2005世界物理年によせて
--仁科芳雄と原子物理学のあけぼの--
並 木 雅 俊 〈2005世界物理年委員会委員 高千穂大学〉
[日本物理学会誌 Vol.60 No12(2005)掲載]
仁科記念財団創立50周年記念・世界物理年記念「仁科芳雄と原子物理学のあけぼの」展が、11月12日から12月18日までの期間、国立科学博物館で開催される(図 1 参照)。 仁科 (1890〜1951)を中心とし、 長岡半太郎(1865〜1950)、菊池正士(1902〜1974)、 朝永振一郎(1906〜1979)、 湯川秀樹(1907〜1981)、それに坂田昌一(1911〜1970)の関連資料を展示する。世界物理年に日本の物理学を考える機会を得、先達を知り、先達から学び物理学の未来を探るための展示である。
展示の中心となる仁科の足跡を簡単に辿ってみる。仁科は、1890年(明治23年)12月6日、岡山県里庄村浜中に生まれた。第8子4男である。祖父・存本は池田藩の代官であった。存本は、維新での藩札反故で困惑した町民に私財を投じて対応したほどの責任感の持ち主で、多くの人から信頼されていた。そのためか、生家は人の出入りが多かった。芳雄は、そんなオープンな家で育ち、祖父の影響を強く受けた。新庄尋常小学校、生石高等小学校、岡山中学校、そして第6高等学校と地元岡山で学んだ。テニス、ボートとスポーツ好きな少年であったが、肋膜炎を患って休学をしたこともあった。仁科は明治期を岡山で過ごした。
1914年(大正 3 年)9 月、 東京帝国大学工科大学電気工学科に入学、1918年7月に卒業し、翌日より、創立間もない理化学研究所(理研)の研究生(電気化学の鯨井研)兼大学院工科に入学した。縁あって長岡の影響を受け、物理学の道を歩むことになった。1920年に理研・研究員補となり、留学の命を受け、1921年4月に神戸から郵船「北野丸」でマルセーユへ出航した。仁科の滞欧生活は7年半にわたり、そのうちの5年半はボーアの研究所で研究に従事した。研究所の人ばかりか、訪れた人の間できわめて評判がよく、心底から人と接する仁科の信頼は厚かった。ヘヴェシーのもとで X 線分光学の研究、コンプトン散乱の断面積や角度分布を与える式(クライン-仁科の式)の導出など多くの業績を上げた。帰国後は、理研・長岡研に所属した。1931年5月、京都帝国大学で行った集中講義は、朝永振一郎、小川(湯川)秀樹、坂田昌一、武谷三男など若手研究者を大いに刺激した(ハイゼンベルクの 『量子論の物理的基礎』 に即した講義である。当時、朝永と小川は無給副手であった)。朝永は「仁科先生は世界的学者ということから連想されるカミソリの刃のような印象からは全く遠い、温かい顔つきと、全く四角ばらない話かたをされる方であった」、 また湯川は 「私を非常に鼓舞した」と書いている。
仁科研究室は、1931年7月に創設された。量子論、原子核、X 線による化学分析などを研究テーマとした理論と実験の研究室である。当時、このようなテーマを掲げた研究室はなかった。ボーアの所で得た仁科の叡智である。また1931年は、物理学の対象が原子・分子から原子核へと急速に移ってきた時代であった。1932年に中性子が発見されると、X 線による分析から手を引き、宇宙線研究を加えた(朝永は、この年9月に仁科研の研究生となった)。こんな時期の仁科研誕生は日本の物理学にとって大きな意味があった。仁科はコペンハーゲン精神に基づき、全国の原子核研究室と協力関係をもって研究を進めた。小サイクロトロン完成(1937年4月)、大サイクロトロン本体完成(1939年2月)、そして実験実施(1944年1月)、GHQにより大サイクロトロンの撤去・破壊(1945年11月)、理研所長(1946年11月)、理研解散(1948年2月)、科研設立・社長就任(1948年3月)と大変な道を歩んだ。
仁科は筆忠実であるばかりか、書いた手紙をカーボン紙で写し、きちんと残している。このため往復書簡として読むことができる。湯川が新粒子予言をボーアに批判されたことに対する暖かい言葉、また朝永の父三十郎から息子を励ましてほしいとの葉書と滞独の朝永への手紙等など、これらから、優しさと温かさが伝わってくる。多くの人に慕われ、 「親方」 と呼ばれ頼りにされていたことがよくわかる。そんな仁科が日本の原子物理学の礎を築いた。
仁科研究室から展示会は、「明治期の物理学の発展と理化学研究所の創設」、「日本の原子物理学のあけぼの」、そして「未来へ向けて」を大項目としている。仁科等6人を中心とした日本の物理学の歩みが大づかみではあるが楽しんでもらえるよう工夫されている。長岡の学生時代のノート、アインシュタインやラザフォードからの長岡宛の書簡、菊池とコッククロフト加速器、ボーア来日講演の坂田のノート、大サイクロトロンの設計図 (青焼き)、 仁科愛用の机と椅子、原爆投下と仁科、等々と多くが展示される。岡本拓司さん(東京大学)と国立科学博物館の方々の努力と多くの方々のご協力によって実現されたものである。是非、日本の物理学を考える資料としてご覧いただきたい。
(2005年10月11日原稿受付)