40年のおもいで1

日本物理学会誌 第30巻 第2号(1975)pp.95-99.より  望月 誠一

数物学会時代 機縁

1934年10月8日、それは私が東大物理教室図書係兼日本数学物理学会事務手伝として就職した日である。私は郷里山梨の高等小学校を1928年に卒業して上京し、日本橋蠣殻町の歯科医の書生をするかたわら夜は東京市立商業学校に学んだ。商業が好きで入ったわけではなくむしろ嫌いであったが当時は夜間の中等学校としては商業学校しか無かったからである。高等小学校の上にあった4年制の学校であった。卒業を半年前に控えて歯科医院を飛びだし、新聞配達員となった。しかし、そこでの待遇は予期に反して悪く、市立学校の安い授業料さえも払えない程だったが級友の援助を得て漸く卒業だけはできた。当時は甚だしい不況の時代で卒業しても適当な就職口が無く、まして自分自身が実業界に入ることは望んでいなかったので下谷御徒町の新聞店で荏苒とその日を過ごしていた。新聞配達員といううらぶれた生活の中から人生への疑惑が生じ、哲学への眼が開かれたのもこの頃からであった。1934年春に私にとっての一転機が到来した。それは東大病院の暖房機械室に勤務しておられた佐藤さんという方にある関係から知合いになったことであった。この人が非常に仁侠の士であり、私の境遇に同情されてそのうち東大のどこかに就職の世話をしてあげるから差当り家に来いと言われ約半年の間そのお宅で居候生活をしていた。秋になって東大物理で図書係を募集しているからというので佐藤氏の紹介で履歴書を持って教室の責任者の面接を受けた。当時寺沢寛一先生が教室主任、落合麒一郎先生が図書主任(今はお二人ともすでに故人となられたが)をやっておられ、このお二人にお会いした。履歴書に商業学校卒とあったので数物学会の事務をも手伝ってもらうのに好都合だからというのですぐに許可されて10月8日から勤務することになったわけである。そのときの職名は定員の関係もあって「小使」ということで日給65銭と、数物学会から月額3円の手当てをいただくことになった。これが、私の日本数学物理学会ひいては日本物理学会の職員となる機縁であった。就職して初出勤した日に先ず教えられた仕事が数物学会会員への雑誌発送の宛名刷りで、例の墨のついた黒いカードで手を汚したことを今でもはっきり覚えている。

▲ページのトップへ戻る

数物学会時代 図書係

数物学会はその蔵書を東大物理学教室の図書室に保管してもらっていた。東大物理図書室には Royal Society of London の Proceedings や Philosophical Transactions、Philosophical Magazine、Annalen der Physik、Zeitschrift fuer Physik、Nature、Physical Review など著名な物理学雑誌が殆ど創刊号から揃っており圧観を呈していた。その中には数物学会が外国から交換などで集めた、学会でなければ入手困難と思われるような雑誌が多数あり東大物理図書館の蔵書群に補間的な役目を果たして、両者を併せて物理学関係では本邦随一の蔵書(種類および冊数において)を誇っていた。このような場所に勤務することになり私自身も大いにそれを誇りとし一生懸命雑誌や図書の名前を覚えることに努力した。その結果数年後には殆どの雑誌、単行書とも分類番号なしの書名だけいわれれば取出して来ることができるようになった。図書室に来られた学生の顔を見てどの本を出してもらいたいのかを察することができたのも稀ではなかったと思う。しかし、それに自信を持ちすぎたために一度失敗したことがある。それは犬井鉄郎先生(当時東大工学部力学教室におられた)が Leipzig(あるいは Munchen だったかもしれないが)の Akademie の Sitzungsberichte を見せて欲しいといわれて、そんな雑誌は今図書室にはありません、と、胸を張って答えたところ、そんな筈はない、前に見たことがあるのだからといわれて御自身で探され見つけられた。このときばかりは穴があったら入りたく思った次第である。それ以後はこりてこのようなことのないよう注意した。兎に角この図書係勤務は出版物に関する諸種の知識が得られ、数物学会にしろ物理学会にしろ国際交流を主眼とし、雑誌出版をその事業の大きな柱とする学会に永らく勤務することになった私にとって大いに役に立った。このように図書を覚えることには熱心であったが図書室内の整理、清掃などには余り留意しなかったので大変汚なく、東大物理の先生方には申し訳ないことをしたと思っている。

▲ページのトップへ戻る

数物学会時代 学術的会合

常会・・・数物学会時代には現在の物理学会とちがって「常会」があった。常会とは、東京の本部で毎月一定の日(土曜日の午後)に開催され、入会申込者の承認などを行ったあと原著発表が午後一杯あった。場所は東大物理の講義室を借りるのが常であった。その案内はB5判ぐらいのザラ紙に1題2~3行の要旨つきで印刷され平均1回10題ぐらいの講演があった。参加者は普通は20~30人ぐらいであったと思う。数物学会時代は原著の文章による発表は数物記事( Proceedings of the Physico-Mathematical Society of Japan )に載せていたが常会、年会、支部例会などの学術的会合で口頭発表したものでなければ投稿できなかったので常会というものが必要であったものと思われる。勿論この頃はその場での追加講演も許されていたし、非会員でも会員の紹介があれば講演することができた。講演題目によっては参加者の数も増減した。私の知っている限りでは、竹内時男氏(東工大)の「 On the Radiation of the Common-Salt Irradiated by Ra-Cells 」という題目の講演とそのデーターの信頼度の低いことを批判するための理研や東大物理の先生方との論争が行われた常会(1941年6月)はもっとも盛会だったと記憶している。そのときは、東大物理の別館(木造平屋建、現在の東大出版会の建物のあるところ)で暗くなるまで論争がつづけられ100人ぐらいの定員の会場が寿司詰めになった(記録によれば400人)。竹内時男氏はその頃の常会講演者の常連の一人であり、それ程重視されてなかったようであるがこの講演だけはそのまま聞き流すことはできなかったらしく、西川正治先生(哲治先生の御父君)をはじめ理研や東大の諸先生方が本気でこれを論駁するために立上られたものと思われる。その論争の中で「…それはコンタミネーションによるものだ…」ということば(論駁者側の一人で当時第一高等学校の教授をしておられた竹内潔先生の一際大きなお声だったと思う)が今も耳に残っている。

年会・・・年会のはじまりは、遠く数物学会の前身、東京数学会社(1877年9月創立)時代にまでさかのぼる。草創の頃は常会といわず例会と称して毎月開催したがそのうち毎年6月にそれまでの1年間の事業、会計報告を行い、この月は紀年会と称していたが1884年から会則を変更して、紀年会に際しては例会の行事に加えて特に依頼した講演(現在の総会講演のようなもの)もおこなうことになり名称も年会と改められた。私が数物学会時代に年会のお手伝いをしはじめた1935~6年頃は3会場3日程度の規模で、それも数学、物理学、天文学、地球物理学まで含まれており現在の規模とは比較にならなかった。

▲ページのトップへ戻る

数物学会時代 出版

私が就職した当時の上司は恩田式司先生であった。当時は、東大物理教室の助手の一人が図書係と数物学会の書記とを兼ねて図書室の奥の小部屋に居られた。恩田先生は私が入る2~3年前からこの職に就いておられ1938年頃まで在職された。そのあと雨宮綾夫先生が来られ数年在職された。雨宮先生が去られてからは専任制でなくなり、東大物理の助手や大学院学生の方々が半年交代ぐらいで執務された。堀江忠男、小島昌治、高橋秀俊、三木忠夫、永原茂、近藤研二、木原太郎、久保亮五、石黒浩三、加藤敏夫、湯原二郎、市村浩等々の方がこの任に当たられた。これらの方々の主な任務は図書係としては図書の購入、分類など、数物学会関係では会議の書記、数物記事や会誌の出版、図書交換などであった。特に記事や会誌の校正が一番手のかかる仕事であった。数物記事や会誌はこれらの方々のご努力があってはじめて出版されていた。その印刷所は神田美土代町の三秀舎であった。三秀舎は当時としては数式ものをこなすことでは日本で随一の印刷所であったようである。

三秀舎は1901年頃からの数物記事の印刷を引き受けており数物学会により組版能力を育成されたと言っても過言ではなかったようである。

しかし、いつの時代でもそうであるように月刊誌を出すことはその出版に携わっている者の非常な努力が要請される。特に、雨宮先生は印刷の進行がはかばかしくなかった際に三秀舎にどなり込み並居る職員をちぢみ上らせ、以後の進行をスムーズにさせたことがあり強い印象として今も残っている。私も雨宮先生のお伴をして、または原稿や校正を届けるための使い走りなどで度々この三秀舎に通った。

▲ページのトップへ戻る

数物学会時代 数物学会の組織

数物学会は1941年2月に初めて社団法人組織になった。それまでは法的には「人格なき社団」で普通の表現で任意団体といわれる組織であった。その運営のために委員会が組織されていた。委員は現在の物理学会のような立候補制ではなく全会員からの投票という形式を一応はとっていたが実質的には前期の委員会が適当に候補を選定していた。1941年に株式会社日立製作所から当時の金で10万円に相当する同社の株式1,130株を寄付してもらうことになり、それを受入れるのに任意団体では不適当であるので法人組織とすることになった。そしてその運営には理事会、評議員会を設けて当てることにした。初代理事長には数学の掛谷宗一先生がなられた。法人となって最初の理事会が1941年4月に広島大学で開催された年会の際に開かれた。この当時は私自身こういう事務に不馴れであったため理事会の出欠をとる際欠席者から提出していただく委任状を白紙委任状の形にしてしまったため理事会の席上で笑い物にされた。それはさておき法人組織に変更されても理事、評議員の選定は前期の理事会がお膳立てするという従来の委員会方式と殆ど変ってはいなかった。理事長の選定も話し合いで決める所謂「たらい回し」であったが、1942年から清水武雄先生のご発議でそれでは不明朗であるから投票によるべきだという正論が通り、爾後投票で決めることになった。

▲ページのトップへ戻る

数物学会時代 第二次大戦と学会解散まで

第二次大戦開始後日本の敗色が濃くなるにつれ印刷用紙は配給制となり、用紙の質もだんだん悪くなっていったが1944年11月の米機の空襲で印刷所の三秀舎が焼失してしまったのでそこでの印刷は数物記事は第3期第26巻3~4号(1944年3~4月号)、数物会誌は第17巻10~12号(1943年 10~12月号)で停まってしまった。印刷所を大日本印刷(株)に変更して継続しようとしたがついにはそれは日の目を見ることができなかった。

学術的会合も、年会は1943年秋の仙台での年会を最後とし、その後は開催することができなくなった。その翌年には、一か所に多数の会員が集ることが困難になったので年会に代えて分科会を開催することになり、応用数学、幾何学、素粒子論、物性論、光学および光学器械、放電、磁気などの分科会が終戦までにそれぞれ1~2回、各地で開催された。
常会は割合簡単に開催することができたので第二次大戦中もずっと続けられ、講演申込が無かったり、空襲警報で流れたことが数回はあったが終戦の年の12月までつづけられた。

私自身は1944年12月に応召し1945年9月に終戦により帰任するまで学会の事務から離れてしまった。この間に清水武雄先生を中心とし東大物理の諸先生方や若手研究者の集りにおいて数物学会を解散して物理と数学の2学会に分離する案が検討されていた。その案はその後理事会、評議員会を経て1945年 12月15日の総会で確認され、その日をもって数物学会は解散した。

もっとも数学と物理を分離しようとする萌芽は既に1944年頃数物会誌を会報、数学、物理の3分冊にしようという案が出されたときにあったといえる。それは前述の印刷所の焼失により立消えになったが終戦後再燃し、一挙に学会分離にまで発展したのであった。

数物学会解散後も残務処理(数物会誌の終刊号の出版も含めて)と物理学会設立準備のため私の職務は継続した。私はもともと東大物理教室との関係が深かったため物理学会設立後は当然物理学会職員となることが約束されていた。

▲ページのトップへ戻る

数物学会時代 紆余曲折

ここに紆余曲折とは学会のことではなく私自身の辿った途のことである。

私はもともと物理が好きで商業学校在学中もその方面の勉強ばかりしていた。歯科医院を飛び出したのも夜間に東京物理学校へ通いたかったのにそこに居ては時間的に困難であることが判ったからである。新聞配達をやりながら物理学校の予科に約10ヶ月程通ったが前にも述べたように人生への疑惑から哲学に心をひかれるようになり、これを中途でやめてしまった。それから約2年は学校へも行かず新聞配達をするほかはぶらぶらしていた次第である。しかしそれでは結局生活が成立たないことを自覚しはじめ、前述の佐藤さんとの出会いから東大に就職することになり、1934年4月から再び物理学校に入学し2ヶ月程は通った。しかし、物理学や数学の講義は全く機械的で、それらが蔵するであろう深い哲学的な意味など全く無視され、単なる詰込みに過ぎなかったので又々どうにも我慢がならなくなり、同年12月に再び中途退学してしまった。そして意を決して自己の求める道である哲学を勉強するために翌1935年4月から日本大学文学部専門部(哲学科)に入学した。そして2年間夜学に通った。しかし、その頃の給与は甚だ低かったので学資に困り、3度の食事を2度にし、昼食抜きで通したことと日光の当たらない図書室の中の生活とで遂に身体をこわしてしまった。このまま学業をつづければほんとの病人になってしまうことをおそれ健康を取り戻すことを第一義と考えて1937年6月に中途退学のやむなきに至った。その間東大の方の身分は1937年10月1日付で臨時雇用に、1939年8月31日に雇員になったが同年10月16日に、東大の方の都合で数物学会専属の事務員となり、東大の方は依願解雇の形となった。数物学会として一人雇えることになったということによるものと思えるが仕事はそれまでと変ったことはなく依然として図書係兼学会事務員であった。数年間夜学をやめていた結果健康を取り戻すことができたので1941年4月から本格的に哲学を勉強するつもりで改めて日大文学部予科に入学した。しかし、再び前回の轍をふまないようにするために当時の教室主任に東大の仕事もやっているのだから東大からも多少の給与を出してもらい学資の足しにしたいと申し入れたところ幸いそれが容れられて東大に再就職することができ両方から給与の支給を受けるようになった。

その後学会の方は法人に組織替え(前述)のこともあって1942年4月1日付で「主事」に任命された。萩原雄祐先生が理事長になられたときである。

この頃から学会の仕事の方が東大図書係としての仕事よりもはるかに重きをおくようになり、また多忙となった。夜学の方は順調に予科を終了し法文学部文学科(哲学専攻)に進んだが戦時中のこととて実りある勉学はできなかった。もう少しで卒業できると思っていた矢先の1944年12月に召集令状を受けて海軍に入隊してしまった。戦争が終って除隊してきたら1945年9月の卒業予定となっていた。学科の単位は十分とれていたが卒業論文が未提出であったために正式には卒業ということにはならなかった。実際に卒業証書を手にしたのはその後約半年経って論文を提出できた後であった。

なお、ついでにその後の身分についていえば、1947年2月から東京大学理学部助手に任命され1953年3月末日に退官するまでは名目上は物理学会と兼任であったが、翌4月1日からは名実ともに物理学会専任となり、1973年12月31日付定年(満60歳)で退職するまで続いた。はじめて就職したときから数えて満39年と3ヶ月在職したことになる。

▲ページのトップへ戻る

物理学会時代 その1 物理学会の発足

日本物理学会は1946年4月28日に設立総会を開催し、当日をもって発足した。発起人の代表は清水武雄先生であった。私など終戦後職場に復帰しても虚脱状態に落ち入っていたし、卒業論文のことも気にかかっていながら遅々として進まずぼう然としているうちに数物学会解散と物理学会設立の企画が清水先生を中心として東大周辺の若手研究者達が度々会合して練られていたようである。それらの会合は学会としての正規のものではなかったためだれだれが出席し、どのような議論がなされたかは私は一度も出席したこともなく、知る由もありませんでしたが、そこから生れて来た日本物理学会の定款、細則の素案は全くユニークなものでその骨子は今に至るも変ることなく存続している。その特徴的なものはその目的条項と役員制度である。普通学会の定款の目的条項には「……により○○学の発達を図ることを目的とする」という趣旨の文章が必ずといってよい程書かれているが、日本物理学会の定款にはこの種の文章が一切見当らず、その第二条に「一。会員の研究報告を内外に発表すること」と「二。会員が一様に得られる研究上の便宜を図ること」の二つだけが揚げられている。これは物理学会の活動から政治を排除する、または政治には中立であるべきもの、という解釈を生み、後年米軍資金問題で大議論が交わされるまで永い間物理学会の指導方針とみられて来た基をなすものであった。

「本会の事業を行うために、三十名以上〔現行は五十名以上)の委員によって作られた委員会」が置かれ、委員会の中には委員長、庶務委員、会計員などの特務委員( 当初は副委員長、編集委員長、会誌編集委員長、出版委員長などはなかった。)がおかれ事務を担当することにした。従って総会を除いては委員会が唯一の決議機関であり、かつ実施機関であって特務委員はその実務を担当する者に過ぎず、普通の学会のような理事会、評議員会とはだいぶその性格が異っていた。しかも、その委員の選定は自由立候補制が主体であった。会員は、学会の運営について意見があれば委員会に申し出て審議してもらうことができるのは勿論、自分自身が立候補して直接学会の運営に参画できる。「会員は誰でも委員になれる。極端な場合会員全員が委員になることさえ可能である。」とは清水先生が常に口にされていた言葉であった。また自由立候補制の場合ある特定のグループだけで委員会を占拠されるかもしれないという危惧に対しては清水先生はそれが予想される場合はそれに対抗する立場の者がどしどし立候補すればよいといっておられた。これは清水先生としては立候補者の氏名は公開されてあるべきものというお考えであったものと推察され、後年立候補者名は非公開とすべきであると言われた会長があったが、そういわれた主旨は清水先生のいわれた主旨と視点が異なっていたとはいえだいぶ異なった意見といわざるを得ない。

自由立候補のあと、立候補した者の相互の適任投票と全会員からの信任を得るための形式的な手続きとを必要とはするがそれらにより拒否された例はこれまで皆無であり事実上立候補しさえすれば誰でも委員になることができた。(もっとも適任投票の際(否)が過半数にあと1票で達するというきわどい例が1947 年に1回あったがこの人は辞退し、また、1965年には適任投票に付す前に明らかに不適任と思われる者が立候補したことが問題となり、委員会で除名されたという例があった。)形式的とはいえ委員からの信任を求めるのは委員としてであって、委員長は委員相互の投票で決め他の特務委員は委員長の指名だけで決められることになっていた。従って委員長はじめ特務委員は全会員の付託を負う者でないので常に全委員の意向を聞いた上でないと行動がとれないという一面をもっていた。1970年にこの制度は一部分変更されるに至ったがそれについては後で述べることにする。

▲ページのトップへ戻る

物理学会時代 その2

これらの定款、細則は設立総会で承認されたが正式に社団法人として認可されたのは1947年9月26日のことであった。文部大臣の認可を得るためには理事は是非無くてはならない役員であるので「特務委員を法定の理事とする」という一条が必要であったし、理事の数も当初は4名として認可を求めたがそれでは少ない過ぎるというので文部省の指示で応急に4名追加させられた。社団法人になるにはある程度の財産が必要である。数物学会から承継した日立製作所株式、田中館資金、四分利公債などを基本財産とし、会員から集めた会費も含めて法人を認可してもらった際の物理学会の資産は100,808円28銭であった。設立の年(1946年)の会員の会費は後半期だけで30円、翌年は前半期40円、後半期100円、計140円で職員は翌1947年3月に山里健氏が入って来られるまで望月一人であった。この年には会誌も Journal もそれぞれ Vol.1 1冊ずつを出す予定であった。また、この年に物理学会としてではないが私の手許で日本数学物理学会誌の終刊号というものを1冊発行することにした。中身は戦争で出版を停止したあと解散に至るまでの数物学会の例会、支部例会、分科会等の記録や理事会、評議員会の記録と数物記事第26巻の牽引とであった。上記3冊とも出版は遅れて翌1947年6月にやっと出来上がった。

学会設立後会員の登録を始めた。元数物学会会員であった者は登録するだけで無条件に物理学会会員になることができた。設立当初の会員数は1,253名であった。会員番号を設けたのは翌1947年に入ってからでそのとき在籍の会員を五十音順に並べてから連続番号をつけた。五十音順といっても漢字の並べ方によって順序が違ってしまう。阿、安……と並べたので阿阪三郎先生が1番ということになった。アラビア数字のあとにAのついた番号の会員がいるがこれは最初に番号づけをしたときには未登録であったがその後あわてて登録された方々を該当の順序のところにつっ込みその直前の会員番号にAを付加したからである。このあとは毎月1日入会申込者を五十音順に並べて連続番号をつけてきた。この作業は山里氏がやられたが後に1952年に山本三三三先生が入会された際偶然にも3,333番という番号がついてしまった。これは事務局のいたずらだろうとよくいわれたが全く機械的な処理の結果であった。因みに山本先生は昭和3年3 月3日生れで三三三という名前がつけられた由である。なお、ついでながら会員番号づけは新入会者について連続的に行うだけで、退会者があって欠番が生じてもその番号は空かしたままにしておくので最新の会員番号が会員数をそのまま表示してはいないということを付け加えておく。

▲ページのトップへ戻る