日本物理学会の創刊50周年に際して

今年は日本物理学会の創立50周年にあたる。初期の歴史を振り返ってみよう。

学士会会報(1996年)pp.70-75.より  江沢 洋

戦後の再出発

物理学会の創立は1946年4月、会員数は1253であった。その6月には日本数学会が創立された。前身の日本数学物理学会が、第二次世界大戦の終結を機に二分したのである。賛成1043・反対38の決定であった。

遡れば、1877年(明治10年)会員数117で創立された東京数学会社(会社は society の意)が、1884年に物理学を「共に研究し相助くべき」ものとして東京数学物理学会に拡充、1918年には日本数学物理学会に発展した。数学から始まったのは和算の伝統があったからだろう。

こうして1977年に物理学会も数学会も創立100周年を迎えた。この意味では両学会が日本最古である。ドイツ物理学会は1999年に100周年を迎える。

数物学会の解散理由書はいう。「二学科の合同性は我が国に於ける学術研究者の数の少なかりし時代に於いて止むを得ず採用されたるものにして……今日に於いては其の要なきのみならず、却って両学関係者の自由なる活動を制約する場合なしとせず。」

一方、数学会の創立宣言とも見られている文書は、こう説明している。

「数学と物理学との親密な関係は数学会社から数学物理学会に発展した頃より、今日に至っていよいよ深くなったとしか考えられないが、一方学問も分化したので、それぞれの学会をつくって専門的の研究を深め、その上で協力しあうほうが実際問題として便利であると、旧学会の多くの会員によって認められたのであった。」

二つの科学の関係は今日いよいよ深まりつつある。

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当時の状況

終戦のとき、物理の中堅は「日本では物理はやらせてくれないだろう」「真空管一つつくることを許すだろうか」と思った(小田稔、熊谷寛夫)。若手は「民主的ということで意気軒昂として勉強を始めた」という(広重徹)。ともに雑誌『自然』の座談会での発言であるが、敗戦直後のことを言っているか少し後の事かの違いもあろう。連合軍総司令部が航空に関する教育・研究の全面禁止を打ち出したのは1945年の11月18日、理化学研究所と京都大学のサイクロトロンを破壊したのは同月24日であった。ただし理研の仁科芳雄(当時)の抗議にアメリカ陸軍長官は誤りを認め、仁科は復旧を要求した。 敗戦の意味は徐々に明らかになった。 数学会の「創立宣言」は、「平和な文化国家として甦る日本」の「胎動」を感じとっている。

窓の外では「終戦後半年を過ぎても広漠たる焼野原は依然としてその儘であり、焼け残った工場の煙突からはいつまで経っても殆ど煙は挙がらない。そして次から次へと労働争議が起こり、賃金と物価とが高騰して……科学などという直接パンに関連をもたない文化の分野は、ややもすると国民の脳裡から消え去ってしまうという状態である。」

仁科芳雄「日本再建と科学」の出発点である。

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サロン的な学会を

物理学会には創立宣言がない。その定款も普通と違い、物理学の進歩を図ることは殊更に揚げていない。会の目的は「物理学とその応用に関して、(1) 会員の研究報告を内外に発表すること、(2) 会員の一様に得られる研究上の便宜を図ること」のみ。そればかりか、会の審議・決定機関は(限られた総会事項を別として)委員会で「全会員から候補を募集し、相互の適任投票に合格したものを候補者として全会員に示し10分の 1以上に及ぶ異議申立のなかった者」から構成する。その下に会務を行う特務委員会(後に理事会と改称)をおく。

これらは会員数が一万九千を越えた今日でも本質的には変わっていない。会の運営は自らの意志で立った者(ヴォランティア)によらねばならぬ、というのである。

委員の数はヴォランティアの数次第だが、創立のとき53で全会員数の24分の1、その後50以上と定め、今期は161で全会員数の120分の1となっている。

はじめ、会の代表は委員長で「委員の互選できめる」としていたが、その後、会長に改め、曲折の後「委員の互選による3候補を示し」しかし「誰に投票してもよい」ことにして「全会員による選挙で次期の副会長(1年つとめて会長となる)をきめる」ように変えて今日まできている。

こうした特質は、数物学会の解散を唱え、物理学会創立の原動力となった清水武雄東大教授(当時)の主張にもとづく。先生は自由を尊び、ボス支配や政府の干渉をきらった。学会をサロン的なものにしたいとされたのである。これには反論もあった由だが、共鳴する者もあり、先生の熱意が通った。

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外との交渉

サロンという考えと、文化国家の建設・経済復興への寄与という世の熱い期待との折り合いが、どうつけられていたかは、いまとなってはもう分からない。物理学者の全国的組織は一つでなくてよいという考えもあったか、どうか。

仁科は、さきの論文において、科学者組合の結成を唱えている。その目的は、科学者の待遇改善(研究の進歩は食料で支配される、吾々の多くは給与において都電の車掌に遠く及ばない)、道義の向上、教育の高揚(偏狭に陥れば非民主的になる)、政治的訓練。そしていう。

「従来の科学者はとかく道具として使われがちであった。 これは科学者の団体が強力でなかったためである」。さらに「我が国が自主的な独立国家として認められた暁には」組合は「外交の有力な一翼をなし」「国際平和の増進に多大の貢献をなし得るであろう。」

1946年1月、民主主義科学者協会が創立された。4月には物理学会の第1回年会の際「全国大学及び研究所職員組合連合結成準備会物理学関係者集会」が開かれた。

物理学会もサロンではあり得なかった。学界を代表するよう求められたからである。すでに、物理学会誌の第1巻(1号のみ)に学術体制刷新委員会委員・第一次選定人146名が示されている。学術体制の刷新という占領軍の指示が伝えられ、委員の選定をする人を学会が選んだのである。

翌1947年の7月、学会の臨時委員会議は「米国学術顧問団に提出すべき我が国学術体制に関する意見書作成」を議し、(1) 人事に於ける封建制の打破、(2) 研究並びに発表の自由確保(研究発表費の政府支弁を含めて)、(3) 外人教師の招聘の三原則を委員会有志の意見として提出した。刷新委員会の報告から1948年に学術会議が生まれ、12月に行なわれた会員の選挙にも学会は関わる。

なお、会誌第1巻は第2巻1号より後に発行された。戦後の発行の苦労が偲ばれる。

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物理学の再生

1946年4月、物理学会の創立総会を機に開かれた年会では地球物理や天文学も含め222の講演があった。以後、月を追って磁気研究会の特別討論会や支部例会、第1回物性論分科会が続く。

11月の第1回素粒子論分科会はとりわけ盛況で、坂田昌一が混合場の理論を提唱、朝永振一郎は超多時間理論のその後を報告している。いずれも、場の量子論の根底にある困難に立ち向かい、湯川秀樹とともに戦争中から三者三様に進めてきた研究で、それぞれ独自の哲学に立ち、壮観である。

この年、アメリカでは戦時のレーダー技術を応用した核磁気共鳴法が発明され、日本でも研究された。1947年には、同じ技術で水素原子のスペクトルに当時の理論を越えた微細な構造(ラム・シフト)が発見され、イギリスでは特殊な写真乾板が開発されて中間子に2種あるという仮設が実証された。後者の仮設は坂田と谷川安孝が1942年に提出していたものである。前者は朝永の超多時間理論に恰好の例題をあたえ、坂田の混合揚理論からの示唆とあいまって1948 年に繰り込み理論として結実、アメリカでほぼ同時に独立に開発された 2 つの理論形式とともに1965年度のノーベル賞を受ける。ラム・シフトの発見が週刊誌ニューズウイークの記事で朝永に伝えられたという事実は、当時の文献事情を如実に物語っている。

1948年、アメリカのベル電話研究所でトランジスタが発明された。物理学会誌は翌年の7・8月合併号に「結晶三極管」として紹介、「3センチ以下の金属円筒に収まるほど小さく、真空を必要とせず、熱発生を伴わない。真空管のように作用開始までに時間を要することもない」から「現在は研究室内での試作時代であるが、やがては量子工学、電気通信の分野で大きな貢献をなす」とした。

湯川がプリンストンの高等研究所に招かれたのはこの年であり、1935年の中間子の理論的予言に対してノーベル賞を受けるのは翌1949年である。前年に中間子が初めて人工的に創りだされたことが契機だったろう。直径5メートル弱のアメリカの加速器による成果である。

前年、宇宙線の中に予想外の新素粒子が発見されており、以後、加速器のエネルギー上昇とあいまって新素粒子の発見と人工創成が続き、その数年間の蓄積の上に日本では西島和彦と中野重夫、アメリカではゲルマンが素粒子の―質量、電荷、スピンと並ぶ―新しい属性を発見する。ストレンジネスである。これは 1959年の池田峰夫・小川修三・大貫義郎の対称性の発見を経て、1964年にゲルマン等のクォーク模型に発展する。

日本には1953年に宇宙線観測所、1955年に原子核研究所ができた。1971年に設立された高エネルギー研究所では1976年、1989年に大型の加速器が完成する。物性研究所ができた1957年は、久保亮五が線形応答理論をだした年でもある。

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制度検討

物理学会では、科学研究費分科審議会委員候補、学術会議の物研連委員候補や各種の学術奨励金、賞などに推薦を求められ、1948年に徹底的な検討のため制度検討小委(小谷正雄小委員長)を設けた。検討は、さらに歴代の委員長のもとで続けられ、1969年に委員長を「会員の全体により選挙される会長」に改め、次いで1977年に「次期の副会長を選挙し次々期の会長とする」ことにしたが、最高決議機関をヴォランティアからなる委員会とする基調はついに変えず今日にいたっている。

この間、1954年4月に国会で最初の原子力予算が成立したのを受けて学術会議は第17回総会で核兵器研究の拒否と原子力研究の三原則(公開・民主・自主)を声名、1958年には原子核特別委員会が加速器を含む原子核研究将来計画を発表、他方で日経連の教育部会は新制大学への切り替え(1949年)を受けて大学教育の画一性打破(1952年)、法文系偏重の打破(1954年)、新時代の要請に対応する技術教育に対する意見(1956年)等を次々に唱えているが、物理学会に反応の跡はない。雑誌『自然』には小谷正雄が1949年の暮に「教育の画一を排す」を寄せ「特定の方向に秀でた素質を持つ学生」を「新学制が圧殺しなければ幸いだ」と論じた。

「我が邦が世界文化に貢献し得るためには平均を高く抜き出た人材の養成に努力する必要がある。」

物理学会が1951年に物理学教育委員会を設置したのは物理教育学会の創立(1953年)準備のためか。

1969年のいわゆる大学紛争については、文部省の対応に学術会議が反対したことを会誌が報告。学会としては大学運営に関する臨時措置法に反対する委員長談話を発表した。

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国際交流

1953年、湯川のノーベル賞を祝って京大に湯川記念館、すなわち基礎物理学研究所ができた。全国共同利用研究所の第1号として成功、後の物理の研究所はこれにならう。

この年、湯川記念館を主舞台に理論物理学国際会議が開かれた。招待した若手から、後に多数のノーベル賞受賞者がでた。このわが国初の国際会議がもたらした刺激は計り知れない。雑誌『自然』は会議の速記録を載せた。

1956年の坂田昌一の訪中が中国科学院からの招待をもたらし、翌年、学会は日中物理学交流準備委員会をつくり、第1回訪華物理学代表団を送ったが、物研連学会の中に日中交流小委の設置を要望されたとき、特務委員会は「交流の手伝いはできるが、委員会をおいて本会の名で基金を募集することには疑問がある、外に後援会をつくるのが適当」と答えた。1966年になると「北京・物理学夏の学校」協賛依頼は「従来交流のむずかしかったアジア、アフリカなどの研究者と学術的な交流を促進することの必要と意義を認め」応諾する。翌年には、1957年に受けた招待への答礼の意味もこめて中国物理学者を招くことをきめ、その滞日費用のため募金委員会を設けている。この訪日は、いったん無期延期となったが、1978年に実現した。その前年、日中科学技術交流協会が設立されている。

その後、物理学会は、アメリカなど多くの国と協力協定を結び、またアジア太平洋物理学会連合に加盟して積極的に活動している。

決議三

1966年には、半導体国際会議の組織委員会が米軍極東開発部から補助金を受けたことが、新聞報道から物理学会の委員会で問題となり、学術会議も再発防止をきめた。学会は揺れに揺れ、臨時総会を開いて4つの決議をした。その第3はいう。

「今後内外を問わず、一切の軍隊からの援助、その他一切の協力関係をもたない。」 この決議三は、年会でいえばプログラムの冒頭に明示するなどして軍事研究の発表を抑えるというように、国際会議にも及ぶ実施のルールを定めてきた。ルールは1995年に修正したが、決議の風化を避けるべきことも学会は確認している。

(学習院大学教授・東大・理博・理・昭30)

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