|
会誌Vol.64(2009)「新著紹介」より
このページでは、物理学会誌「新著紹介」の欄より、一部を紹介者のご了解の上で転載しています。 ただし、転載にあたって多少の変更が加わっている場合もあります。 また、価格等は掲載時のもので、変動があり得ます。
C. Holm and K. Kremer, eds. Advanced Computer Simulation Approaches for Soft Matter Sciences III
Springer, Heidelberg, 2009, xiv+237 p, 24×16 cm, euro 199,95 (Advances in Polymer Science 221)[専門書]ISBN 978-3-540-87705-9
山 本 量 一 〈京大院工〉
ソフトマターとは,複雑な内部自由度(分子配向,相分離構造,分散粒子など)を持ちながら容易に流動(や変形)する物質の総称である.内部自由度と強く結合しているために時間・空間的に不均一な流動が発生し,これがソフトマターに特有な奇妙な現象を引き起こす.したがって,ソフトマターに対して有効な数値計算を行うためには,「内部自由度と流動の結合のモデル化」と,その結果発生する「不均一な流動の効率的な計算」が鍵となる.「内部自由度が与える応力を考慮したモデル」を用いて「Navir e-Stokes方程式を数値的に解き,正確に移流項を計算する」のが最も標準的であり,これがいわゆるDirect Numerical Simulation (DNS)法である.しかし,計算効率の向上を目指してこれとは異なるモデル化や数値計算法の開発も同時に進んでおり,世界的な大競争が繰り広げられている.第1章は, Multi-Particle Collision Dynamics (MPC)法の解説である. この方法は,多数のバッファー粒子の運動を追うことによって流体運動を模擬するものである.バッファー粒子の正確な軌跡をまともに追ったのでは計算機の能力が全く足りないので,MPC法では粒子の運動を自由運動と衝突に分けて考える.後者を確率的な操作で近似することで大幅な高速化を得るのがこの方法の本質である.MPC法による粒子運動は粒子スケールでは本来の運動とはかけ離れたものになるが,流体運動のスケールで見ればそれほど悪くない.衝突効果を取り込むための具体的操作として,これまで複数の方法が提案されている.以前はDirect Simulation Monte Carlo (DSMC)法などが一般的であったが,最近では自由運動する粒子にランダムに回転を作用さ せ る Stochastic Rotation Dynamics (SRD)法がよく使われる.第2章は格子ボルツマン(Lattice Boltzmann, LB)法の解説である.LB法ではMPC法のようにバッファー粒子の軌跡は追わず,局所的な粒子密度や粒子速度の分布関数の時間発展を計算する.連続空間だと面倒なので,粒子位置を格子の直上に限定した離散的な運動則を考えて,対応するボルツマン方程式を数値的に解くのである.やはりLB法でも衝突項をまじめに計算するのはできないので,非平衡分布が平衡分布へと緩和するメカニズムを別途追加することで,衝突効果を模擬するのが一般的である.このように,本書の第1章と第2章の内容は関連が深い.競合する2つの方法を手っ取り早く比較検討できるのが本書の特徴である.一方で,ソフトマター(ガラスやタンパク質などの生体物質を含む)では希なイベントが重要になることが多々あり,その場合は通常の分子動力学法やモンテカルロ法などは著しく非効率的になる.第3章は,そのような希なイベントを効率よくサンプリングするために開発されたTransition Path Sampling法の解説であり,流体運動を扱った前の2章とは独立した内容になっている. (2009年8月14日原稿受付)
ページの頭に戻る
今井正幸 ソフトマターの秩序形成
シュプリンガー・ジャパン,東京,2007, xiii+399 p, 21×15 cm, 本体5,500円[専門書]ISBN 978-4-431-71243-5
畝山多加志 〈京大化研〉 本書はコロイドや高分子といった種々のソフトマター系における秩序形成についての教科書である.本書で扱っている理論にはいくらか高度なものも含まれるが,基礎的な統計力学を理解していれば理論展開を追うことはできるであろう.第一章,第二章ではコロイドや高分子結晶,液晶といった単一の構成成分からなる系の秩序形成について,第三章ではブロックコポリマー(複数の構成モノマーからなる高分子)や界面活性剤といったいわゆる両親媒性分子の秩序構造について述べられている.これらの章で紹介されている理論は主に80年代くらいまでに成立した比較的古いものが多いが,今日でもそれらの重要性は失われておらずソフトマター物理の入門としては適切なものであろう.一方,第四章ではより複雑なソフトマター複合系が扱われている.ソフトマター複合系については一部を除き理論的にも実験的にもまだ発展途上であり,従って必然的に第三章までと比べて近年の研究に基づく内容が多くなっている.個人的には理論的にも実験的にもまだまだ議論されるべき点が多いように感じるが,ソフトマター複合系の示す秩序形成は興味の持たれる分野である.第四章はソフトマター物理の秩序形成について研究がこれから進む方向を考えるための問題提起と捉えるのが妥当であろう.本書の大きな特徴として,理論に対応して様々な実験結果が示されていることが挙げられる.類書では理論の展開の際にどうしても数学的側面にとらわれてしまい,対応する実際の物理現象に実験的根拠が十分あるかの議論が不十分になってしまうことが多いように感じられる.あるいは逆に実験手法やデータの解析を重視して複雑な理論や計算をなるべく持ち込まないようにし,結果として理論的側面の理解が不十分となってしまうこともある.実験的に得られるデータをどのような理論に基づいて解釈するのか,理論的に得られる予言をどのように実験で検証するのかを適切に理解する上で本書のようなアプローチは非常に有用であろう.本書はどちらかといえば実験を専門とする学生向けに書かれているように見えるが,個人的には実験を専門とする学生だけでなく,理論を専門とする学生にもぜひ手に取ってほしいと思う.ソフトマター物理における実験と理論の対応,ソフトマター物理のこれから進む方向を考える上で役に立つはずである. (2009年9月10日原稿受付) ページの頭に戻る
R.ショウ著,佐藤 譲,津田一郎訳 水滴系のカオス
岩波書店,東京,2006, x+102 p, 21×15 cm, 本体2,900円[専門書]ISBN 4-00-005530-5
清 野 健 〈日大工〉 本書は,決定論的カオス研究の萌芽期に活躍したロバート・ショウ(R. Shaw) が 1984 年に出版した 『Dripping Faucet As a Model Chaotic System』 (Aerial Press, Santa Cruz)の訳書である.水滴系の実験データを例として,情報理論の非線形力学系への応用が議論されている.原著の執筆当時,ショウは, J. F.クラッチフィールド, J. D.ファーマー,N. H.パッカードらと共同で,カオス力学系の研究においていくつかの重要な成果をあげていた.それらの成果の一部が本書にまとめられている.当時の彼らの活躍ついては,米国で出版されベストセラーとなった 『カオス-新しい科学をつくる』(新潮文庫,1991)の中で生き生きと語られており,当時の雰囲気や彼らの人間味も知ることができる.本書のタイトルである「水滴系のカオス」とは,僅かにゆるんだ蛇口からポタポタと滴り落ちる水滴の落下リズムのカオス的振舞いのことである.ショウはこの系について初めて系統的な実験を行い,水滴落下リズムの不規則性がカオスであることを示した.この系では,蛇口からの流量を制御変数として水滴の落下時間間隔を測定すると,周期倍分岐やカオス的振舞いが観測できる.本書の前半部分では,水滴系の実験の概要が紹介されている.とはいえ,本書の目的は水滴系カオスの力学的な理解ではない.本書の中心的な話題は,カオス力学系の情報理論的解釈であり,情報理論のカオス時系列解析への応用である.本書では時系列の予測可能性と関連した不変量として,情報量やエントロピーの性質が考察されている.また,情報理論的アプローチにおけるノイズの影響についても議論されており,水滴系だけでなく,一般的な実験データへの応用が意識されている.本書には,実験で観測された時系列に基づいて何が言えるのか,という問題意識が根底にあるように感じる.現在,水滴系のカオスについては,流体力学に基づく数値計算が個人向けのパソコンでも可能になり,数値解析によってこの系の力学的構造を調べることができる.しかし,原著執筆当時では,そのような数値計算は不可能であった.そのような状況であっても,情報理論を応用した時系列の分析は,系の理解に役立つであろう.原著の出版後20年以上が経過した現在,我々が理解を目指す対象には,生命,経済といった複雑系も含まれる.数値計算全盛の今日であっても,それらの系の完全なモデル化は難しい.我々の身の周りにある複雑性の理解のためには,時系列に隠された情報を読み取る技術が依然として必要である.原著者の提示した視点は,その後の多くの重要な研究成果につながり,今なお発展を続けている.原著以降の進展については,訳者による脚注に触れられているので,最近までの成果を知る参考になるだろう.本書には,先駆的研究という歴史的な価値だけでなく,今なお刺激を受ける部分がある. (2009年9月14日原稿受付) ページの頭に戻る
日高芳樹,甲斐昌一,松川 宏 液晶のパターンダイナミクス/滑りと摩擦の科学
培風館,東京,2009, 228 p, 22×15 cm, 本体6,000円(非線形科学シリーズ4)[大学院向・専門書]ISBN 978-4-563-02344-7
山口哲生 〈東大院工〉 本書は,「非線形科学シリーズ」として出版されたうちの第4巻である.『量子渦のダイナミクス/砂丘と風紋の動力学』(物理学会誌2009年5月号に太田隆夫氏により紹介)『結晶成長のダイナミクスとパターン形成』 『蛋白質のやわらかなダイナミクス』 『散逸力学系カオスの統計力学』 などとともに,非線形科学の専門的入門書として企画されたものである.単に数理科学の観点で非線形問題を扱うだけでなく,自然現象に密着し物質科学との接点をもつよう意図されている.本書は第I部「液晶のパターンダイナミクス」第II部「滑りと摩擦の科学」から構成され,第I部は日高芳樹・甲斐昌一両氏,第II部は松川宏氏とそれぞれの分野で世界的に活躍されている研究者によって執筆されている.「液晶のパターンダイナミクス」では,非平衡開放系における散逸構造の例として,液晶電気対流のダイナミクスがいきいきと記述されている.まず歴史的経緯としてレイリー・ベナール対流やプレーナー配向におけるカー・ヘルフリッヒ効果が説明され,液晶電気対流を散逸構造の研究対象とする利点が述べられている.次に,ホメオトロピック系での,配向場と対流場との結合によって生じるソフトモード乱流,プレーナー系で新たに見つかった欠陥乱流,欠陥格子,シェブロンパターンなど,最近の研究事例が解説されている. 最後に, 時空カオスの制御など, その他の研究についても記述されている.「滑りと摩擦の科学」では,まず摩擦係数が荷重やすべり速度によらない,アモントン−クーロンの法則の成立範囲に関するいくつかの議論が紹介されている.次に,原子スケールでの摩擦から,電荷密度波や超伝導体中の磁束格子の運動,ゲルの界面摩擦,地震など,さまざまな系での摩擦の多様性と普遍性が概観されている.その後,マクロ系,ミクロ系それぞれの摩擦現象について,著者の研究事例を中心に詳しい解説がなされている.太田氏の書評にもあるように,非線形という共通点はあるものの,異なるテーマを一つの本として出版したような印象を受けた.個人的には「すべり摩擦におけるパターン形成」に興味があるので,できれば両者に共通した話題を少しでも議論して欲しかったのが正直な意見である.上記のような個人的な我侭を除けば,それぞれに関して非常によくまとまった良書であると言える.基礎知識から最近の研究に至るまで,バランスよく紹介されているので,これらの分野に興味を持った大学院生や研究者が分野の概要を把握するだけでなく,専門家が自分の位置を再確認するのにも適していると思われる.本書は,初心者から専門家まで楽しめる書籍である.(2009年9月18日原稿受付) ページの頭に戻る
小玉英雄 相対性理論
朝倉書店,東京,2008, x+136 p, 21×15 cm, 本体2,300円(朝倉物理学選書6)[学部向]ISBN 978-4-254-13761-3
三 島 隆 〈日大理工〉 本書は,朝倉書店刊行の 『物理学大辞典』 の基礎編にある相対性理論の章を単行本化したものである.百ページ余の中に特殊および一般相対性理論の多岐にわたる基礎事項が,系統的かつ簡潔明瞭に解説されている.著者は,日本におけるハードな相対論家(一般相対論研究の本格派)の筆頭格であり,相対論と関連する様々な分野で活躍しておられる.内容は,前半部は特殊相対性理論,後半部は一般相対性理論にあてられている.とくに後半部の一般相対性理論により多くのページが割かれていることが,本書の特色の一つをなす.これは本格派で鳴らす著者のこだわりによるものなのかもしれないが,一般相対性理論が‘GPSから超弦理論まで’ユビキタス的に科学全般に浸透し始めてきたことが背景にあるものと思われる.扱われている個々の事柄は,全体的に特殊および一般相対性理論から必要不可欠な基礎事項がバランスよく取り上げられている.しかし,本書ではさらに特殊ならびに一般相対性理論におけるスピノールやスピノール場の扱い,ボルツマン方程式や流体方程式の特殊および一般相論的扱い,ブラックホール物理のより進んだトピックス(例えば,剛性定理と一意性定理,宇宙検閲仮説)などが解説されており,類書との違いをなしている.その一方で,辞典編纂時の方針なのか,TOV方程式や重力崩壊の具体的な議論,インフレーションや非一様宇宙モデルの話題など宇宙物理に関連した事項は大幅に省かれている.本書のもう一つの特色は,相対性理論の数学的基礎の説明にかなりのページがあてられていることであり,そこでは微分形式などモダンな数学的道具が詳しく説明されていることである.これは著者のスタイルといえるが,これからの相対論研究の在り方を見据えて配慮されたのであろう.実際,近年の素粒子の基礎理論や相対論関係の専門的な論文や書物では,数学的にモダンな記述を採用することが主流となってきている.以上のように本書は,見た目はコンパクトだが相対性理論の数学的,物理的エッセンスがみっちり詰まっている.ゆえに,本書は相対論も含めた物理の素養をある程度持つ読者にとって現在の相対性理論を概観するためのガイドブックの役割を十分に果たしうるものと考える.一方,式の導出は著者も序文に記しているように大幅に省かれているので,初学者の中には本書を相対論の入門的な自習書として読もうとすると困難を感じる者もいるかもしれない.しかし,著者が以前学部学生向けに著わした本書と同様のスタイルを持つ教科書で補うなどすれば読み進めることは十分可能であろう.(2009年9月29日原稿受付) ページの頭に戻る
B. A. Wallace and R. W. Janes, ed Modern Techniques for Circular Dichroism and Synchrotron Radiation Circular Dichroism Spectroscopy
IOS Press, Netherlands, 2009, 231 p, 17×25 cm, US$140/ euro 95 (Advances in Biomedical Spectroscopy, Vol. 1)[専門書]ISBN 978-1-60750-000-1
秋 津 貴 城 〈東理大理〉 新しい分光法に物理学分野の雑誌等でもアンテナを張るのは,重要であるが従来の測定法でははっきりしなかったこと,これまでの概念の枠組みを超えた展開が期待できること,従来の結果と相補的に利用してさらに理解が深まること,に関心があるからである.気がつくと長いこと遷移金属錯体を中心にしてキラリティーとは付き合っているが, 有機配位子の不斉炭素のR, S, 金属イオンの配位環境の Δ, Λ のように化学結合に基づく立体配置だけでなく,結晶構造の自然分晶,鎖状高分子のらせん, 表面吸着, 超分子誘起Circular Dichroism (円二色性, CD) の観測など分子集合体の様態に起因するキラリティー,あるいはソフトマターである液晶の相転移や光機能,非対称構造が要請される非線形光学効果,ジャロチンスキー・モリヤ相互作用が重要となるようなカイラル磁性体にみられる固体物性を支配要因としての役割など,キラリティーの源や性質にもさまざまな階層性や性格(構造だけか物性までもか)があることに改めて気づかされる.蛋白質やDNAなどキラルな生体高分子のコンフォメーションや高次構造を検出するために,可視紫外波長領域の CD スペクトルは広く用いられてきた.生物物理学や構造生物学的な目的ではアミド基のn-π", π-π" 遷移やその間の相互作用が重要となる.α-へリックスなどの二次構造,蛋白質とリガンドや薬物とのドッキング,熱的安定性,pH依存性,フォールディングや反応の面での速度論などが生体高分子特有の興味の対象となるが,実験室系の装置ではこういった200 nm以下の短波長紫外領域の測定が困難であった.そこで,世界で10カ所以下と利用可能な施設が限られる(日本では広島大学など)が,主に放射光を光源とする真空紫外領域の CD (UVUCD) を用いることで,さらに短波長まで精度良くCDを測定できるとのことである.本書は,WallanceとJanesによって編集され, UVUCDの原理, 技術, 研究例,近頃の状況,それに構造生物学的なデータベースまでを含む技術総説集のような体裁をとっており,下記の構成からなる. 1. CDと放射光CDの基礎 2. 通常の放射光源を用いた CD や関連分光法の測定(理論と装置) 3. CDと放射光CDの較正技術 4. CD分光法の試料調製と良い練習 5. 再現性のあるCD測定の生物学薬学への応用 6. 放射光CD分光法: 生物科学への応用 7. 直線偏光分光法:技術と応用 8. 蛋白質の CD 分光法の解析方法とDichro Webサーバ 9. 蛋白質 CD と放射光 CD 分光法の解析のための参照データセット10. 蛋白質のCD分光法や放射光CD分光法のためのAb initio計算11. 蛋 白 質 CD デ ー タ バ ン ク(PCDDB): データ蓄積, 共有, 確認,解析のための資源付.生体分子の CD と放射光 CD のためのウエブサイトや参考文献本書の主役の CD 分光法ではないが,金属蛋白質を含めて高分子マトリクス中の金属錯体(有機-無機複合分子集合体)の分子配向に興味があるので,『直線偏光分光法』 で取り上げられていた,ポリビニルアルコールやポリエチレン伸延膜中の鉄錯体の研究例に目を奪われた.吸光度の異方性もさることながら,放射光源UVUの利点はやはり短波長紫外領域にある.実は本書を購入当初,題名から「磁場をかけない」XMCDの金属蛋白質や金属酸化物への適用なども連想(期待?)した.いずれにしろ,本書でも後半で紹介されているように,吸収スペクトルにおける可視紫外,(軟・硬の)XASと結晶構造のように, X線やNMRなど他の構造データや理論計算との組み合わせで,多角的に理解が深まるものと思われる.(2009年8月24日原稿受付) ページの頭に戻る
B. Povh, K. Rith, C. Scholz and F. Zetsche Particles and Nuclei; An Introduction to the Physical Concepts 6th ed.
Springer, Germany, 2008, xii+400 p, 23×16 cm, 39,95euro[学部向]ISBN 978-3-540-79367-0
浜 垣 秀 樹 〈東大CNS〉 本著は,独国ハイデルベルグ大学3年後期に行われた講義を基に,物理を志す学生に対して原子核・素粒子の統一的な描像を提供することを目的として書かれた.その目論みは,かなりの程度成功していると思われる.1995年に第1版が出版され,本書は第6版になる.本著は2部構成を取り,第1部では二十世紀に長足の進歩を遂げた物質の基本構成要素と基本相互作用探求の成果を紹介し,第2部では多様な複合系についての各論を展開している.第1部は11章から成る.「散乱」は,ラザホードが原子核の存在を示す際に用い,それ以来サブアトミックな対象を研究する際の標準手法であるが,「散乱」を軸に,原子核の幾何的構造,核子の電荷分布,さらに深非弾性散乱による核子の内部構造,とミクロな構造解明の道筋が明確に示されている.最終的に,クォークと強い相互作用,レプトンと弱い相互作用を経て電弱統一理論まで至るが,理論的厳密さを求めずに要領良い説明がなされている.第2部は13章〜20章の8章から成る.まずはクォークの複合系であるクォーコニア,メソン,バリオンの説明から入り,次に核子の集合体である原子核に移って,核力,原子核構造,色々な集団励起について説明される.章立て,各章で扱われる題材は標準的である.最後辺り,核熱力学という章で,強い相互作用をする物質系が概説されている.近年大きく発展し注目されている分野なので,もう少し大きく取り扱っても良いと思うが,入門書の限界であろうか.原子核と素粒子両分野を別のものとはせずに取り扱った本書は,両分野が専門化し全体を見通すことが困難な一方,境界領域での重なりも拡大しつつある今日に相応しい入門書と言える.旧版を3年生のゼミで使用した経験から言うと,全編を通じて内容は実に盛り沢山なので,量に負けて消化不良に陥らぬよう,見通しを持った人を交えてじっくり読むのに適しているであろう.(2009年10月9日原稿受付) ページの頭に戻る
下村 裕 ケンブリッジの卵-回る卵はなぜ立上りジャンプするのか
慶應義塾大学出版会,東京,2007, 268 p, 19×13 cm, 本体2,000円 [一般書]ISBN 978-4-7664-1334-2
大木谷耕司 〈Sheffield大応用数学〉 数年前,ある研究会で出会ったポーランド人の友人が言った.「ユタカが最近本を書いた.非常にきれいな本だ」と.この文章はその本に関するものである.これは下村さんが,2000年からの2年間の在外研究中に出くわした,ある力学の問題との格闘の記録で,慶應大学のホームページに連載として執筆されていたものを単行本としてまとめたものである.次々に起きる予想外のできごと,困難に対して如何に立ち向かったかがドラマチックに記録されている.加えて著者の読者を飽きさせない筆力は,物理学を専門としない一般の読者さえも難解な力学の世界へ引き込んでいく.氏の研究結果は,当時から,新聞・テレビなどで大きく取り上げられたので,御存じの方も多いと思う.ゆで卵を速く回転させると起き上がることは,以前から知られていたらしい.しかし,この現象をキチンと解明することは物理学,応用数学の1つの難問であった.偶然, Keith Moffatt 氏の講演を聞いて,下村さんはこの問題に真剣に取り組む決意をし,苦心の末,これを完全に解決するに至った.これはケンブリッジのグループとの主に理論的,数値的な共同研究,および慶應大学における実験的な共同研究として実を結んだ.古典力学の言葉で言えば,ある種の 「断熱不変量」を認識することが決定的なポイントであった.古典力学と聞くと,古いイメージがつきまとい,解き得る問題は既にやりつくされ,今さら余りやることはない,と誰しも思うのではなかろうか.例えば,私は学部学生のプロジェクト (課題研究のようなもの)のテーマを考えるとき,おおよそ,学部生には常微分方程式(ODE)関係,大学院生には偏微分方程式(PDE)関係と決めている.前者の方が一般的にやさしく,また後者は,論文出版につなげなければならないからである.この本を読んで知った一部始終,および論文を見た私の印象では,できたものをフォローすることはともかく,再構築するのは相当困難で,私には事実上不可能に思える.「よくこんな答え見つけたなあ」というのが正直な感想である.今回の一件は,ODEの範疇ですら物理的,応用数学的に未解決かつ解決可能な問題が転がっていることを実証した.下村さんの専門は流体力学であり,言うまでもなく,そこではPDEが活躍の中心となる.したがってここには興味深い現象がまだ眠っているに違いない,との思いを強くした.私は,偶然,下村さん,Moffatt氏が彼らの研究を発表したポーランドでの研究集会に居合わせ講演を聴くチャンスに恵まれた.そこでのAref氏のコメントも強く印象に残っている.そのAref氏自身も, 渦糸系(ODE)などの古典的な力学系を取り扱いながら現在も新しい結果を得ている,珍しい研究者の一人である.下村さんたちが,実験およびその説明をするたび,感心する半面,最後で,「でもいったい何の役にたつのですか」と聞かれるそうだ. これに対するTimesの答えは“Things you didn't know you need to know"であり, 下村氏自身の回答らしきものは巻末にある.それは,以下の4つのことの重要さを分かることである:不思議に気づくこと(curiosity), 力をあわせること(collaboration), 自分に誠実であること(integrity), 分かりやすく説明すること(accountability). これらが,科学の発展にとっていかに大切であるかを指し示す点で,この本は啓蒙書としての役割りをも果たしていると思う.誤植はほとんどなく,挿絵,装丁は美しい.理科系の学生専門家向けに巻末に論文リストが加えられている.この本は,研究内容以外にも伝統的なイギリス文化ついての記述も詳しく興味深い.現在,彼の研究室では,回転ゆで卵に限らず,他のテーマでも面白そうな物理実験が行われている.是非ホームページを参照くださることをお薦めする.http://www.keio-j.com/investigativereport/shimomura/http://web.hc.keio.ac.jp/~yutaka/ (2009年10月27日原稿受付) ページの頭に戻る
佐藤文隆 アインシュタインの反乱と量子コンピュータ
京都大学学術出版会, 京都, 2009, xvi+315 p, 19×13 cm, 本体1,800円 (学術選書041)[一般書]IBSN 978-4-87698-841-9
堀 田 昌 寛 〈東北大院理〉 本書の著者である佐藤氏の輝かしい研究業績や深い教養に基づいた科学啓蒙活動を既に多くの方はご存じだと思う.それに加えて氏の反骨精神と独自の哲学的価値観を背景にした学生や後進の研究者への挑発的なコメントも多くの方々が聞いたことがあるのではないだろうか.敢えて物議を醸して停滞している場や現状をひっくり返そうという佐藤氏一流のストラテジーである.本書も日本の物理研究者の社会に向けて氏が放った一本の矢である.矢の的は,実は本書の表のテーマでもある量子論の研究者ではない.専門化が過度に進み閉塞感漂う日々を暮らす研究論文作家と,その日常を生み出している日本の科学制度なのである.本書は二部構成であり,第一部は近年の量子情報の勃興を踏まえて,量子力学の解釈問題に関してアインシュタインを軸に歴史を振り返ることに当てられている.強烈な個性を持った先人達が各自の哲学観をぶつけあって量子力学を構築してゆく過程が臨場感をもって描かれている.コペンハーゲン学派の勝利の陰で,負け組のアインシュタインらのアウトサイダー的思想はメタフィジクスの深海の奥底に追いやられた.しかし近年になって量子コンピュータなどの未来のハイテクを生み出す原資として引き上げられ,再評価されるに至った現状が紹介される.第二部ではアインシュタインやハイゼンベルグなどに多大な影響を与えたマッハの思想を皮きりにして,当時のヨーロッパの学術世相と絡めながら実証主義と実在論の問題が豊かに論じられる.物理学の怒涛の発展の中を彷徨い続けた実在論の思想潮流に,物理科学の拘り方の変遷とダイナミズムを失いつつある近年の物理学の帝国が見え隠れする.あとがきは 「研究論文界の周辺に,ペンローズの本が話題になるようなサイエンスの 「メタ」が縦横に語られる豊かな科学界が,日本でも生まれていくことを夢見ている.」という希望で締めくくられる.この 「メタ」の中には実在論の意義を現代的にそして学際的に問い直すことも含まれているのだろう.本書にある様々な示唆は,日本の研究論文作家達に改めて科学研究への原初的衝動を起こさせて科学界の現状を力強く革新する一助になるかもしれない.特に歴史再考の中から得た大局観により現時点を遠い未来へ繋ぐ想像力と,既に互いに引き離されてしまった諸テーマを絡め直していくことの重要性を説く本書の思想は若い世代にも有用であろう.これから知のフロンティアに向かう若者へのエールとしても良書である. (2009年10月11日原稿受付) ページの頭に戻る
日本分光学会編
分光測定の基礎、光学実験の基礎と改良のヒント、分光装置Q&A
分光測定の基礎講談社サイエンティフィク,東京,2009, ix+176 p, 21×15 cm, 本体3,800円 (分光測定入門シリーズ第1巻)[大学院・学部向]ISBN 978-4-06-157107-5
光学実験の基礎と改良のヒント講談社サイエンティフィク,東京,2009, ix+161 p, 21×15 cm, 本体3,800円 (分光測定入門シリーズ第2巻)[大学院・学部向]ISBN 978-4-06-157101-3
分光装置Q&A講談社サイエンティフィク,東京,2009, ix+156 p, 21×15 cm, 本体3,800円 (分光測定入門シリーズ第3巻)[大学院・学部向]ISBN 978-4-06-157110-5
榎 本 勝 成 〈富山大理〉 本書は 「分光測定入門シリーズ」全10巻のうちの始めの3巻である.専門家向けには同じく日本分光学会が編集した40巻超の 「測定法シリーズ」が既に刊行されており,今回のシリーズは学部4年生程度の初学者向けということで新たに編集された.確かに3冊ともA5判200ページ以下と手頃な分量になっており,豊富に図表が用いられ,内容も易しく噛み砕かれて説明されている.実験装置や分光データに初めて触れることになる4年生にとって,手頃な入門書である.第1巻 『分光測定の基礎』 は分子内の各種相互作用,遷移選択則,分子の対称性など,分子分光全般に関わる理論的基礎を扱っている.回転遷移,振動遷移,電子遷移,磁気共鳴のテーマごとに章を分け,原子から非対称コマ分子までカバーし,さらには液相・固相のスペクトルにも触れている.他の分光学の入門書と比べ量子力学の概論を省略している分,限られたページ数で広い範囲を要領良くまとめた内容になっている.各章の終わりには温暖化ガスやオゾン層などの環境測定における分光の応用例が挙げられ,その章で学んだことがどう役立つのかが明確になっている.学生の輪読などに適した良著であろう.第2巻 『光学実験の基礎と改良のヒント』 では,光学の基礎,レンズやミラーなどの光学素子の扱い方や選び方,光検出器の原理などをまとめている.第4巻の主題であるレーザー光源自体には触れないものの,この巻はレーザーを扱う実験には必要不可欠な知識を扱っている.特に,ミラーの拭き方や光ファイバーへの光の通し方など,レーザーを扱う実験家なら思わずニヤッと喜んでしまう細かいテクニックが豊富である.巻頭のカラー写真も読者を光学の世界へ誘う良い工夫である.ただ,複数の著者による分担執筆であるためか,レンズについての記述が2つの章に分散しており,まとまりの悪さを感じるのが惜しい.第3巻 『分光装置Q&A』 では,パソコンとの接続,電子回路,データ解析などに多くのページが割かれていて,本のタイトルとはギャップがある.Q&A形式のhow to本であり,パソコンが不得意な学生の良い助けとなるだろう.いささか内容は荒削りではあるが,このデータ信号処理という実験において重要だが学科教育においてあまり扱われないテーマに,入門シリーズの1つの巻を割いた判断は評価されていいのではなかろうか.どの巻も,学生が実験の合間などにパラパラと目を通したくなるような本である.ということで,研究室のゼミ部屋などに一揃え置いておくことをお勧めしたい. (2009年11月16日原稿受付) ページの頭に戻る
吉田直紀 宇宙137億年解読; コンピューターで探る歴史と進化
東京大学出版会,東京,2009, x+156 p, 21×15 cm, 本体2,400円(UT Physics 6)[学部向]ISBN 978-4-13-064105-0
長 澤 倫 康 〈神奈川大理〉 近年,高エネルギー加速器でビッグバン直後の状態を再現できる,と標榜されてはいるものの,宇宙そのものを実験的に生成できず,銀河や星を実際に作ってみることが種々の制約によりきわめて困難である以上,宇宙論研究において計算機による数値実験の意義は大きい.本書は,宇宙論,宇宙物理学,天文学でコンピューターシミュレーションが果たす役割を強調しながら,宇宙誕生後から現在までの137億年の歴史をたどるという視点で,現代物理学が到達している宇宙の理解といまだ残されている謎についてわかりやすく解説している.第1章で構造形成を理解できるように宇宙進化の基礎を概観し,第2章でコンピューターによって宇宙の構造形成を解明することの重要性とその手法を紹介する.これらを踏まえて,第3〜7章で具体的適用例に進み,宇宙の大規模構造,暗黒バリオン・暗黒物質・暗黒エネルギー,初代星形成と宇宙の再電離,銀河と銀河団,天の川銀河と宇宙の将来について述べている.特に第7章の主題は,現在を初期条件としての未来の予想であり,新鮮な印象を与える.天気予報や株価予測のように今後起こり得ることにこそ興味がある場合と異なり,この分野は現在を再現できる過去の状態を探ることに熱心であり,実際,本書でもほとんどが昔の宇宙で起こったことの話に割かれているからである.これら各章に2〜3項目に整理されたまとめがついており,初学者にも親切な構成となっている.最終の第8章は進歩するコンピューターが開く宇宙シミュレーションの展望であり,「宇宙のことは不思議なくらいよくわかっている」とする著者の,読む者に希望をもたらす楽観性が読み取れる.本文に加えて,多少進んだ内容や研究現場での臨場感伴う著者の感慨が記された8つのコラムがある.中でもコラム1での,常識で判断でき奇想天外であってもかまわないとする,一見矛盾した観測的宇宙論の特徴付けは,物理の言葉で宇宙は理解できるのだとする著者の人間知性への信頼感が垣間見え,読んでいて心地良い.また,宇宙膨張則の携帯電話料金による例え,ユーモアあふれる脚注など,読み物としてもおもしろく仕上がっている.ただ,本書に限らずこの種の解説書が常に抱える問題ではあるが,例えば大学1年生で量子力学も履修していない読者には,光子などという概念が当たり前のように登場する内容は,本来難しいはずである.逆に,こうした著作を通じて,様々な物理学の知見が,学校で教わらなくても皆が知っている現代の常識として普及して欲しいものである.書かれている内容をさらに深く理解したいという動機付けも含めて,読む者を宇宙論・宇宙物理学の分野へと誘う魅力を持った一冊である. (2009年11月20日原稿受付) ページの頭に戻る
為近和彦 ビジュアルアプローチ; 力学
森北出版,東京,2008, iv+208 p, 21×15 cm, 本体2,500円[学部向]ISBN 978-4-627-16211-2
橋 俊 樹 〈群馬大工〉 本書を力学担当教員に薦めたい.FDの一環で授業評価アンケートや公開授業の取り組みなどがどの大学でも実施されており,教える側の苦労も多いご時世である.最近は,でんじろう先生がTVを通して趣向を凝らした科学実験を提供するなど,若者の目も肥えている.そのため,式を並べ立てたチョーク & トークで, 学生の集中力を保つことは大変困難な状況である.この傾向を受けてか,近年の物理教科書もずいぶん様変わりしている.このコーナーで2005年2月号に紹介されている 『アドバンシング物理』 は,その代表例といってよい.きれいなイラストや写真を駆使して視覚的・直感的に物理を捉えられるように構成されており,それでいて内容のレベルはかなり高度なところまでおさえられているのが特長といえる.力学の教科書も,流れは同じで特に,外国の著者によって書かれた教科書にその傾向が強く,一例を挙げれば,1) D.ハリディ,R.レスニック,J.ウォーカー 『物理学の基礎[1]力学』(培風館),2) J. T.シップマン 『シップマン自然科学入門; 新物理学』(学術図書出版)(力学は第4章まで),3) R. A.サーウェイ 『科学と技術者のための物理学Ia; 力学・波動』(学術図書出版)などがある.この中で印象に残っているのは, 1) の書籍における加速度の説明に,ロケットそりに乗る大佐の表情を6枚の写真で示しているところである.私は,加速度と実体験がイメージとしてしっかりと結びついた.これらの教科書は,グラフィックだけではなくテキストも充実しており,高校から大学教養課程における教育レベルの高さをうかがい知ることができる.では,日本人著者の場合はどうだろうか?今回,紹介する本書は,予備校の先生によって執筆された.個人的にこの本の特徴を挙げるとすれば, 1) カラー図解が充実, 2) 高校卒業直後の年代をターゲットにした説明・表現, 3) 丁寧な式の導出,であろう.図はイラストがほとんどである.著者のこだわりは,高校時代に不慣れなベクトル量に親しんでもらえるよう,速度や力の向きをカラーの矢印で明示した図をふんだんに用意したところにある.全9章の構成で,運動法則,一様重力場での運動,振動,中心力,束縛運動,相対運動,剛体運動等が盛り込まれている.最終章は解析力学の基礎が16ページで手短にまとめられているが,私はこのページ数を物体の衝突等に割いた方が,本書の目的にあうと思った.しかし,第1章の極座標系における速度や加速度の説明はわかりやすく見事である.また,いかにも予備校の先生らしい式の展開で,読者は必死にフォローしなくても済む.逆にそれが, 「式を追跡する楽しみ」 を奪ってしまっているようにも思えるが,計算のコツを習得するには役立つ.例題や演習問題もたくさん用意されており,講義で疲れた学生への刺激として,2・3問をピックアップして解かせることもできる.欲を言えば,アドバンシング物理に見られるように「自然の奥行きの深さ」を伝えられるような現象についての記述をもっと増やすことで,初学者に対して物理全般への興味を引きつけられるような構成になっていればと感じた.しかし,高校から大学教養レベルへ飛躍を小さく連続的に導いてくれる力学教科書としては良書であると考え,ご紹介した次第である. (2009年11月24日原稿受付) ページの頭に戻る
A. Pais . Robert Oppenheimer; A Life
Oxford Univ. Press, USA, 2006, xii+353 p, 24×26 cm, $25.00[大学院〜一般向]ISBN 978-0-19-532712-0
小 林 K 郎
本書は,Oppenheimerが素粒子・原子核理論をアメリカにもたらし,大樹に育て上げた一流の研究者であったことを知らしめたいというPaisの強い思いに発する.約1/4を残して他界したPaisの遺稿に自らの資料を補って科学史家R. P. Creaseが完成させた.Robert Julius Oppenheimerは,1904年富裕なユダヤ系ドイツ移民実業家の家庭に誕生,ギムナジウムに似た私立学校を経て Harvard 大学で化学を学び,3年で卒業して大学院は物理に進んだ.同時に入学許可が届いたOxford大学Christ Collegeを選び渡英(1925年秋).偶々滞在中のBornが,すでに量子力学の論文2篇を発表していたOppenheimerに注目し,Gottingenに連れて帰る.研究室の活発な雰囲気は,忽ちBorn-Oppenheimerの共著者として有名にし,彼は水素の連続スペクトルの問題で学位を取得する(1927年夏).秋に帰国すると, “理論物理の砂漠西部” に注目. Berkeley の California 大学とPasadenaのCaltec(California工大)の兼担助教授を受諾して本據をBerkeleyに決めた.NRC(米国研究支援機構) 研究員として1928年秋 Leiden 大学へ.弱いと自認する数学を鍛える.次はBohrをと望むOppenheimerに,Ehrenfestは「Bohrと君は合わぬ」とPauliの下へ送り込む. Heisenberg-Pauli Part IIが山場にかかっていた時であった. 共に議論に加わり, Oppenheimerは量子電気力学(QED)を,その創設者達から創造現場で直々に伝授されて自らのものとしたのである.Part IIはPauliから3人連名でどうだという提案が出た程,Oppenheimerは高く評価された. 1929年夏3ケ月のZurich滞在中,Coulomb場内の電子の光放射でQEDの論文を仕上げ,続く水素原子のレヴェル・シフトや電子の自己エネルギー発散は帰国後論文にしている.QEDの発散の具体的問題を論じた嚆矢をなす業績であろう.5-7 章 は “The California Professor as Teacher" の “アメリカに新物理学を” に向けた八面六臂の活動が具体的に語られる.R. SerberやW. Furry, J. Schwinger を Research Associate に採り,集まる優秀な大学院学生を強化訓練する.QED, 宇宙線(シャワー理論),陽電子論,核力,中間子,天体物理と宇宙論(中性子星等)の播かれた種は忽ち芽を出し,健かに成長を続け,若者達は各地に散り研究拠点を構えた.Manhattan計画については,目的を達し,Los AlamosをOppenheimerが去る前日の1945年11月2日夜,500人余の所員に語った「告別演説」が小活字9頁に象徴させたPaisのアイディアは見事である.題して“Atomic Scientist's Credo". 原爆出現を見た戦後の世界はこの現実とどう向き合うべきか,直接関わった科学者達の持つべき“Credo"(信条)をOppenheimerは切々と訴える. ついでながら彼の“Physicists have known sin"という言葉は,この時でなく,1947年11月25日のMIT講演で語られている.Oppenheimerの戦後の研究面のleadershipは鮮かである.QEDの実験・理論のbreakthroughを的確に把握して主宰した,1947年6月のShelter島会議は歴史的重要性を持つ.この年Princeton の Institute for Advanced Study (IAS)教授兼所長となる.他方,原子力の国際管理問題に対処せざるを得なくなった米国は科学行政家Oppenheimerを必要とした.原子力委員会の一般諮問委員会委員長任命に始まり,次第に国家機密の中枢に関わっていくことになる.ソ連も原爆実験に成功し,冷戦が進行して行くにつれ,Oppenheimerらの正論は通じなくなっていく.止めはアメリカの水爆開発に対するOppenheimerの反対表明である.1953 年 11 月 W. L. Borden は 1930 年代以来のOppenheimerの詳細な言動記録に基づき,彼はソ連のスパイと断ずる告発状を FBI 長官 J. E. Hoover に送った.これで1954年4月12日から5月6日まで「Oppenheimer聴聞会」が開かれた.まさにこれは異端審問であった.23章以下のCreaseの補完は主にこの聴聞会の詳しい記述である.判決は6月29日に下された. “国家機密を漏洩する可能性ある危険人物” と断定されて,Oppenheimerの政治的生命は断たれ,IAS所長のみ許された.Crease は “Insider in Exile" と名付けた26章で最晩年のOppenheimerを描く.彼はようやく本来居るべき所に帰って来たのである.IASはこの時代,best and brightestの若い素粒子研究者を惹きつけて已まなかった.IASで17年間Oppenheimerに最も近く接していたPaisをして「これほど複雑な性格の人物に接したことはない」と言わしめている.「筆を執っている間ずっとambivalentな気持ちに悩され続けた」とも告白している.酷な評価をすれば,Oppenheimerほどの人物にして国家権力の中枢に要職の座を占める甘美な誘惑に抗し切れなかったのであろうか.「才有餘而識不足也(才余りありて識足らず)」(蘇軾)とでも言うべきか.重要な文献を読むことを可能にして下さった西尾成子さんにお礼を申し上げます. (2009年12月1日原稿受付)
ページの頭に戻る
G. G.スピーロ著,永瀬輝男,志摩亜希子監修,鍛原多惠子,坂井星之,塩原通緒,松井信彦訳 / D.オシア著,糸川 洋訳 ポアンカレ予想; 世紀の謎を掛けた数学者,解き明かした数学者 / ポアンカレ予想を解いた数学者
早川書房,東京,2008, 350 p, 19×14 cm, 本体1,900円[一般向]ISBN 978-4-15-208885-7 / 日経BP社,東京,2008, 405 p, 19×14 cm, 本体2,400円[一般向]ISBN 978-4-8222-8322-3
樋 口 三 郎 〈龍谷大理工〉 100年来の未解決問題が予想外の方法で解かれた.しかし解決したロシアの超変人(?)数学者はフィールズ賞を辞退.証明に現れる,くりこみ群,エントロピーなどの言葉はアナロジーに過ぎないのか? クレイ研究所のミレニアム問題の賞金100万ドルの行方は? そしてそこには弁護士まで動員された先取権争いが…こうなればドキュメンタリーの題材として不足はない.ここでご紹介するのは,問題の起源とその解決を,ポアンカレ以前からペレルマンによる解決までを追って一般向けに解説した2册である.スピーロは科学ジャーナリスト,オシアは一般向け解説書を多く著している数学者であり,この立ち位置の違いが2冊の違いを象徴している.ポアンカレ予想とは,単連結な3次元閉多様体は3次元球面に限られる,という予想である.単連結とはその上の任意のループがひっかからずに1点に縮められるということで,これは単連結な閉曲面が2次元球面しかないという事実の3次元への拡張と見られる.オシアは数学的内容を平易にストレートに,多くの図を交えて解説している.物理学者が高校生に自分の研究を説明するときに使いそうなスタイルである.一方スピーロは,正しい数学的内容を述べているが,その文章は一読して理解できるとは限らない(例えば文中で例も式もなしに群の定義がでてきたりする).スピーロのスタイルは評者に哲学者のそれを思い起こさせる.なお,両者とも数式を使っていない.この2冊は相補的でもある.オシアは,内在的幾何を創出したガウスやリーマンの仕事に多くのページを割いている.彼らの仕事は,トポロジーを生み出す幾何学の一般化の始まりであり,またサーストンの幾何構造による3次元多様体の分類プログラムの流れにつながる.その一方,ペレルマンの先駆となるハミルトンの仕事の解説や,4次元および高次元ポアンカレ予想の解決についての記述はやや物足りない.また研究の動向を規定した各国の高等教育制度や研究行政にも触れている.スピーロの視点はよりミクロで個々の数学者に向いている.ミルナー,ハーケン,スメールらの活躍した20世紀のトポロジーの隆盛が語られる.一方,予想の解決を目指して失敗した有名無名の数学者や「ポアンカレ熱患者」には辛辣に過ぎる言葉を発している.また,決して詳細ではない上に査読誌に投稿されなかったペレルマンの論文をめぐって起きた,数学における先取権とは何か,証明の検証とは何かをめぐる論争にも詳しく触れている.ポアンカレ予想に興味のある人は両方を読んでも重複を感じずに楽しめるだろう.もし,本誌の読者が予想の内容と証明のアイデアを知るために一冊だけ読むならオシアを奨める. (2009年12月25日原稿受付) ページの頭に戻る
M. Nakahara and T. Ohmi QUANTUM COMPUTING; From Linear Algebra to Physical Realizations
CRC Press, USA, 2008, xvi+421 p, 24×16 cm, $79.95[大学院向]ISBN 978-0-7503-0983-7
西 野 哲 朗 〈電通大〉 本書は,量子計算の理論と実現に関する体系的かつ網羅的なテキストである.本書は2部構成を取っているが,第I部では量子計算の理論的側面について述べられ, 第 II 部では量子計算の物理的実現法について述べられている.以下,本書の内容を各章ごとに概観する.まず第1章では,線形代数の基礎について簡潔に解説される.スペクトル分析やテンソル積の概念は,物理の標準的カリキュラムでは教えられていない内容である.第2章では,量子力学の基本原理について解説される.この章の内容は, 第 II 部の内容を理解する際に重要となる.第3章では,通常の計算におけるビットの量子論的の拡張概念である「量子ビット(qubit)」について述べられる.さらに,量子情報処理の最初の応用例として「量子鍵分配」について紹介される.量子計算の実現において重要な役割を果たす量子ゲートは第4章で紹介され,万能量子ゲートの存在が示される.量子ゲートは通常の論理ゲートの量子論的拡張であり,通常の論理ゲートは量子ゲートの特殊な場合として実現可能であることが知られている.第5章では,基本的な量子アルゴリズムについて解説され,続く第6章では,量子回路による積分変換の実現について述べられる.この積分変換は,第7章で紹介されるGroverのデータ検索アルゴリズムや,第8章で紹介されるShorの因数分解アルゴリズムにおいても大変重要な役割を果たす.第9章では,量子コンピュータの実現において障害となるデコヒーレンスについて解説される.このデコヒーレンスの問題を克服するための手法として,第10章では,量子誤り訂正符号が紹介されている.第 II 部では, 量子計算の物理的実現法について詳細に述べられている.具体的には,第11章では,量子計算を実現する物理系が満たさなければならないDiVincenzoの公準について解説される. さらに, 液体状態NMRが第12章で紹介され,第13章と14章では,イオン・トラップや原子を用いた量子コンピュータの実現法がそれぞれ紹介される.続く第15章ではジョセフソン結合量子ビットが紹介され,最後の第16章では,量子ドットによる量子ビットの実現法について述べられている.全体的に,本書の記述は非常に簡潔でわかりやすい.定理の証明や例題も,コンパクトにまとめられており,大変理解しやすい.量子計算の理論と実現に関する大変豊富な内容を網羅的に述べているので,量子計算の初学者には最適の一冊である.初学者ばかりでなく,量子計算に馴染みのある読者も,知識を体系的に整理するために,是非,ご一読をお薦めする. (2009年12月21日原稿受付) ページの頭に戻る
B. A.シューム著,森 弘之訳 「標準模型」の宇宙; 現代物理の金字塔を楽しむ
日経BP社,東京,2009, vi+510 p, 20×13 cm, 本体2,800円[学部・一般向]ISBN 978-4-8222-8361-2
高 橋 智 彦 〈奈良女子大〉 本著は素粒子の標準模型について平易な解説を試みた本としては大部な著作である.素粒子は粒子と波の二重性をもった量子力学にしたがう「粒子」であり,量子力学と現代物理のもう一つの基礎である相対論とを融合させれば場の量子論という理論形式が現れる.場の量子論を使えば,素粒子とその相互作用のすべてを場の概念を通じて系統的に理解できるようになる.まず本著では半分の章を割いて,この素粒子と場の関係について数式の使用を避けながら丁寧に説明し,各6種類のクォークとレプトンが素粒子であり,それらに4つの相互作用が働いていることを理解させてくれる.抽象数学であるリー群を扱う章でさえもまた,数式を極力使わないことに努めつつ,必要事項を省くことなく群の公理からユニタリー群までを語り尽くす.そのあと,数学的なパターンを扱うリー群と対照して素粒子に様々なパターン(対称性)があることについて言及する.ここまででさえ,数式を使わない冗長な説明を理解するのには骨が折れるし,誤解の修正も数式が無ければ難しいため,読むには労力を要するであろう.しかし,場の量子論,リー群,素粒子の性質を土台にして標準模型について語る終盤は圧巻であり,その労が報われる.前半の周到な準備のおかげで,ゲージ原理,自発的対称性の破れ,統一理論,という標準模型にある重要概念が曖昧さなく解説され興味深い.現在LHCで探索されているヒッグス粒子がなぜ存在し,どのように重要な粒子であると考えられているかについても再認識させられる.にもかかわらず巨大化しすぎた素粒子物理の意義を人々に説得しきれていない現状を語るくだりなど,事業仕分けによる科学技術予算削減とも重なって考えさせられることも多く,それが著者を執筆に駆り立てた動機でもあったのではないかと思われた.標準模型に関する簡単な解説書に飽きて一歩踏み込んで知りたい方にはお薦めの本であるが,内容が豊富なだけに読了するにはそれなりの覚悟がいる.南部,小柴,益川,小林の貢献がわかると帯紙にはあるが,本書でその重要性を感じられても理解に至るのは難しいかもしれない.素粒子物理を志す人に必須の事柄を数日で概観できるので,確かに「ゲージ理論のやさしい入門書」として読むには良いだろう.(2009年12月21日原稿受付) ページの頭に戻る
仁科記念財団編 仁科記念講演録集1; 現代物理学の創造
シュプリンガー・ジャパン, 東京, 2008, vii+707 p, 24×17 cm, 本体 10,000 円 [広い読者向]ISBN 978-4-431-10045-4
二 宮 正 夫 〈岡山光量子研〉 本書は,仁科記念財団が財団創設の1955年から2008年までに開催した仁科記念講演会と対談の記録の中から,29編を 『仁科記念講演録集1』 として700余ページの大著に編集したものである.仁科記念講演会は,仁科芳雄(以下においても敬称略)の生誕記念日である12月6日の前後に開催される定例講演会,さらには臨時の講演会を合わせて,1955年から2008年までに136回開催されている.本書の副題に「現代物理学の創造」とあるように,いずれも現在の物理学の隆盛の礎を築きあげた国内および海外の多数の著名な研究者の優れた講演であったことが察せられる.出版にこぎつけられた山崎敏光・仁科記念財団理事長,編集の労をとられた並木雅俊・同財団嘱託(高千穂大学)に, まず, 評者は深い敬意を表したい.評者が特に感銘を受けたのは,素粒子論関係においては朝永振一郎,湯川秀樹,Werner C. Heisenberg, 南部陽一郎,西島和彦,小林 誠,物性物理学では戸田盛和,中嶋貞雄,近藤 淳,外村 彰,伊達宗行,宇宙天文物理学では小田 稔,長谷川博一の講演録である.さらには,免疫学の本庶 佑,エレクトロニクスの鳩山道夫,電子計算機の後藤英一の講演録が含まれており,本書は物理学の枠を越えて物理学とその周辺を俯瞰するのに適しているといえる.まず本書において際立っている点は,朝永の講演と対談の収録が6編を占めていることである.朝永は,初代理事長・渋沢敬三の時代,常務理事として財団を支え,渋沢没後に第二代理事長に就いた.当時の彼は,東京教育大学(現: 筑波大学)の教授, 後に学長を務め,さらに日本学術会議会長を務めるなど,教育・研究・行政において多忙な身であった.このような環境にありながら,朝永は学問の真理を彼一流のわかりやすく,しかし探求心あふれる思考が窺える秀逸な講演・対談を行った.その記録は今日も読者の心に染みわたる.湯川の2つの講演録は,日本における最初のノーベル賞受賞者らしく,20世紀の物理学における天才たちの人物評を交えた興趣あふれる内容で,また仁科と朝永との交わりを記したものである.日本の基礎物理学の礎石を築いた仁科・湯川・朝永にとって,お互いの交流がいかに重要であったかを窺い知るうえで貴重な記録である.また X 線天文学において著名な小田の講演の演題は「宇宙の考古学」であった.膨張している宇宙においては遠方の宇宙の様子を探求することは,とりもなおさず,ずっと過去の天体を観測することにほかならない,という意味であり,言い得て妙なタイトルで,宇宙天文物理学のまたとない解説となっている.14年後に行われた小田の講演「X線星とブラックホール」とを併せて読まれることをお薦めする.記念講演会では, “Klein-Nishinaの公式” で仁科の共同研究者であるOskar B. Kleinが来日講演するなど2008年までに40名を越える著名な外国人研究者が講演を行っている.この中には多くのノーベル賞受賞者が含まれており,仁科記念財団がいかに国際的に高い評価を受けている存在であるかを遺憾なく示している.本書にはHeisenbergの講演「現代物理学における抽象化」が掲載されている.外村は「量子の世界を見る」という演題の非常に興味深く,かつ重要な内容を含む講演を行い,1つの電子による量子干渉実験でみごとに量子的性質を目の当たりに見せてくれた.外村の1個の電子による量子干渉実験は,国際的にも,最も美しい実験の一つと讃えられている.本書では, 2008 年度のノーベル物理学賞を受賞した南部および小林・益川の研究に関する講演が収められている.南部が対称性の自発的破れに関連した「『素粒子』 は粒子か」という講演を行ったのは1985年であった.本書の掉尾を飾るのは,小林の「素粒子物理学はどこへ向かうのか」と題された2006年の講演である.量子力学の歴史から説き起こし,今日の素粒子の標準モデル,さらにはそれを超えるニューフィジックスを概観している.字数の都合で本書に含まれる講演・対談録の一部のみの紹介となった.本書から読者諸氏は偉大な物理学,自然科学の先人の生の声に触れ,自然への尽きない興味を改めて思い起こすであろうと信じる.自然科学系の人はもちろん,人文科学系および一般の方々にも是非一度は目を通していただきたい貴重な一冊である.(2010年1月8日原稿受付) ページの頭に戻る
Nishina Memorial Foundation, ed. Nishina Memorial Lectures; Creators of Modern Physics
Springer, Heidelberg, 2008, xiv+402 p, 24×16 cm, euro 49,95 (Lecture Notes in Physics 746)[専門〜学部向]ISBN 978-4-431-77055-8
小 沼 通 二 1951年の仁科芳雄の没後,1955年に仁科記念財団が設立された.この年から毎年,事業の一つとして仁科記念講演会が開催されてきた.講師の3分の1は,海外からの来日学者だった.これらの講演は,小冊子の形でその都度発行されてきたが,広く利用されてきたとは言いがたかった.財団では,創立50周年の機会に,代表的講演をまとめて和文と欧文で発行することを決めた.本書はこの欧文記録であり, 1967 年のW. K. Heisenbergから2005年のC. N. Yang (楊振寧) まで, 末尾のリストで見られる講演者の18編がまとめられている.このうちHeisenbergの「現代科学における抽象化」だけは翻訳が和文の 『仁科記念講演録集 1; 現代物理学の創造』 にも含まれているが,それ以外は和文の記録には含まれていない.記録のうち長いものは 92 ページ (K. Siegbahn), 短いものは6ページ(C. N. Yang)と長短いろいろだが,2005年に仁科の生誕の地,岡山で行われたこのYangの講演記録の掌編「クライン・仁科の公式と量子電磁力学」は,仁科の代表的業績に直接関係する興味深い分析である.久保亮五の「日本の現代物理学の先駆者:仁科芳雄」以外は全て来日講演者の講演であり,その3分の2がノーベル賞受賞者である.(P.-G. de Gennes「米から雪へ」 はやや難しいが, そのほかは)どの講演も広い読者に向けたものなので,ぜひ原文で味わっていただきたい.講演者リスト(掲載順)W. K. Heisenberg, R. Kubo, J. Schwinger, C.-S. Wu, F. J. Dyson, R. P. Feynman, B. R. Mottelson, K. Siegbahn, P. W. Anderson(2編),L. Van Hove, J. M. Cronin, H. Rohrer, P.-G. de Gennes, H. Kroto, J. I. Friedman, M. J. P. Veltman, C. N. Yang.(2010年1月13日原稿受付) ページの頭に戻る
青木秀夫 超伝導入門
裳華房,東京,2009, xi+189 p, 21×15 cm, 本体3,300円(物性科学入門シリーズ)[大学院・学部向]ISBN 978-4-7853-2915-0
加 藤 雄 介 〈東大総合文化〉 修士課程の大学院生や学部生が,超伝導についての基礎的な事項から研究の最先端の現状までを俯瞰するに適した本である.伝統的なスタイルの超伝導の教科書では,研究の最先端の様子をイメージすることは難しい.銅酸化物超伝導体発見以降も興味深い様々な超伝導物質が発見され,研究の最前線は広がっている.そのような状況において,鉄ヒ素系超伝導研究でご活躍の著者による本書が出版されたことは時宜にかなっている.本書の主な内容を三つにわけると(1)「ゲージ対称性の破れ」をはじめとする超伝導の基礎論の記述,(2) BCS理論や相関電子系の超伝導理論の概説,(3)高温超伝導をはじめとする様々な超伝導物質の紹介となる.インターネット書店などで見られる目次の詳細については省略する.読者としては第二量子化(生成消滅演算子,場の演算子)を知っている必要があろうが,あとは線形応答理論の数式,簡単なファインマン図形を眺めて,意味が理解できるのであれば著者の意図を読み取ることができるように書かれている.これだけの内容をこのページ数でよく書かれたものだというのが第一印象である.初めから最後まで通読してみると,超伝導が持っている様々な側面を概観することができ,さながら大学院で集中講義を聴いているような味わいがある.これから読まれる方も,途中多少わからないところがあっても,とりあえず最後まで読み通し,本書全体から立ち上がってくる超伝導全体像のイメージを受けとめ,著者の研究者としての価値観を感じ取るよう意識されるとよいと思う.以下は個人的な感想である.(高圧まで含めると)周期律表の単体の多くが超伝導になるという記述に驚き,また様々な超伝導物質が紹介されている箇所はカタログを眺めるような気分で楽しく読んだ.そこでは銅酸化物超伝導以外にも,MgB2, コバルト,パイロクロア,ハフニウム,鉄ヒ素系など日本で発見されたものが多く紹介されている.コラムの「磁気浮上(アーンショウの定理との関連)」や「回転する超伝導体」は超伝導の電磁気的性質にまつわる話である.細かい予備知識はいらないので,自分の超伝導の理解を試すには格好の題材である.本書では超伝導の本質として「ゲージ対称性の破れ」が強調されているが,そうすると全粒子数が確定している系は超伝導にならないのかという疑問が湧く.BCS理論も, マイスナー効果も,全粒子数一定の条件下でも定式化できる.非対角長距離秩序を通して対凝縮や,マクロな波動関数(凝縮体波動関数)も定義できる.「対凝縮」こそ超伝導の本質と言う方がすっきりしていると評者は思うのだがどうだろうか.(2009年12月24日原稿受付) ページの頭に戻る
D. Bouwmeester, A. Ekert, A. Zeilinger著編,西野哲朗,井元信之監訳 量子情報の物理-量子暗号,量子テレポーテーション,量子計算-
共立出版,東京,2008, xiv+384 p, 22×15 cm, 本体5,300円[大学院向]ISBN 978-4-320-03431-0
中 原 幹 夫 〈近畿大理工〉 量子情報・量子計算は,情報やその処理を量子系を用いて行う新たな原理である.量子系を用いることにより,重ね合わせ状態やエンタングル状態など古典系では存在しない状態を用いて情報処理や計算が実行できる.情報の担い手は,古典情報が0と1の値をとるビットであるのに対し,量子情報では 〓0〉 と 〓1〉 の二つの直交する単位ベクトルの重ね合わせで表される量子ビットである.90年代初頭までは,量子情報や量子計算は一部の「量子オタク」の間でのみ研究された分野であったが, 1994年にPeter Shorが複合数の素因数分解を効率的に行う量子アルゴリズムを発表して以来,大学のみならず,企業や軍までが研究に参入してきた.大きな複合数の素因数分解が可能となると,インターネットのセキュリティを保証しているRSA暗号システムが破綻をきたすからである.本書の原著は2000年に出版されたもので,当時活躍していた多数の(40名を超える)研究者たちにより分担執筆された量子情報,量子計算の入門書である.タイトルに「物理」とあるように,量子力学の基礎を学んだ物理学の学生,研究者を対象としており,数学や情報科学のバックグラウンドのみをもつ読者には敷居が高いと思われる.5章までは確立した基礎を,6章以降はさらに進んだ話題を扱っている.1章では,重ね合わせ状態やエンタングル状態などの量子情報理論の基礎が展開されている.新しい概念の導入と同時に,それを具現化する実験が紹介されているのは,後に続く実験の章を意識しているからであろう.おもに理論的な研究をしている評者には,この操作論的なアプローチは新鮮に思われる.2章では量子暗号(正確に言うと量子鍵分配)が紹介されている.古典暗号の歴史から始めて,暗号を作る(解読する)鍵の重要性が述べられたのち量子鍵分配が紹介される.「量子暗号」というと,量子ビットを使った暗号と誤解されるが,実際には量子ビットは古典暗号のための鍵の生成に使われる.量子鍵分配の基礎が紹介されたのち,1光子(BB84)およびエンタングルした光子対(E91)を使って, それを実現する方法が述べられている.本書の原著が出版された当時,まだ量子鍵分配は実現しておらず,本章にもさまざまな問題を解決する方法が記されているが,現在ではMagiQやid Quantiqueなど,いくつかの会社がすでに商品化している.スイスの2007年の総選挙で後者のシステムが採用されたことは記憶に新しい.3章ではエンタングル状態のさらなる応用として量子稠密符号化と量子テレポーテーションが解説されている.理論的には簡単な数式の変形にすぎないこれらのアイディアを,実験的に実現するには大変な工夫を要することが見て取れる.本章では,通常扱われている量子稠密符号化や量子テレポーテーション以外にも連続量のテレポーテーションやエンタングルメント・スワッピングなどが紹介されている.4章と5章は量子計算を扱っている.まず§4.1で量子計算の基礎概念が紹介されるが,多世界解釈の立場から書かれているのは,この節の著者の一人がDeutschであるからと思われる.評者は多世界解釈が完全に否定されたかどうかは知らないが,本書は初心者もテキストとして読む可能性があるので,ここには訳者から注意を喚起する注をつけていただきたかった.Groverのアルゴリズムも並行宇宙の立場から解説されている.§4.1.5の「より深い洞察」は,哲学的すぎて評者には理解が困難であった. §4.2以降は比較的標準的な量子アルゴリズムの解説となっている. 最後の§4.5では, 量子コンピュータのハードウエアの例としてイオントラップが解説されている.5章では,量子コンピュータの候補となる物理系として,キャビティQED,(再び)イオントラップ,NMRが紹介されている.各テーマは,その当時の権威によって書かれ,2000年までに実現した実験が紹介されている.他の物理系,すなわち中性原子や超伝導量子ビット,量子ドットなどが扱われていないのは物足りない.6章以降はさらに進んだ話題を扱う.6章では量子ネットワークと多者間エンタングルメント,7章ではデコヒーレンスと量子エラー訂正,8章ではエンタングルメント精製と,いずれも実用的な量子コンピュータや量子ネットワークを作るのに必要なテーマが解説されている.単なる理想化された理論にとどまらず,ノイズがある通信路における通信など,つねに実用化を念頭に置いて解説されている.本書の原著は2000年に出版されている.このめまぐるしく進歩する分野で,10年たっても量子情報,量子計算への入門書としての本書の価値が色あせないことは驚くべきことであろう.難を述べると,多くの著者が関与しているため,各章,各節の間のコヒーレンスが欠けていることである.同じテーマの繰り返しや,一つのテーマの基礎と発展が別の章にまたがっているのも分担執筆の宿命であろう.上にも述べたように,超伝導量子ビット,量子ドット,中性原子系など現在の研究対象の主流のいくつかは全く触れられていない.これらは10年前にはすでにある程度の成果を挙げていた系である.本書全体を通して,扱われている物理系が光学系に偏っているのは編集者の嗜好か,この時代の潮流かは新参者の評者には不明である.また,この10年間の進歩を顧みると本書で取り上げられている物理系に限っても,NMRによるShorのアルゴリズムのデモンストレーション(2001), 著者の一人Schmidt-Kaler達によるイオントラップのCNOTゲート実現(2003), KLMの線形光学量子コンピュータ(2001)など,2000年以降の進歩は理論,実験を問わず枚挙にいとまがない.訳者は専門家揃いと思われるので,これらの進歩を各章の補遺として参考文献とともに是非補ってほしかった.なお,最近の量子コンピュータ実験を紹介した本としては,Stolze and Suter: Quantum Computing(第2版は2008),Chen他:Quantum Computing Devices (2007), Nakahara and Ohmi: Quantum Computing (2008)があるので,興味のある読者はこちらも参照されたい.(2010年1月2日原稿受付) ページの頭に戻る
M. Cross and H. Greenside Pattern Formation and Dynamics in Nonequilibrium Systems
Cambridge Univ. Press, New York, 2009, xvi+536 p, 25×18 cm, £45.00[学部向]ISBN 978-0-521-77050-7
日 高 芳 樹 〈九大工〉 非平衡系のパターン形成の研究分野では,本書の著者の一人M. CrossがP. C. Hohenbergと著したレビュー(Rev. Mod. Phys., 1993)が,論文の参考文献の一番目にしばしば上げられるバイブル的存在であった.しかしあまりに網羅的で,初学者が一から学ぶのに適しているとは言い難かった.それに対し本書は教科書として書かれており,初学者(特に学生)に対する教育的配慮が随所に感じられる良書である.Introductionでは,世界はなぜ “退屈ではない” 構造に満ちあふれているのか?という疑問から非平衡パターンを学ぶ動機付けが行われている.本題に入ると,まず基礎概念として「線形不安定性」と「非線形状態」が説明され,それ以降は主にSwift-Hohenbergモデル,反応拡散モデル,振幅方程式といった非線形偏微分発展方程式を用いて,さまざまなパターン形成・ダイナミクスが議論される.また最後の章では,非線形偏微分方程式の数値計算手法が解説されている.教科書としては至れり尽くせりで,本文中で計算技術を学ぶべきところはEtudeとして独立させ,章末には発展課題のExerciseが用意されている.脚注は豊富で,巻末にはGlossaryまである.また,基礎的概念の説明や論理の進め方が非常に丁寧である.実験の例も豊富で,理論解析と観測される現象の関係がきちんと書かれており,読者が計算だけできてわかった気になる愚を犯さないように配慮している.以下,それらの点について目につくままに具体例を挙げてみよう.○複素振幅の説明では,2つの周期の重ね合せによる長波長変調(うなり)の説明から始めている.○Eckhaus不安定性の節では,線形安定性解析の計算がEtudeになっている.分散関係は波数の4次の項まで示し,最大成長率をもつモードが実際のパターンで観測される様子を図示している.さらに次の節で位相拡散方程式を導出し,その拡散係数が負になる場合にEckhaus不安定性が起こるという観点も述べられる.○平均流効果の詳細な説明の後には,「完全なストライプパターンには平均流効果がはたらかないことを示せ」というExerciseが用意されている.○脚注では「物理学における“universal"という言葉の意味は」といったことまで説明されている.難点は,(本書の性格上仕方がないが)最近の発展についてはあまり触れられていないことであろうか.例えば,線形不安定性の型が撹乱の成長率の分散関係によってType I〜IIIに分類されているが,最近盛んに研究されている波数0の中立安定モード(Nambu-Goldstoneモード)と短波長不安定モードが共存する場合をType IVとして述べて欲しかった.(2010年1月12日原稿受付) ページの頭に戻る
L.サスキンド著,林田陽子訳 ブラックホール戦争; スティーヴン・ホーキングとの20年越しの闘い
日経BP社,東京,2009, 560 p, 19×13 cm, 本体2,400円[一般向]ISBN 978-4-8222-8365-0
細 谷 暁 夫 〈東工大院理工〉 これは「スター・ウォーズ」とは関係なく,著者とホーキングの「ブラックホール蒸発による情報喪失問題に関する論争」がこの本の真のテーマである.第1部で量子力学と相対論の初歩的解説の後,第2部でそのテーマが提示される.ブラックホールは古典相対論では,重力に引き戻されて光すら出られない時空領域のことである. 1974 年にホーキングが量子場の理論をもとに,そこから光や物質がブラックホールの質量に反比例する温度で黒体放射することを示し,センセーションを引き起こした.ブラックホールはそのエネルギー放出により小さくなるが,温度は上昇する.遂には爆発的に蒸発するだろう.ブラックホールの形成以前の情報は,その担い手の物質がブラックホールの中に落ちて行けば,その情報はブラックホールの中に閉じ込められ,外からは知ることができない.そこまでは,パラドクスでも何でもない.情報喪失問題とは,ブラックホールが蒸発しきった時に,黒体放射という情報量ゼロの状態になり,ブラックホール形成時の情報が消えてしまうように見えることである.なぜ,このような人工的な問題が重要視されているのだろうか? 著者によれば,この問題は相対論と量子力学が鋭く対立する本質的問題である.その解決の中に量子重力理論へのヒントがあると確信している.遠方の観測者ボブはホーキング放射を観測するが,重力による赤方変位を考えるとその放射は事象の地平を出たときには大きなエネルギーを持っていたはずである.一方,ブラックホールに自由落下していくアリス(この設定は女性を大事にするアメリカ精神に反している)は,事象の地平は単なる帰還不能の分岐点に過ぎなく,高温灼熱の地点ではない.アリスとボブの体験は矛盾しているように見える.著者は,この問題に取り組み格闘して来た.その解決の糸口は,私が見る限り量子情報的である.ブラックホールの中に入ったアリスは,外のボブと経験を付き合わせることができないので,矛盾を実験的に示すことはできない.従って,物理的な矛盾はなく,むしろブラックホールの違う側面を見ている.サスカインドはそれをブラックホール相補性と呼ぶ.それでは,地平とはどのような物理的実体なのだろうか?第3部から,著者のオリジナルの考えが紹介される.ブラックホールの地平面のすぐ外側に薄い面が在り,その面のプランク長四方に1ビットの情報が収納されているという.そこで地平のすぐ外からブラックホールに,1ビットの情報を追加したとしよう.それをどうやって確認すればいいのか? その距離をプランク長以下にするとホーキング放射はプランクエネルギーを越える.それが地平の何処から出たかを見るには,実は地平と同じくらいのサイズの長い波長で見ることになることを彼は説明している.ここのところは,専門家以外は理解が難しいかもしれない.結論だけいうと1ビットの情報は地平全体に広がり何処に在るかは分からない.地平面のすぐそこにレンガの壁があるように見えるのである.これが,情報喪失問題の解決,すなわち情報はホーキング放射の中に入っていて,仮に全部のホーキング放射をかき集めればはじめの情報は含まれている.情報は保存されていて,場の理論のいい方だとユニタリティーは保持されるのである.第4部以降は,弦理論の観点に転じる.そこでは,ボルツマン公式でブラックホールエントロピーを統計力学的に求めることを紹介する.著者のアイデアのブレイクスルーになるサンタバーバラの会議には評者も参加していたが,彼の考えは粗く如何なものかと首を傾げた.また,ホーキングが誤りを認めたとする,ダブリンの会議も出席していたが,その根拠も判然としなかった.実はいまでも,私は彼の半古典論に依拠した決着を疑っている.ただ,最近の発展において従来の議論に量子情報理論的観点が加わってきたことは大きな進歩と考える.私は,この本には著者の原論文よりも物理的なアイデアが生き生きと提示されていると思う.専門家が読んでも引き込まれる.そして,日本ではあまり見られないことだが,論争が新しいアイデアを生むことが描かれている.ただし,歴史については,やや粗いと思う.例えば,いわゆるプランク単位はプランクが有名な量子論の嚆矢とされる論文(実は電磁場のエントロピーが中心テーマ)以前に導入されていること,アインシュタインの1905年の特殊相対論の論文における異なる場所における時計の合わせ方など,正確に記述すれば,情報喪失問題などの現代の問題への示唆も多いと思う.そこでのキーワードは物理における情報である.この分厚い本を読了して,想定する読者は誰なのだろうとふと考えた.ワインバーグの「最初の3分間」は知的な老弁護士を想定したそうであるが,この本の場合が,冒頭に登場する億万長者だとするとアメリカ社会の変化を感じさせる.訳については人名の発音が少し違うことなど気になったが読み易い.(2010年1月10日原稿受付) ページの頭に戻る
山崎美和恵 物理学者 湯浅年子の肖像
梧桐書院,東京,2009, 471 p, 22×16 cm, 本体3,600円[一般向]ISBN 978-4-340-40126-0
政 池 明 著者山崎美和恵氏はこれまでに湯浅年子に関する数多くの著書や研究報告を世に出してきたが,本書はその集大成として年子自身の著書や資料に基づいてその足跡をまとめたものと言えよう.第一部では「ジョリオ・キューリー夫妻を師として」と題してジョリオに師事してパリに生きた1940年〜1945年及び1948年〜1958年の足取りを描いている.敬愛してやまぬジョリオとの出会い,彼の研究指導についての記述は読者を引き付けずにはおかない.とくに人の生き方についてのジョリオの言動が年子を突き動かしていく様子は感動的である.第二部「年子の立体像を求めて」では主として二度目の渡仏(1948年)からパリでの他界(1978年)までの研究活動,文筆活動について記している.情熱を傾けた β 崩壊の際の放出粒子の観測,少数核子系の実験的研究と日仏共同研究の取り組みについての記述では年子の気迫が読者に伝わってくる.更に祖国への想い,歌人としての文芸論,科学と宗教への視線は年子の科学と人生の捉え方をよく表していて興味が尽きない.第三部「回想」では日仏の知友,親族,後輩達が年子の想い出を記している.年子が示した多くの日本人科学者への愛情がにじみ出ていて,共感を誘う.私達夫婦が受けた恩顧とも重なって,感謝の念で胸が詰まる.本書で私が最も感動した箇所は終戦前後の記述である.44年5月ジョリオは夫人と二人の子供及び軟禁中のランジュヴァンをスイスに逃れさせた後,国民戦線委員長の責務を果たすべく突如研究所から姿を消す.残された年子は黙々と研究を続けるが,パリ解放直前,日本大使館の退去命令で強制的にベルリンに移送させられる.ベルリンに着いた年子は研究ができない悶々とした日々を送るが,意を決してオットーハーンに手紙を送り,彼の紹介で廃墟のようなベルリン大学で研究を始める.45年2月25日の日記に「ベルリンの現在は言語を絶して突き詰めたところまできている.研究所の扉も天井も窓も壊されて,ガラスの破片が廊下や部屋に山と積まれる中でそれをよけよけ研究を続けている.丁度火事場で研究しているようなもので,狂人の部類に入ろう.」と記している.4月14日日本大使館よりベルリン退去命令.ゲルツェン教授は「平和が戻ってあなたがこれを使って仕事が出来るのは何処でしょう」と言いながら年子が必死で作った2重焦点型β線分光器を包装してくれる.5月8日,ドイツ降伏.年子は分光器をリュックに入れて背負い,ベルリンを後にして,シベリヤ鉄道で敗戦直前の祖国の地をふむ.極限状況の下での年子のあくなき研究への情熱は読者に強烈な印象を与えずにはおかない.(2010年2月2日原稿受付) ページの頭に戻る
多々良源 スピントロニクス理論の基礎
培風館, 東京, 2009, viii+221 p, 22×15 cm, 本体3,800円(新物理学シリーズ40)[専門向]ISBN 978-4-563-02440-6
村 上 修 一 〈東工大院理工〉 この本はスピントロニクス理論に関する初めての入門書である.この分野については近年の実験技術と理論研究が急速な進展を遂げているが,入門的な書籍が少なく,新しくこの分野に参入する際の障害になっていた.本書のメインはスピントロニクス理論であるが,この分野の実験面の現状も分かりやすく書かれている.机上の空論ではない,実際の系に直接適用できる生きた理論を学べる良書である.本書は 11 章からなり, 1 章から 3 章までは電気伝導およびスピントロニクスについての歴史・基礎事項・現象論が解説されている.広範な範囲の事柄がまとまって分かりやすく書かれており,ここを読めば短時間でスピントロニクス分野の現状がよく分かるようになっている.4章は強磁性体の微視的記述,5章は磁壁運動の巨視的変数による記述について述べていて,多自由度の系をどのようにモデル化するかの良いお手本となる.6章以降では場の量子化を導入してGreen関数,Keldysh形式の話が基礎的なレベルから書かれている.そして,9章〜11章で具体的なスピントロニクスの諸現象(電気伝導,異常ホール効果,磁化ダイナミクスなど)の計算を行っている.ここで扱われる輸送現象のミクロスコピックな計算は,ともすると煩雑な計算に惑わされて,物理的な本質を見逃してしまいがちである.この本では計算過程の随所に著者の物理的な見方・考え方が書かれており,煩雑な計算も見通しよく理解できる.全体に本書はこの分野の予備知識がなくても読めるように工夫されている.特に場の量子化の初歩から書かれているので,学部4年生ないし修士課程学生のレベルで読め,計算も読者が自分でフォローできるようになっている.しかも最後には最先端の研究成果に触れることができるのが本書の魅力である.特に推薦したいのがKeldysh形式の説明である.Keldysh形式については日本語の解説がほとんどなかったが,本書は一般的なKeldysh形式のレビューとしても分かりやすく,スピントロニクス分野の研究者・学生に限らず,他分野の人にも推薦できる.スピントロニクス分野は実験と理論がうまく連携して進んでいる分野であり,しかも日本はこの分野で顕著な成果を数多く生み出している.この本でスピントロニクス分野に興味を持つ人が増え,分野がさらに発展していくことを願ってやまない.(2010年1月22日原稿受付) ページの頭に戻る
R. Mahnke, J. Kaupuzs and I. Lubashevsky Physics of Stochastic Processes; How Randomness Acts in Time
Wiley-VCH, Germany, 2009, xvii+430 p, 24×17 cm, US$95.00[大学院・学部向]ISBN 978-3-527-40840-5
香 取 眞 理 〈中大理工〉 統計力学は多粒子系の物理状態を各粒子の位置や運動量や内部自由度の確率分布をもって記述する方法論である.分布とは, それぞれの値が平均値からどのようにばらけているかを表すものであるから,「統計力学は揺らぎの物理」であると言われる.しかし,揺らぎと言うと, (位相, 配置)空間における分布というよりは,むしろランダムな時間的変動(揺動)をイメージすることだろう.そして,この揺らぎの時間変化を詳しく議論するのが確率過程論である.揺らぎはその定義から, 平均値は常に零であることになる.揺らぎの度合いは平均値からのずれの二乗平均の正の平方根である標準偏差 σ で記述される.σは一般に時間とともに変化する.「確率論はギャンブルの数学」である.ギャンブルで負けが続いたとしても,その次にそれまでの負けを上回る額を賭けて勝てば,元はとれる.公正なギャンブルなら勝つ確率は必ずあるはずなので,どんなギャンブルでも勝ち負けをとんとんにする(つまり平均値を零に保つ)ことはできることになる.ただしそのためには,賭ける金額をギャンブルを続ける時間とともに増額していかなければならない.(よって,現実的にはいつか破産する.)このような賭け方をしたときのギャンブラーの損得の時系列のような,平均値は零だが揺らぎ幅 σ が時間的に増大していく確率過程を,確率論では一般に(上述の賭け方の名に由来して)マルチンゲールと呼ぶ.さて,物理として重要なことは,このマルチンゲールが拡散過程という物理現象を正確に記述するという事実である.時間をtとしたとき,σ∝〓 t という関係が成り立つ場合が標準的であり,これをブラウン運動(ウィーナー過程)と言う.本書は3部構成である.第1部では確率過程を数学の確率論の流儀で説明する.伊藤積分,伊藤の公式,コルモゴロフの微分方程式などの解説がある.第2部では非平衡統計力学で標準的な方法,つまり,マスター方程式,フォッカー・プランク方程式,ランジュバン方程式を用いた確率過程の説明がなされる.私は本書を,卒研生と修士1年の合同セミナーの教科書として使ってみた.卒研生たちには第2部を,院生たちには第1部を担当させ,交互に発表させた.彼ら,彼女らはてんてこ舞であり,私は大いに楽しんだ.本書の半分強を占める第3部は応用である.そこでは著者らの研究テーマである非平衡相転移現象,交通流模型,また経済物理への応用など興味深いトピックスが並ぶ.図表も豊富に与えられている.学生たちとまだ数年は,本書で確率過程の勉強を楽しむことができそうである.(2010年1月28日原稿受付) ページの頭に戻る
F.ダイソン著,柴田裕之訳 叛逆としての科学; 本を語り,文化を読む22章
みすず書房,東京,2008, vi+319+xviii p, 19×14 cm, 本体3,200円[一般向]ISBN 978-4-622-07389-5
小 沼 通 二 本書は,イギリス生まれの理論物理学者でプリンストン高等研究所名誉教授 の Freeman Dyson (1923-) の The Scientist as Rebel (New York Review Books, 2006)の翻訳である.原書は29章だが,訳書では22章が選ばれている.本書は,科学,科学者,文化を自由に語った興味深いエッセイ集であり,題の「叛逆」,原題の「叛逆者」は,衝動的,破壊的な叛逆ではなく,慎重に考え抜いた,新しい秩序を築くための叛逆を意味している.内容は,物理学,数学,天文学,情報学などの科学から,哲学,心理学,歴史,文学,宗教,軍事,平和,政治などに及び,テーマ別に「科学における現代の諸問題」(5章),「戦争と平和」(5章),「科学史と科学者」(7章),「私的小論と哲学的小論」(5章)に分かれている.別の分類をすれば,書評13章と書物の序文3章と講演が3章,それに絶版になってしまった著書 『核兵器と人間』 (みすず書房, 1986, 原書はWeapons and Hope, 1984)の中の3章を集めている. 書評といっても,4,000語という依頼でThe New York Review of Books に書いたものが 11 編のほか,NatureとMathematical Intelligencerに掲載されたものが各1篇である.これだけ長い書評となると,書物の紹介にとどまらず,書物を手がかりにして,ダイソンが自由に語るのを聞く楽しみを味わうことができる.主役として登場する物理学者は,D. Bernal, A. Einstein, R. Feynman, R. Oppenheimer, J. Polkinghorne, J. Rotblat, N. Wienerなど.な お,The New York Review of Booksは1963年に創刊された隔週刊行の書評と評論の雑誌である.本書から想像できると思うが,充実した力作が掲載されている.ダイソンの書評は,本書の後でも,しばしば登場している.英語人口と日本語人口の規模の差があるにしても,このような書評文化が充実している社会は健全だと思う.Mathematical Intelligencerは,余り知られていないが,季刊の数理科学の雑誌であって, 私は C. N. Yang が推薦してくれてから時々見ているが,興味深い.また本書に含められた 『核兵器と人間』 は,伏見康治先生のお誘いで,私も参加して読書会を行い, 10 人で分担して訳したものであり,東京で一夕ダイソンと語りあったことも懐かしい.(2010年1月13日原稿受付) ページの頭に戻る
丹羽雅昭 超伝導の基礎[第3版]
東京電機大学出版局,東京,2009, vii+512 p, 26×18 cm, 本体5,600円[大学院・学部向]ISBN 978-4-501-62450-7
永 井 克 彦 〈広大総合科学〉 本書は, 超伝導の現象論から BCS 理論,マイスナー効果,グリーン関数法,ジョセフソン効果までを含む理論の解説書である.扱っている問題は最近の他の教科書に比べるとむしろ少ないほうになるが,これほどの大冊になっているのは,著者が序文で述べているように初学者向けに「懇切・丁寧をモットーに」数式変形が詳しく書かれているからである.第1章と第2章は歴史と主要な実験事実の紹介である.第3章から第5章までが現象論の解説で,2流体模型からLondon方程式, Ginzburg-Landau方程式が扱われている.電磁場下の熱力学が始めに述べられ,現象論のほぼすべての結果が解説されている.特に第2種超伝導体のAbrikosov格子について計算が詳しく順を追って示されている.第6章では微視的理論への導入として,理想Bose, Fermi気体,第2量子化,格子振動の量子化等が扱われている.理想Bose気体のBose凝縮には10ページ超があてられ,相転移点での比熱の計算の詳細が書かれている.邦書の統計力学の教科書でここまで書いてあるのは極めて少ない.第7章はBCS-Bogoliubov 理論の紹介でほぼ 100 ページくらいある.基底状態,有限温度の状態から,遷移確率,マイスナー効果が扱われている.マイスナー効果については,その前に一般的な電磁場に対する線形応答が議論されている.第8章はグリーン関数理論で松原グリーン関数の導入に始まり,Gor'kov理論, それを用いたGinzburg-Landau方程式の導出があり,最後はEliashberg方程式が解説されている.第9章はトンネル効果とJosephson効果が述べられている.最後の付録では本文中で現われた複素関数論,Bessel関数や楕円関数などが解説されている.各項目について,必要な理論は最初から解説され,個々の交換関係の計算なども順を追って書かれている.確かに,他の書物を参照せずとも理解できるようにという著者の意図は感じられる.一方で,初学者向けという点からみると,格子振動の量子化の項は少し引っかかる点がある. また, BCS理論を平均場近似で記述するときに,最初は絶対零度で平均場が導入され,それをさらっと有限温度の値に置き換えてギャップ方程式を議論しているのも,もう少し説明がいるように思われる.また遷移確率の計算では,準粒子の散乱過程と,対励起過程については,Fermi分布関数を含む結果のみが意外とあっさりと書かれている気がする.さて,数式変形をここまで詳細に書くのはどうであろうか.もちろん著者が言うように「数式の導出や変形等で混迷してしまうよりもむしろ,その式の背後にある物理的描像を明確にするほうに時間を費やす」ことが大切であるのはその通りである.しかし,「混迷」することも重要だと評者は考える.ある程度は自分で計算する訓練をしないと,数式のイメージが湧いてくるようになれないのではと思われる.結論として,本書は学部生や院生が超伝導の勉強を始めたときに,詳しい計算を知りたいときの参考書として推薦できる.しかし,高温超伝導体や重い電子系の超伝導が多く議論されている今日,異方的超伝導や不純物効果などはどうしても勉強しておきたい項目である.数式変形をある程度整理してこれらの項目を取りあげてもらえると,教科書として申し分ないものになると思われる.今後,改訂の機会があるときには,是非とも検討をお願いしたい.(2010年2月23日原稿受付) ページの頭に戻る
C. Tsallis Introduction to Nonextensive Statistical Mechanics; Approaching a Complex World
Springer, New York, 2009, xviii+382 p, 24×16 cm, 79.95〓euro〓[専門・大学院向]ISBN 978-0-387-85358-1
阪 上 雅 昭 〈京大人 本書は,非加法的統計力学の創始者であるTsallisにより書かれた入門書である.非加法的統計力学というと通常の統計力学で登場する対数関数,指数関数を,q-対数関数,q-指数関数というベキ関数に置き換えた理論的枠組であり,形式的な拡張にすぎないという印象が強い.一方で,いわゆる複雑系で現れるベキ分布を自然に含んでいるため,非加法的統計力学でうまく取り扱える対象も少なくない.そのため,多くの物理学者にとって,非加法的統計力学は胡散臭いが気になるという存在であったと思われる.このような人にとって本書は非加法的統計力学の絶好の入門書である.本書の前半部分では,まず非加法的統計力学への拡張を意識してBoltzmann-Gibbs流の統計力学について復習している.その後,Tsallis流の拡張について述べられるが,この前半部分は形式的色合いが強いものの,読んでいて楽しい.大学の講義で統計力学を出来上がった理論体系として学び,エンドユーザーとして無批判にそれを使うことに慣れている多くの物理学者にとっては,非加法的統計力学にふれることは統計力学についてより深く考えるよい機会になると思われる.情報理論の観点からShannonエントロピーの一般化としてTsallisエントロピーを捉えられること,独立性の一般化としての q-積の導入などの数理はとても興味深いものである.一方,後半部分では,非加法的統計力学のさまざまな応用例が紹介されている.しかし後半部分は極めて羅列的であるのが残念である.非加法的統計力学の成功例と思われる乱流や自己重力系についての記述は非常に表面的なレベルにとどまっている,応用例の数を少なくしても,それらについて詳しく解説した方が非加法的統計力学に対する理解を得るためにはよかったのではないかと悔やまれる.本書は,教科書というよりは,長大なレビューと見た方が適切だろう.前半部分は丁寧に書かれているとはいえ,肝心な部分になるとやはり参考文献に頼らざるを得ない.しかし,非加法的統計力学がまだ発展途上の理論であることを考えれば致し方のないことである.多くの人が本書をきっかけにして非加法的統計力学に関心をもち,それが統計力学をより深く考える契機になることを期待している.(2010年3月1日原稿受付)本書は,非加法的統計力学の創始者であるTsallisにより書かれた入門書である.非加法的統計力学というと通常の統計力学で登場する対数関数,指数関数を,q-対数関数,q-指数関数というベキ関数に置き換えた理論的枠組であり,形式的な拡張にすぎないという印象が強い.一方で,いわゆる複雑系で現れるベキ分布を自然に含んでいるため,非加法的統計力学でうまく取り扱える対象も少なくない.そのため,多くの物理学者にとって,非加法的統計力学は胡散臭いが気になるという存在であったと思われる.このような人にとって本書は非加法的統計力学の絶好の入門書である.本書の前半部分では,まず非加法的統計力学への拡張を意識してBoltzmann-Gibbs流の統計力学について復習している.その後,Tsallis流の拡張について述べられるが,この前半部分は形式的色合いが強いものの,読んでいて楽しい.大学の講義で統計力学を出来上がった理論体系として学び,エンドユーザーとして無批判にそれを使うことに慣れている多くの物理学者にとっては,非加法的統計力学にふれることは統計力学についてより深く考えるよい機会になると思われる.情報理論の観点からShannonエントロピーの一般化としてTsallisエントロピーを捉えられること,独立性の一般化としての q-積の導入などの数理はとても興味深いものである.一方,後半部分では,非加法的統計力学のさまざまな応用例が紹介されている.しかし後半部分は極めて羅列的であるのが残念である.非加法的統計力学の成功例と思われる乱流や自己重力系についての記述は非常に表面的なレベルにとどまっている,応用例の数を少なくしても,それらについて詳しく解説した方が非加法的統計力学に対する理解を得るためにはよかったのではないかと悔やまれる.本書は,教科書というよりは,長大なレビューと見た方が適切だろう.前半部分は丁寧に書かれているとはいえ,肝心な部分になるとやはり参考文献に頼らざるを得ない.しかし,非加法的統計力学がまだ発展途上の理論であることを考えれば致し方のないことである.多くの人が本書をきっかけにして非加法的統計力学に関心をもち,それが統計力学をより深く考える契機になることを期待している.(2010年3月1日原稿受付)本書は,非加法的統計力学の創始者であるTsallisにより書かれた入門書である.非加法的統計力学というと通常の統計力学で登場する対数関数,指数関数を,q-対数関数,q-指数関数というベキ関数に置き換えた理論的枠組であり,形式的な拡張にすぎないという印象が強い.一方で,いわゆる複雑系で現れるベキ分布を自然に含んでいるため,非加法的統計力学でうまく取り扱える対象も少なくない.そのため,多くの物理学者にとって,非加法的統計力学は胡散臭いが気になるという存在であったと思われる.このような人にとって本書は非加法的統計力学の絶好の入門書である.本書の前半部分では,まず非加法的統計力学への拡張を意識してBoltzmann-Gibbs流の統計力学について復習している.その後,Tsallis流の拡張について述べられるが,この前半部分は形式的色合いが強いものの,読んでいて楽しい.大学の講義で統計力学を出来上がった理論体系として学び,エンドユーザーとして無批判にそれを使うことに慣れている多くの物理学者にとっては,非加法的統計力学にふれることは統計力学についてより深く考えるよい機会になると思われる.情報理論の観点からShannonエントロピーの一般化としてTsallisエントロピーを捉えられること,独立性の一般化としての q-積の導入などの数理はとても興味深いものである.一方,後半部分では,非加法的統計力学のさまざまな応用例が紹介されている.しかし後半部分は極めて羅列的であるのが残念である.非加法的統計力学の成功例と思われる乱流や自己重力系についての記述は非常に表面的なレベルにとどまっている,応用例の数を少なくしても,それらについて詳しく解説した方が非加法的統計力学に対する理解を得るためにはよかったのではないかと悔やまれる.本書は,教科書というよりは,長大なレビューと見た方が適切だろう.前半部分は丁寧に書かれているとはいえ,肝心な部分になるとやはり参考文献に頼らざるを得ない.しかし,非加法的統計力学がまだ発展途上の理論であることを考えれば致し方のないことである.多くの人が本書をきっかけにして非加法的統計力学に関心をもち,それが統計力学をより深く考える契機になることを期待している.(2010年3月1日原稿受付) ページの頭に戻る
菊池 満 物理学と核融合
京都大学学術出版会,京都,2009, 258 p, 21×15 cm, 本体3,200円[大学院向]ISBN 978-4-87698-931-7
吉 田 善 章 〈東大院新領域〉 はじめに私事にふれることを許していただくと,著者の菊池満さんは評者にとって大学院時代の先輩である.それこそネジの締め方,はんだ付けに始まり,トカマクの磁場計算や電源設計など,およそ全ての研究技法は菊池さんから学んだ.今でも古い書類をひっくり返していると,「吉田君へ」といって何やらかにやら菊池さんが書いてくれたノートやメモが出てくる.学兄の恩はかく深い.菊池さんはその後プラズマ核融合研究の最前線で戦われ,日本が誇る大型トカマクJT-60の指揮官として幾つものトップデータを生みだされた.世界のトカマク研究の文字通り「顔」であり,多くのリーダーが彼のもとで育った.さて,その菊池さんが大学生や大学院生のために-私が30年ほど前にいろいろ教えてもらった口調そのままで-核融合に係るいろいろな物理を,ある部分は啓蒙的に,またある部分は仰ぎ見る学の高みへ共に登ろうと肩を抱くように語ってくれたのが,この本である.知識だけではない.熱意を育てようとするその情熱がひしひしと伝わってくる力作である.プラズマ・核融合は「分野学」だという視点が,この本の立ち位置を定めている.核融合研究は様々な基礎に根をはっている.そして急速に上へ上へと伸びようとする.でも幹が太いかというと,むしろ細くなっている.そこが問題だというのが本書の企図になったと思われる.とにかく核融合プラズマを地上に作るなんて,とてつもなく難しいのである.あらゆる技術の洗練が,実験でも理論でも必要なのである.しかし分野学に閉じこもると,そのことを忘れがちだ.本書は,核融合研究黎明期の熱気(序章から2章)から始まり,発展期の基礎構築(3章と4章),今日へ続く課題(5章から9章),そして現状と展望(10章)へ突っ走ることで,覚醒を与えようとする.核融合というチャレンジが,物理学の地平に生じた一つの「渦」だとするなら,これに巻き込まれる物理・数理のテーマは広範におよぶ.磁力線や粒子軌道の精密な解析にはリー変換,運動論や流体モデルの解析には非エルミート生成作用素の問題…,それらを小気味よく紹介している.もちろんそれぞれのテーマは数百ページの専門的解説が必要だが,本書の目的は核融合研究というマクロな「渦動」を描出することである.いろいろな今日的なテーマの流線に沿って,若い研究者の関心がこの分野の活動に巻き込まれてほしい,そういう菊池さんの願いが,みごとに実現されている.(2010年3月20日原稿受付) ページの頭に戻る
R. P.ファインマン著,西川恭治監訳 ファインマン統計力学
シュプリンガー・ジャパン,東京,2009, xi+441 p, 21×15 cm, 本体4,800円(Springer University Textbooks)[大学院・学部向]ISBN 978-4-431-10068-3
斯 波 弘 行 本書は1972年出版のStatistical Mechanics: A Set of Lecturesの和訳である.原書はファインマンが1960年代にヒューズ研究所で行った一連の講義のノートをR. Kikuchiほか多くの研究者が取ったものに基づいている.『ファインマン物理学』 とは成り立ち,性格が異なるが,ファインマンらしさは随所に見える.レベルは初等統計力学を終えた大学4年生以上の教科書である.評者も学部の卒研生や大学院修士1年生の輪講で何度か原書の一部を読んだ経験がある.内容は,第1章で分配関数などの基礎的な事項を復習した後,密度行列,経路積分,古典気体の統計力学,イジングモデルの相転移,生成消滅演算子,スピン波,ポーラロン問題,金属中の高密度電子ガス,超伝導,超流動から成る.ファインマン自身の寄与が,ファインマンの変分原理,経路積分,ポーラロン,超流動の部分に記されているのは当然だが,他のテーマでもファインマンの考え方を学ぶことができる.例えば,超伝導の章はBCS理論からジョセフソン効果まで簡潔に記述され,何を重要と考えていたかわかる.このように,一部の章だけを読める本である.原書が出版されてから既に約40年経ち,その間に相当の進歩があった分野があるが,本訳書では,それらの一部について訳注の形で補っている.例えば,超伝導の章では銅酸化物高温超伝導をはじめとする進展について訳注で触れている.評者が個人的に興味深く感じたのは,原書に「Feは強磁性体であり,冷却しても超伝導は起きない」と記されているところに,訳注として「清水克哉(阪大)らによって高圧下のFeで超伝導が発見された」と文献を挙げながら記されていることである.評者は原書のこの部分を読んだはずであるが,何も疑問に思わず素通りしたらしい.超伝導と強磁性の関係は現在でも未解決の問題がいろいろある.本は常に書かれていることに疑問を持ちながら読まねばならない.なお,原書に散見する誤りについては,訳者らは訳注で指摘し,直していることも付け加えておく.小さな希望として,超流動の章にトラップされた中性ボース気体の超流動の発見のことが訳注で記されていてもよかったと感じた.本書を翻訳した田中 新,佐藤 仁両氏のご苦労はたいへんであったと思うが,その結果は丁寧で,良心的な翻訳書になって実っている.学部4年生あるいは大学院修士1年生のセミナーに適した本として推薦できる.もちろん,原書は現在でも手に入り,値段は本訳書と同程度だから,学生諸君にとっては原書で読むのも英語の勉強になり,有益ではなかろうか.(2010年3月13日原稿受付) ページの頭に戻る
岡本和夫 パンルヴェ方程式
岩波書店,東京,2009, xvi+286 p, 21×15 cm, 本体3,800円[学部向]ISBN 978-4-00-005836-0
浜 中 真 志 〈名大〉 パンルヴェ方程式とは,2階の非線形常微分方程式の中で,動く分岐点を持たないという良い性質で特徴付けられる方程式の族であり,広い意味での可積分系の仲間である.この方程式は,約100年前,政治家としても活躍したパンルヴェ(達)によって詳しく調べられ,上記の性質を持ち「非自明」なものは6種類に限られることが示された.著者の岡本氏は,パンルヴェ方程式のハミルトン構造に関して多大な貢献をされ,その後の研究に大きな影響を与えられた.本書は,この微分方程式論と可積分系双方の見地からバランスよく書かれた好著であり,幅広い分野で役に立つものと思われる.本書は,著者の手書き講義録:上智大学数学講究録 Vol. 19 「パンルヴェ方程式序説」(1985年)をもとに,その後の発展も加えて大幅に書き換えられた待望の成書でもある.岡本氏の講義・講演はいつも大変明快でユーモアにあふれているが,本書にも随所でそれが反映されている.本書の前半部分は講究録に沿った構成で,パンルヴェ方程式の歴史から,フックスの問題,モノドロミー保存変形などが微分方程式論の基本事項とともに丁寧に解説されている.後半部分はパンルヴェ方程式のハミルトン構造がさまざまな視点から議論されるが,講究録と比べて構成が大幅に変更され,変換論といった新しい内容が盛り込まれている.3章にはガルニエ系の詳しい記述があり,最終章では,τ関数から双1次形式,そして戸田方程式との関連についても言及されている.パンルヴェ方程式と2次元イジング模型との深い関わりなど省略されている話題もあるが,あとがきで文献案内もなされている.以上,駆け足の新著紹介となってしまったが,興味を持たれた方はともかく書店にて実際に手に取られてみることをお勧めしたい.(2010年4月2日原稿受付) ページの頭に戻る
E. Poisson A Relativist's Toolkit; The Mathematics of Black-Hole Mechanics
Cambridge Univ. Press, Cambridge, 2004, xvi+233 p, 25×18 cm, $45.00[大学院向]ISBN 978-0521-537803
石 原 秀 樹 〈大阪市立大〉 一般相対論の応用の中で最も美しく,魅力的なものはブラックホールであろう.それゆえか,最近,いろいろな分野の研究でブラックホールが登場している.天体物理においては,ブラックホールの影が見える可能性が議論され,究極の素粒子論では,高次元時空のブラックホールが議論されている.また,流体の中にブラックホールのアナロジーを見出す研究もある.これを書いている私は,相対論屋のはしくれで,これらのことすべてに大変興味をもっており,いろいろな研究者とブラックホールについて話をするのだが,それぞれの人が思い抱くブラックホール像の間に,いささかのずれがあると感じている.さて,本書は一般相対論の教科書だが,現在では数ある一般相対論の教科書の中で,異色のものとなっている.タイトルが言い表しているように,本書の目的は,相対論を一から説き起こしたり,その概念や意味を解説するのではなく,相対論の中で扱われる諸量を計算するための道具立てを提供することにある.著者はバリバリの相対論研究者で,特に,ブラックホールについて重要な研究をしてきている.その著者による,「ブラックホールとは,こういうものである.」というのが本書の主張のようだ.ブラックホールを理解するという目的のために必要な事柄をさかのぼって列挙していくと,相対論の道具立てが一揃い用意できることになる,という仕組みになっている.本書を手に取ってみるかどうかの参考として,具体的な内容について見てみよう.第1章は,本書を通しての記法を述べるために,ベクトルの導入から話が始まっている.座標とは独立した概念として,ベクトルを多様体上の曲線に沿った微分演算子として定義する,というエレガントな導入方法もあるのだが,ここでは,座標基底に対する成分としてベクトルを導入し,座標系の変換に対する変換性でベクトルや双対ベクトルなどを定義する,という伝統的な方法を採用している.実際に何かを計算する際には座標系を決めて実行することが多いので,この導入法は本書の目的にかなっている. Lie微分やKillingベクトルという時空の対称性と保存量を記述するための道具も準備されている.第2章では,曲がった時空中の測地線の束の断面の変形について述べられている.この変形は,重力場の本質である時空のRiemann曲率によって引き起こされる.また,第3章では,時空に埋め込まれた超曲面の幾何学について述べられており,超曲面に誘導された計量,その内的曲率,超曲面の埋め込みを記述する外的曲率などが導入される.第4章では,重力場の正準形式が定式化される.前章で導入された空間的超曲面が正準形式の時間一定面となり,誘導計量と外的曲率が正準変数となる.Einstein方程式を導く作用積分には表面項が必要であり,漸近平坦な時空の場合は,この表面項の値によって,時空の質量及び角運動量が定義できる.本書では,この表面項の必要性とその意味を丁寧に取り扱っている.本書の最終章である第5章で,満を持して,ブラックホールが取り上げられ,これまで準備されてきたことが,ここに集約する.ブラックホール時空において重要なのは,何種類かの「地平面」であり,地平面は,超曲面上の光線の束の振る舞いで特徴づけられている.そして,ブラックホールは質量,角運動量,電荷の3つの量だけで指定されてしまい,それらの間に熱力学的な関係が成り立つことが説明されている.想定されている読者は相対論を用いて重力物理の分野を専攻する大学院生や研究者である.エネルギー条件や時空の境界の呼称などが表にしてあるのは,本書をハンドブック的に用いる読者を意識している.研究の上でブラックホールとかかわりをもつ多くの研究者が,ここに書かれているようなブラックホールに対する認識を共有することは,素晴らしいことだと思う.私も,大学院のゼミ用のテキストに使ってみようと考えている.(2010年4月30日原稿受付) ページの頭に戻る
M. Mezard and A. Montanari Information, Physics, and Computation
Oxford Univ. Press, New York, 2009, xiii+569 p, 25×18 cm, $99.00 (Oxford Graduate Texts)[専門・大学院向]ISBN 978-0-19-857083-7
樺 島 祥 介 〈東工大院総合理工〉
本書は,近年,目覚ましい発展を遂げているスピングラス理論と情報理論/理論計算機科学との分野横断的研究について統一的な視点からの解説を試みたテキストである.類似の書籍としては,既に,著者の一人である Mezard 氏らによるSpin Glass Theory and Beyond(1987年),西森秀稔氏による邦書 『スピングラス理論と情報統計力学』(1999年)などがある.サーベイ伝搬,コンプレクシティ解析など,今世紀に入ってからの成果が記されていることに加えて,先行する2冊が物理の研究者を主な読者と想定しているのに対し,確率/線形代数/解析学に関する基本的な知識さえあれば専門分野を問わず理解できる記述に心を砕いている点が本書の特色である.本文は5つのパートに分かれている.それぞれのパートは情報理論,物理,理論計算機科学からの話題を1ないし2ずつ紹介した後,それらに共通して有用な計算技術を解説する,という体裁を意識している.第I部は各分野の基本事項の解説である.第II部,第III部は研究対象の特徴で分類され,解析的に解ける基本モデルと関連研究における近年の主戦場であった疎グラフ上のモデルについてそれぞれ記されている.続く2つのパートは対象の振る舞いによる分類である.第IV部はレプリカ対称(RS)相で記述される問題/現象に充てられている.最も専門性の高い最終第V部は,RSB相が本質的な役割を果たす問題/現象および議論の続いている話題に割かれている.こうした構成上の工夫は概ね成功を収めている,と言ってよいだろう.各パートが4ないしは5の短い章から構成されていることもあり,主張は明確かつリズミカルで読みやすい.分野間で表層的に異なって見える問題やモデルたちが数理レベルでは密接に関係していることが自然に示されている.定理・証明スタイルで記されてはいるが,“物理学者による証明” であり,読解に負担を感じることはない.唯一残念に思うのは,誤植が目立つことである.大半はタイプミスの類いであるものの,記法の混乱等もいくつか散見される.辻褄が合わない式や文章に出くわしたら,誤植の可能性も疑う,といった心づもりで読み進めた方が良いだろう.とはいえ,物理と情報に関わるこれだけ多くの話題を,問題やモデルの定義,解析技術,観察される現象に至るまで丁寧に記したテキストは他に類を見ない.本書で解説されている解析技術はガラスや粉体のダイナミクスに関する文脈で近年多くの関心が寄せられているジャミング転移の理論研究にも応用されている.情報科学との境界領域に限らず,こうした広い意味での乱れた系の研究に従事する研究者,大学院生にも薦めたい一冊である.(2010年5月14日原稿受付)
ページの頭に戻る
T. Sato, T. Takahashi and K. Yoshimura, eds. Particle and Nuclear Physics at J-PARC
Springer, Heidelberg, 2009, xi+265 p, 24×16 cm, 59,95euro (Lecture Notes in Physics 781)[専門・大学院向]ISBN 978-3-642-00960-0
岡 真 〈東工大院理工〉 本書は,高エネルギー加速器研究機構と日本原子力研究開発機構が共同で茨城県東海村の原子力研究開発機構の敷地内に建設・運営している大強度陽子加速器施設(J-PARC)のメインリングである50 GeVシンクロトロンにおける素粒子・原子核物理研究をオムニバス形式で解説したものである.それぞれの稿はJ-PARCで行われる実験を取り上げて,その背景と物理的意義,これまでの成果と新たな達成目標を解説している.J-PARCでの素粒子・原子核物理全体を概観する貴重な参考書であり,今後この分野へ参入を検討する場合には必読の書と言って良い.J-PARCはリニアックおよび3 GeVと50 GeVシンクロトロンからなる粒子加速器集合体で,世界最高クラスのビーム強度により,物質・生命科学,素粒子・原子核物理においてこれまでには実現できなかった詳細な実験を可能にする.50 GeVシンクロトロンは,ハドロン実験ホールの測定器群とニュートリノ実験装置の2カ所で実験が行われる.ニュートリノビームは,岐阜県神岡のスーパーカミオカンデまでの300キロ飛行中に起こるニュートリノ振動を捕らえるT2K実験を目指し,ハドロンホールでは,CP,時間反転対称性やフレーヴァー数保存の破れを探索する素粒子精密実験や,ストレンジクォークを含むハドロンを原子核に束縛させて作るハイパー核実験,ペンタクォークの検証,中間子を原子核に束縛させて真空の性質を探る実験など多彩な実験が計画されている.本書のユニークな点は,著者がいずれもこれらの実験を中心になって推進する担当者である点で,とりわけ通常この種の解説でありがちな理論家による「講義」がない点であろう.むしろ,実験家の目から見て,物理を理解するのに必要最小限な理論の解説はしっかりと与えられているので,初学者や分野外の読者にもわかりやすいと思われる.オムニバスであるが,それぞれの実験にかける意気込みが強く伝わってくるし,ビームや測定器,バックグラウンドや期待される精度もきちんと議論されていて有用である.本書の構成は,J-PARCの概観(永宮正治),T2Kニュートリノ実験(市川温子), KL 崩壊 (GeiYoub Lim), K+崩壊による時間反転の破れ(今里 純)Λハイパー核分光(田村裕和),ペンタクォーク探索(成木 恵),ベクトル中間子の核内効果(四日市悟)中間子束縛核(岩崎雅彦),ミューオン崩壊(久野良孝)となっていて,計画されている主な実験が含まれている.日本が世界に誇るJ-PARCは,多くの外国人研究者が参加する国際的に開かれた実験施設でもあり,本書がSpringerから出版されたことの意味は大きい.日本はもとより,世界中の(若い)読者がここで展開される物理に興味を持ち,新たに実験に参加し,また新しい理論を打ち立てる契機として本書が利用されることを期待する.(2010年5月12日原稿受付) ページの頭に戻る
柴田文明,有光敏彦,番 雅司,北島佐知子 量子と非平衡系の物理; 量子力学の基礎と量子情報・量子確率過程
東京大学出版会,東京,2009, x+369 p, 22×16 cm, 本体4,000円[専門・大学院向]ISBN 978-4-13-062611-8
山 中 由 也 〈早大基幹理工〉 近年ナノ系,冷却原子系を始めとする量子実験や宇宙,重イオン衝突などの分野で,量子系の多様な非平衡過程の話題が豊富であり,理論解析は切実な問題である.そうした問題に興味ある人に,基礎理論に基づいた本書を薦める.本書は3部構成で,従来なら最低3冊読まなければならない内容が,1冊に有機的にまとめられている.第I部では,射影演算子法に基づいて,環境系(熱浴)と相互作用する量子系の散逸過程の基礎定式化(時間畳込み型と非畳込み型)が示されている.著者らが長年研究してきた分野で,解説は簡潔である.具体的計算のために相互作用描像の摂動論が展開されている.第II部で,量子情報の分野に現れる系の緩和現象に応用されている.第III部で再び基礎理論に戻る.そこでは,量子揺らぎと熱的揺らぎの共存する系の混合状態記述を,通常の非チルド演算子に対応して新たなチルド演算子を導入するという自由度二重化によって,純粋状態で記述するThermo Field Dynamics (TFD)形式の非平衡理論が解説されている.平衡系では高橋-梅沢のTFDとして確立されており,正準形式場の量子論で定式化されているため様々な恩恵を受けられる理論である.著者は,非平衡散逸過程の物理をTFD理論で展開(第8章)したパイオニアである.さらに,正準形式を利用して,TFDでの確率微分方程式導入(第9章)という新たな発展も紹介されている.ここで非平衡のTFDに関連した次の二点の注釈を加えたい.本書では,生成・消滅演算子で定式化されているが,場の演算子は直接登場していない.非平衡の場の量子論系では,準粒子描像も時間的に変化することが予想され,それに対応して各時刻適切な生成・消滅演算子で場の演算子を展開するという新たな作業が必要となる.この点を強調しての非平衡TFDに関しては,梅沢博臣博士の著書1)が参考になる.二点目は,非平衡系の定式化として知られている,過去から未来,未来から過去という時間経路を考える閉じた時間経路法 (Schwinger-Keldysh法) との関連である.その方法と非チルドとチルド演算子を持つTFDでは,例えば伝搬関数が2×2行列であることやグリーン関数間の方程式が同じになる(これはハイゼンベルグ方程式が共通であることに由来)ことなどから,一般的には同じ内容と受け取られがちである.しかし,非チルドとチルド演算子は交換するのに対し,過去から未来時間軸上と未来から過去時間軸上の演算子同士交換しないように,両者で二重項の意味が違う.さらに,グリーン関数を具体的にどう計算するかが重要であるが,両者で同じではない.現時点では異なる方法とみなすべきであろう.参考文献1) H. Umezawa: Advanced Field Theory-Micro, Macro, and Thermal Physics (AIP, 1993); 有光敏彦,有光直子訳:『場の量子論-ミクロ,マクロ,そして熱物理学の最前線』(培風館, 1995)(2010年5月13日原稿受付) ページの頭に戻る
J. Solyom Fundamentals of the Physics of Solids Volume I; Structure and Dynamics,Fundamentals of the Physics of Solids Volume II; Electronic Properties
Springer, Heiderberg, 2007, XX+697 p, 24×16 cm, 149,95euro[大学院・学部向]ISBN 978-3-540-72599-2,Springer, Heiderberg, 2009, XXII+646 p, 24×16 cm, 129,95euro[大学院・学部向]
播 磨 尚 朝 〈神戸大院理〉 現代的で重厚な固体物理の教科書である.各600ページに及ぶ3巻で構成されている.第1巻は固体の凝集機構に始まり結晶構造とその対称性を詳説し,格子振動に多くを割き,磁気秩序状態とその励起までを扱っている.言わば,原子と磁気の構造とその動力学である.第2巻は電子の性質を扱っており,金属の自由電子模型からバンド構造を詳説し,電子・格子相互作用,伝導や光学的性質に触れ超伝導,さらには半導体デバイスの伝導までを取り上げている.2巻で100ページを越える補遺では,単位系や元素周期表,あるいはいくつかの数学的な事項について述べられている.取り上げている項目は極めて標準的であり,これだけの分量だと多くの事項を取り扱えることは当然ではあるが,それぞれの項目の分量のバランスがよく配慮されており,しかも有機的に結びついていて,大変読みやすい.その上で,それぞれの項目についての記述に隙がないと感じるのは,私の浅学のせいばかりでもないであろう.結晶の対称性は多くの教科書で取り上げられているが,本書では引き続き「対称性から理解できる事柄」に1章が割かれており,この章はゴールドストンの定理で終わっている.第1巻で詳説した空間群の既約表現の知識を用いて,第2巻で空格子に対する自由電子模型のバンド構造の縮退を1つ1つ解いてくれており,初学者は手を動かしながら対称性を学ぶことができる.また,自由電子模型においてウイルソン比に触れるが,ここでは電子・電子相互作用が重要な場合のウイルソン比についても述べており,現代的な視点から自由電子模型を眺めていることを忘れさせない.第1巻が2007年の刊行であるが,2002年にハンガリー語で出版されたものの英訳である.そのせいか,多くの式や表を用いている割には,新著にありがちな誤植も少ないようである.目を引くような写真があるわけではなく,(おそらくオリジナルの論文からとられた)よく見かける図面もあるが,一方で,著者らの独自の工夫が見られるような図も見受けられ,1つ1つがよく吟味されているという印象を受ける.既に定評がかたまっており,それに新しい事項を取り入れて版を重ねている教科書もあるが,そのような取り扱いはしばしば消化不良に陥りがちである.そう感じている読者には救いとなるような本であろう.まもなく刊行される電子相関を取り上げた第3巻が楽しみである.(2010年6月8日原稿受付) ページの頭に戻る
K. Yagi, T. Hatsuda and Y. Miake Quark-Gluon Plasma; From Big Bang to Little Bang
Cambridge Univ. Press, Cambridge, 2005, xviii+446 p, 25×17 cm, £91.00[大学院向](Cambridge Monographs on Particle Physics, Nuclear Physics and Cosmology 23)ISBN 978-0-521-56108-2
浅 川 正 之 〈阪大院理〉
高エネルギー原子核衝突やクォークグルーオンプラズマについて,よい入門書がないと不満をかこつのが常だった.高エネルギー原子核衝突の現象論はわかりにくい,何かないかと言われても,会議録を通読したりして感覚をむしかありませんね,というのがいつもの答え.それらしい本があっても実際は著者の専門のモデルの解説だったりで,特にRHICの実験開始後は,実際に入門書と言える本は日本語でも英語でもないと言ってよいというのがこの本が出版された当時の状況だった.評者の怠慢でこの書評が遅れているうちに,現代的なモノグラフがいくつか出版され少しは状況が変化したが,それらとて入門書とは言えない.本格的な高エネルギー原子核衝突実験の開始以前には,共立出版の物理学最前線として出版された宮村氏による短いがよい解説があり,評者も大変お世話になったのが懐かしく思い出される.この本の特色はと言えば,何と言っても理論家と実験家の共著になる入門書であるということである.理論の研究者が実験のことを(測定器の記述まである)実験の研究者が理論のことを学び,請け売りでなく理解することができるようになればどんなに素晴らしいことだろうか.そのような期待をもって修士の学生のゼミで使ってみたところ,前半部分で学生は青息吐息の様子.そんなに甘くはなかった.この前半部分では有限温度における量子色力学を扱うための理論である硬熱ループ近似や格子ゲージ理論,量子色力学の相転移の現象論や相転移の一般論など,がっちりとした理論的バックグラウンドが解説されている.対象が多岐に渡っているため記述は非常に圧縮された形で与えられている.内容は正確だが,この部分だけで入門を終えようとするのは無理であろう.しかし,参考文献は十二分に完備しているので,この本を手がかりにしてさまざまな方向に関心を向けることができる.後半では緩やかな調子で現象論の解説が行われる.この部分は,普通の理論の研究者が現象論を知るにも,実験の学生が測定量の意義を学ぶにもよい材料となると思う.ただ,RHICにおける高エネルギー原子核衝突では,この本に書かれていない予想外の展開が数多く起きたので,それらに対しては他のレビューなどで補う必要がある.結論として,一言で言うとこの本は不偏不党の立場で書かれた物理的内容本位の良心的な書物である.ただし,記述レベルは高く,特に前半は修士程度では実験,理論の学生とも,独習するのは難しいかも知れない.それらの需要に対しては,おそらくそれだけで数冊になってしまうであろうが「イントロダクション」編の刊行とその執筆を引き受ける熱意ある著者の出現が望まれる.(2010年3月18日原稿受付)
ページの頭に戻る
A. Pikovsky, M. Rosenblum and J. Kurths著,徳田 功訳 同期理論の基礎と応用; 数理科学,化学,生命科学から工学まで
丸善,東京,2009, xiv+427 p, 21×15 cm, 本体8,800円[専門向]ISBN 978-4-621-08189-1
中 尾 裕 也 〈京大理〉 我々の住む非線形な世界では,定常状態が不安定化するとごく自然に自律振動(リズム)が発生する.相互作用するリズム間の同期は,しばしば重要な機能的意義を持つ.誰もが日常的に経験するように,同期は実世界の至るところに生じる普遍的な現象であり,人類は太古からその存在に気づいていたと思われる.17世紀にHuygensが振り子時計の同期を詳しく観察していたことは特に有名である.同期の制御が電気・機械等の各種工学系において重要なのは言うまでもなく,生命現象も様々なスケールのリズムに満ちており,それらの精緻な同期関係なしには成立しない.本書は 2001 年に出版された Synchro nization; a universal concept in nonlinear sciences (Cambridge) の和訳である. ドイツの Potsdam 大学物理学科に所属する著者らは,非線形リズムに関する重要な研究成果を驚異的なペースで挙げ続けてきており,原著は同期現象に関する標準的な文献となっている.徳田氏も同期現象の解析を専門とされ,Kurths氏の下に留学されたこともあり,原著の最適な翻訳者と言える.リズム現象に関する書籍としては,この分野の開拓者であるWinfreeによる The Geometry of Biological Time と蔵本によるChemical Oscillations, Waves, and Turbulence(いずれもSpringer)が有名だが,それらが規則的なリミットサイクル振動を基礎において生命リズムの描写や同期機構の数理解析を行っているのに対し,本書の特徴は,同期の概念を必ずしも規則的ではない揺らぐリズムにまで拡張し,その解析方法を実際的な立場から詳しく述べていることだろう.特に第I部では,敢えて数式の使用を抑え,豊富な実例を基に,同期の概念そのものに関する議論と,実験データの具体的な解析手法の説明が行われている.これは,カオス振動子間に生じる位相同期現象の発見と,実際の観測信号にHilbert変換等により位相を定義して同期の有無を検出する手法の提案という,著者らの重要な結果に基づいている.これらの結果は実世界の様々なリズムを同期という観点から調べる契機となり,物理・化学・工学系のみならず,心拍,呼吸,脳波などの生体リズムや生態系の個体数変動など,多彩な現象の解析に応用され,幅広い分野にインパクトを与えるとともに,同期の概念の重要性を知らしめた.物理学者である著者らは,原著のタイトルが示すように,多様な世界を統一的に観るひとつの切り口としての同期の概念の重要性を強調している.出版社の意向か,和訳版は随分異なる実用的なタイトルとなっているが,著者らの意図は十分に読者に伝わるだろう.本書は,同期現象について現時点で最も詳しく書かれた和書であり,関心のある全ての読者に推薦したい.(追記:その後,蔵本と河村による新著 『同期現象の数理』(培風館)が刊行された.リミットサイクル系の数理的側面についてはこれが最も詳しい.)(2010年6月3日原稿受付) ページの頭に戻る
Copyright c The Physical Society of Japan. All Rights Reserved |