた研究者たちの協力が必要であった.協力は建設の段階でもまた完成後も続けられ,研究者の間には強い連体感が生まれ,ボランティア精神に富んだコミュニティが育っている.この事情は海外でも同様で,国際的なコミュニティに発展している.懇談会の作業グループ,後の建設協力グループも日本独自の制度である.他省庁,民間企業との協力も時代に先駆けて行なわれた.このような密接な協力はアメリカでは見られるが,ヨーロッパにはない.また,フォトンファクトリーのやり方はSPring 8で継承発展されていると思う. 放射光の光源としての進歩はとどまることを知らず,第3世代を超えて第4世代の光源としてのコヒーレント光に関する議論も国際的に盛んである.小型リングの開発が進み,多数のリングが地方に設置され,医学的診断,治療用やマイクロリソグラフィーなど,産業用のリングも設置されるようになるだろう. 編集委員会の趣旨を逸脱して回顧が展望になり,意見になってきた.紙数も超過しているのでこの辺りで筆をおくことにする. 終わりに佐々木泰三,千川純一,木原元央,小早川久,松下正の諸氏からご教示をいただいた.柿崎明人,冨増多喜夫,小杉信愽の諸氏にSOR-RING,TERAS,UVSORの資料と説明をいただいた.また多くの研究者の方々から研究成果についていろいろ教えていただいた.ここに厚く御礼を申し上げる. 参考文献
*1 164東京都中野区東中野1-28-2 *2 1950年代の終わり頃から,シリコンやゲルマニュウムなど極めて良質の人工単結晶が作られるようになり,動力学的回折現象に関する基礎および応用研究がゴニオメトリーおよびトポグラフィーを用いて盛んになった.従来の動力学的理論は,入射波は平面波(波長および角度の広がりがゼロ)であるという仮定のもとに展開されており,その場合,回折の起こる角度範囲は10−5rad (数秒角) 以下である.これに対し,普通の実験条件(スリット系によるコリメーション)で得られる入射線の角度幅は10−4rad以上である.このようなビームでは動力学的理論により期待される特有な現象(回折強度曲線や,結晶内部に生起する干渉縞,定常波やビームの路など)を実験的に検証することは不可能で,一方また,従来の理論では説明できない新しい現象が現れる.後者の現象を説明するために,加藤範夫は入射波を平面波でなく球面波とした動力学的理論(ビームセオリー)を展開(1960〜68),高木佐知夫はもう少し大きな歪みをもつ結晶にも適用できる基礎方程式(ウェーブセオリー)を与えた(1962〜69).筆者は非対称回折を用い,十分狭い角度幅(〜10−7rad)の,平面波と見なしうるビームを作り(1962),このビームを使って,動力学的理論で古くから予言されていた回折強度曲線を実証した.つづいて筆者の研究室では,平面波トポグラフィーおよび複結晶配置の高分解能X線光学系の基礎および応用研究を行なっていたが,X線の強度不足に悩まされていた. *3一方,回転対陰極型超強力X線管(1A,50kVクラス)については,大学の共同利用装置として名大(1977),つづいて東大,北大(120kV),京大と設置された. *4加速器の建設計画については,西川哲治氏(当時,東大理学部)に相談したが,高エネルギー物理学研究所の計画で忙しく,核研の冨家さんを紹介してもらった.西川氏の研究室とは,ユーバーオール効果(高エネルギー電子が結晶を透過するとき,励起された制動放射(一種の放射光)が干渉の結果,単色で指向性の高い偏光ガンマ線を発生する現象)の実験を通して,以前から付き合いがあった.このガンマ線の方向は電子線から10秒(角)程度ずれるだけであり,その観測に必要な良質な単結晶の方位の精密設定と精密小型ゴニオメータの設計などについて近藤都登氏 (現在筑波大) たちに協力した. *5結晶学会は学際的性格が濃く,異分野間の交流も伝統的に活発であったが,とくに73年の国際会議開催を通して研究者に強いネットワークが作られ,それはフォトンファクトリー計画の推進に役立ったと思う.会議の出席者は約1,250 (海外から約500) 人で,当時としてはかなり大規模であったが,とくに約750という講演数は突出していた.約40のトピックスに分かれ正味6日間にわたり5〜6会場で講演を行なうため,整合性のとれたプログラム編成を3週間で仕上げねばならなかった.最終段階の調整は座長全員を含み,多いときは50人の研究者が大会議室に集まり,二日間にわたり行なわれた.筆者はプログラム委員長を務めていたが,おかげで結晶学の広範な分野の最前線と,代表的な研究者たちを親しく知ることができた. *6当時の所長は2代目のMssbauerで,Meier-LeibnitzはMnchen大学での恩師である. *7懇談会は前身の世話人会と同様,第一線の研究者たちの官制によらないボランティアの集まりで,予算の裏打ちもなかった.実際の活動には通信,旅費,調査研究から開発研究に至るまで,文部省の科学研究費が大いに役立った.筆者の知るかぎりでも,総合研究(2〜300万)5回,一般研究(1〜2,000万)2回,特定研究(3〜5億,すべてが放射光関係ではなかったが)2回はあった.それぞれのグループでは,個人レベルでいろいろな補助金を得て海外に調査や研究にでかけた. *8東大理学部と物性研のもの5台,他省庁4台,民間企業12台,オーストラリア1台がある.他省庁,民間企業のビームライン,ステーションの設置については,初めはさまざまな組織,制度上の困難,障害があった.後には関係部局の人たちも理解して,いろいろ知恵を出して実現のために協力してもらった.民間企業との共同研究は,大学では1960年代終わり頃の大学紛争以来タブーであったが,80年代の半ば頃から,いろいろな形の産学協力が行なわれるようになった.PFはその先駆けの役割を果たしたと思う. |