40年のおもいで3
日本物理学会誌 第30巻 第4号(1975)pp.240-244.より 望月 誠一
1) 第1次制度検討 その1
「物理学会の発足」の項で述べたように物理学会は自由立候補の委員により組織された委員会によって運営されてきた。「特務委員」は定款による制度の上では委員会の手足となって働く存在に過ぎず「特務委員会」は定款、細則上に全く現れてこない。しかし、実際には特務委員が会合して会務運営について協議し、立案し、委員会に諮って実施してきた。設立後数年して武藤俊之助先生が委員長になられた頃から特務委員を正式に持つことになった。ただし、特務委員の権限を拡大したわけではなく1970年に理事会に変更されるまで特務委員会には正式の議事録はなく、事務局に残っているのは私の手記によるメモしかなく、これも文章になっていない断片的なものである。
委員は自由立候補という建前であったが現実には必ずしもそうではなかった。特に東大物理の会員は立候補すると雑務に追われる特務委員に指名される率が高かったため、放っておいても立候補するという人は僅かであった。それでは会の運営に差支えるので立候補勧誘ということを事務局でやらざるを得なかった。また、東大物理以外の機関からも会員の多数居られるところからは委員が出てもらうことが望ましいということもあって委員募集の締切日に近い時期にはそういうところにも電話等で立候補の勧誘を行った。支部には募集時の支部委員長などにお願いして勧誘してもらうのがならわしであった。
委員募集を行って期限までに立候補者数(正しくは立候補者相互の適任投票を経た者の数)が定款に定められた定員に満たないときは委員会はその不足数の委員を推薦することになっており(定款第二十三条)、実際に設立当初の数回はその例もあったが、その手続きをもっとも民主的な方法でとるためには委員募集の締切時期を2ヶ月程は早めねばならず、委員の任期が始まった直後から時期委員の募集を行う必要が生ずるので、なるべくそれを避けるために上記の勧誘ということが必要であった。
第33回臨時総会以後は、事務局で委員立候補の勧誘をすることは禁止されたが、これは学会の運営方針がそれによって左右されることを排除するための処置と思われ正しい方向であるとしても、立候補者数が定数に満たないということは起り得る事態で、そのための手を打つことは今後といえども理事者は念頭においていただかねばならない。
物理学会設立後数年の間はこの組織による運営の仕方は特に問題にならなかったが、戦後の復興の進むにつれて学会の外部から学会に対し諸種の行動を要請されるようになって反省のきざしが見え始めた。
文部省の科学研究費配分委員の推薦、日本学士院会員候補・日本学士院賞候補の推薦、日本学術会議会員や同会議所属の物理学研究連絡委員会委員候補の推薦、朝日賞、朝日科学奨励金(後に朝日学術奨励金)候補・毎日学術奨励金・偕成学術奨励金等候補の推薦、(本多記念賞・藤原賞・東洋レーヨン賞・助成金・松永賞等はもっと後のことであったが)等々の依頼を受けるようになった。
第1次制度検討 その2
機関紙の出版や学術的会合の開催等のサービス的業務を遂行するには自由立候補の委員会がまさにふさわしかったといえるが、上記のような諸件をこのような委員会が取扱うことが適当であるかどうかという疑問が生じて来た。これらの推薦は学会の任務の外であるとして一切断るべきだという極端な意見も無かったわけではないが、他に物理学者の意見をまとめるための適当な組織がないという実情から、学会が何等かの形でこれら多少“政治的”な仕事をも処理せざるを得なかった。処理の仕方として(1)会員全体の投票による、(2)委員全体の投票による等の方法が考えられ、また実行された。(1)の方法は多くの経費を要する点と、全会員が必ずしも十分な判断の資料をもたないために形式だけの民主主義に陥るおそれがあるので常時実施するのには困難があり(事実この方法が適用されたのは学術会議会員候補の選定に限られた。)、(2)の方法は自由立候補制の委員が会員の意志を正しく代表する資格をもち得るかどうかという点に疑義があった。このようなことが委員会でしばしば議論され第二次山内委員会(1953年)においてこれらの問題を検討するための制度検討小委員会が設けられることになり、小谷正雄先生が委員長に指名された。この小委員会は1953年11月以降約2ヶ月の間に7~8回の会議を開いた。その結果、現行の委員会(以下A委員会とよぶ)のほかに、各種の候補者推薦等多少政治的色彩をもち利害関係のからまる仕事を受持つための別の委員会(以下B委員会とよぶ)が必要である。しかし、このB委員会の構成、性格等については幾通りかの方法が考えられる。例えば
甲案 学会の全会員からの直接選挙で委員を選び、任期1年とする。選挙法は専門および地域分布を適当に反映することができるようにし、定員は80名程度とする。
乙案 物理学研究連絡委員会の委員をそのままB委員会委員と見なす。従って、推薦等に関してはA委員会は物理学研究連絡委員会委員に照会を出し、その意見によって候補者は甲案ではB委員会が選定し、乙案では臨時につくる選挙人会(以下B'委員会とよぶ)によって選挙する。B'委員会は研究者の組織と十分連絡をとってA委員会が人選する。
以上の二案のうち特に甲案は物理学会にとってかなり本質的な変革を意味するので小委員会は慎重を期して正式の結論を出されなかったし、本委員会にもそのことが報告された。丁度湯川秀樹先生が委員長になられたときであったが、委員長ご自身もB委員会設置に賛成されなかったので委員会としても甲案を採用するにはいたらなかった(1957年)。この小委員会の審議が進められていた間は賞や奨励金の推薦などは大体乙案によって行われた。また、この期間中に物理学研究連絡委員会委員候補の選挙方法を決める必要に迫られ本委員会から小委員会にその立案が委託され、A委員会委員の投票により100人の選挙人を選び、この選挙人の投票によって物理学研究連絡委員会委員候補者を選ぶという方法が立案され、A委員会で多少の修正を受けて実施された。(この方法は1966年まで続いたが1969年から全会員+学術会議会員選挙有権者の直接選挙に変更され今日に至っている。)
賞や奨励金候補の推薦に関しては上記のように物理学研究連絡委員会委員の意見を聞いて委員会が推薦する方法がとられたが、研究内容の十分な説明や討議がなされないままの機械的な投票であったため、この方法が必ずしも適当ではないという反省の上に立って改めて委員会でこの問題が討議され、このための特別委員会を設けることになり、第125回委員会議(1958年)において「受賞候補等推薦委員会」の設置が決められた。それ以後賞や奨励金の候補の選定は推薦委員会で行い学会員長の名で推薦することになり、政治的な問題が外部から持込まれたときは、学術会議会員候補や科研費配分委員候補の選定などを除いては物理学研究連絡委員会に回すことにして、第1次の制度検討は一応のけりがついた。
2) 東大からの巣立ち
日本数学物理学会時代から引続いて、日本物理学会になってからも約10 年の間は委員長は勿論特務委員も大部分が東大在職者もしくは東大出身者で占められていた。定款・細則上はそういう限定は一切無く、特に物理学会になってからは委員は事実上自由立候補制がとられていて、委員は全国各地から出ておられたにも拘らずこの傾向に変りはなかった。小谷正雄先生はこれを改善すべく大いに努力された。先生が2度目の委員長に就任された1955年に、地方からも委員長や特務委員が出られるようにするために、副委員長を新たにおくことにし、また会議への出席旅費を支払うことを提案され、それが実施されることになった。これによりはじめて地方からも委員長が選ばれる素地ができ、翌1956 年には京都の湯川秀樹先生が委員長に当選された。その後有山兼孝先生(名古屋)、永宮健夫先生(大阪)、友近晋先生(京都)と引続いて地方から委員長が出られて、特務委員も毎年2~3名の方が地方から出られるという慣習が確立した。
しかし、事務所が東大理学部内にあったため学会の運営は実際には東大中心に行われていた。
事務所を東大の外に移す話は久保亮五先生が最初に東大物理の教室主任をなさっておられた頃からはじまった。それは現実の問題として物理学会の占める面積が大きくなりすぎて、理学部の建物増築を提案する際の支障になるという理由からであった。その後久保先生が物理学会委員長になられた時この問題を積極的に取上げられ(1965年)、財政的にもなんとかやってゆける見込みがたったので事務所移転委員会を設けて具体的に引っ越し先を物色しはじめた。数件の候補を検討した後、小石川茗荷谷に建設された共立出版社のビルと現在の機械振興会館とが適当な候補として残った。共立出版のビルは、事務所の面積は80坪ほどあって広く、事務所用だけでなく会員が自由に出入りできるようなサロンも設けることが考えられたが、倉庫面積が小さくまた事務所も構造上床が弱く重量の重い図書雑誌や備品を多量に収容する力に欠けていることが判明したので機械振興会館に移転することにした。この選択の理由のもう一つは共立出版のビルは家主が営利を目的とした私企業であるのに比べ機械振興会館の方は公益法人であるという相違点にもあった。
機械振興会館の方は事務所の面積が約40坪、倉庫の面積が約30坪である。まだ建設中に予約したので倉庫の床は重圧に耐え得るよう補強してもらい、2階建の積層書架を設けて実質的には倉庫は約50坪の実用面積をもっている。ここに移転したのは1966年11月1日であった。図書雑誌の移転は手数がかかったので約1ヶ月後に実施された。
ここに移転した翌年に例の半導体国際会議の米軍資金導入問題に関する第33回臨時総会が開催されたあと、委員に立候補される方々の所属の分布にも変化が生じ東大物理からは極く少数の会員だけとなり、学会の運営は東大物理の先生方の手を離れた。それまで、東大の物理学会などの風評もあったが、それもこれらのことにより払拭されることになった。
しかし、東大物理学教室の会員の方々は数物学会時代から永い間学会をいつくしみ育ててこられた。その献身的なサービスと財政面への寄与(事務所費および人件費を極小にとどめたなど)は測り知れない大きなものであったということを会員の方々は心に銘記していただきたいと思う。
3) 第2次制度検討
事務所の移転を実現させた久保委員長は、それに併行して物理学会の組織運営の制度をも改めるべく制度検討委員会を設けられた。 発想の趣旨は物理学会が当初の少人数の同好会的な集合体から当時 7,000 人を擁する大きな団体となったのでその運営を自由立候補の委員に委ねておくことは適当ではない。何らかの方法で全会員から選ばれた会長(場合によっては理事も)によって運営されるべきである、ということであった。もう一つの動機は、その2年程前から、米国物理学会と日本物理学会の共催による Honolulu Meeting が計画され1965年に実施されるに至る間の学会委員会の意思決定の困難さにあったといえる。
この委員会で出た意見の主なものは普通の学会で行われている理事会と評議員会の形式をとり、評議員は機関または地方を代表する代議員的なものとし、理事会は理事全員もしくは会長を全会員の投票で選ぶ。理事は継続制の点から副会長が翌年に会長になることが望ましく、そのためにはむしろ会長選挙でなく、副会長を選挙してはどうかという意見も出た。ただし、理事半数交代制をとるならば半数は前会長の指名した理事が残ることになり会長はやりにくくなる。この難点はどう解決したらよいか等々であった。
結局久保委員会の期間中に結論が出ないうちに次期委員会に引継がれ、次期委員長がこの問題に積極的な態度をとられなかったため各検討委員の意見の羅列という報告をして、この委員会は解散してしまった。
4) 第3次制度検討 その1
第33回臨時総会後2期目の委員長になられた小林稔先生は前期伊藤委員会に引続き決議3の解釈とそのための学会の運営方針の検討に頭をなやまされた。小林先生は第2次制度検討委員会の際も副委員長としてこれに加わっておられたので、会員の意志を十分に反映できる組織でない自由立候補した委員により構成される委員会がこのような学会の基本的な方針を審議し、決定することに非常な疑問をいだかれ、何らかの方法で全会員から選出された会長とそのスタッフである特務委員会(むしろ理事会と呼んだ方が適当であるような権限を備えたもの)が必要であることを痛感され、制度検討委員会を設けられた。
この検討委員会では数回の討議の結果、1)現行の手直し案(以下a案とよぶ)と、2)抜本的な改革案(以下b案とよぶ)の2案を立案した。甚だ重要な問題であり、会員にその内容をよく知ってもらい、会員の意見を知る必要があるので、この問題に関する座談会を開催して、その記事を会誌にのせた。(会誌 24(1969)542~554参照)。a案、b案の内容についての詳細はこの記事の最後に出ているのでここにはその大要だけを記すことにする。
b案では委員会に代って会員からの直接選挙による評議員会を設け、評議員会には互選による議長をおく。評議員会とは別に理事会を設け、理事会には会長を含めて12名の理事をおき、会長は会員からの直接選挙で選び、他の理事は会長が指名する。評議員会は会の運営に関する重要事項を審議するため年6会程度開催し、出席して討議することを原則として委任状は認めない。理事会は毎月開催し、理事は会務を処理する。評議員会と理事会との唯一のつながりは会長選挙に当って評議員会で会長候補3名を選び、これを全会員の投票の際に示すということだけであり、理事会と評議員会との対立を生ずることも起り得る。a案は、現行の委員会制度のすぐれている点―各委員が束縛されることなく十分意見を述べ、自由に意見を調整し得る―すなわち自由立候補制を残すが、会長は何らかの方法で全会員から選出されたものであることがその責任を遂行する上で望ましい。また、特務委員会を理事会と改称し、理事は会長の指名による。会長の選出に当っては委員の互選による会長候補3名を選んで会員に通知する、というものである。
この座談会での発言などを参考として改めて制度検討委員会で検討しなおした結果、b案を採用した場合、結論を出しにくいような問題でも評議員会で投票で速決してしまうとか、各評議員がグループの代表として出てくる場合が多い見込みなのでその評議員個人の自由な意見を出しにくいということになりかねない。十分な時間をかけて自由な討論を重ねることができ、それで結論が出ないような問題については無理な結論は出さないでおく、という現在の委員会制度の方が better であるという考え方に傾き、委員会にもそのように報告することになった。本委員会ではこれを受けて討議した結果a案を採用することに決まり、総会の承認を得て定款を改正し、文部大臣の許可を得て1970年から実施することになった。
第3次制度検討 その2
この検討委員会でも、本委員会でも理事は会長の指名だけで決めることになっていたが、このための定款変更を文部大臣の認可を求めた際に文部省から理事も全会員から選ばれた形にすべきだといわれ、会長が理事候補を指名した後、その氏名を全会員に会告して会員の10分の1以上から異議の申立てを受けなかった者を理事とすることに変更した。
この制度変更によって委員会は審議機関、理事会は執行機関としてはっきり権限が分離され、従来の特務委員会のようなあいまいな存在ではなくなり、すっきりしたといえる。このようにして会長、理事とも全会員により選ばれることになり会務運営に自信を持って対処できるようになった。
しかし、この度の制度変更も、委員会重視の従来の方針から飛躍的な転換を行ったわけではなく、委員会の権限には全く手をつけずに、従来どおり、「1)定款と細則に定められた審議事項 2)総会に提出する議案 3)学術的会合の計画 4)刊行物の編集方針 5)その他委員会や一般会員から提出された議案」を審議事項として定款第三十六条に規定されているのに対し、理事会では、定款第三十八条に「1)委員会議に提出する議案 2)委員会から委託された事項」の2項目が掲げられているだけである。しかもこの第2項が現実には実施されておらず理事会は委員会への提案事項を決めるという従属的な機能を果しているにすぎない。
このことは定款変更を文部大臣に認可申請した際、文部省から指摘され理事会の権限を強化することを次に定款を変更する際には考慮するよう要請された。実は、委員会の権限を特務委員会に委譲することに関してはこの制度変更以前、第2次高橋委員会(1967年)時代に一度試みられ、それまでに委員会議の審議事項となった案件を洗いざらい拾い上げその中で特務委員会で処理して差支えないと思われるものを選択し、委員会の回数を減らすことを考慮し、実施に移したことがあった。しかし、それも数回に過ぎずその直後半導体国際会議に米軍資金が導入された件が問題となり、これがきっかけとなって元のやり方に逆戻りしてしまった。
このことは永い間の物理学会の伝統である民主的運営方針の現れであって、そう簡単には変更できないことかもしれない。
普通の学会ではたいがいのことは理事会だけで済み評議員会は年に2~3回、それも形式的に開催される程度である。これに反し物理学会では委員会を毎月開催し、しかも、そこへの提出議案には詳細な説明と資料をつけ開催通知と同時に発送し、前回決議録をも同封して、それぞれに対する意見を書面で求めるという丁寧さである。そのため私の在職中は、理事会、委員会議のための仕事で勤務時間の大部分を割いてきたといえる。
あとがき
伴野会誌編集委員長から、昨年の1月18日付で会誌に何か書くようにとのご依頼を受けました。生来の遅筆と新しい職場に就職したためつい延び延びになって今日に至りました。
会員の皆様にとっては、私自身が個人的に接触した会員の方々の印象記的なものの方が面白かったかもしれませんが、記憶力の甚だにぶい私には具体性のあるものはとても書けそうになかったので会の事業を主としたこのような内容のものになってしまいました。そのため当然書かれるべき方々のことなどの脱落も多く、その点お詫び申上げなければなりません。
財政の問題、事務局の問題その他まだまだ書くべき事項は沢山残っていますが、執筆を依頼されたときの枚数をはるかに越えて約2倍にもなってしまい、これ以上貴重な誌面を占めて失費を増すべきではないと考え筆をおきます。
どうも永い間勤めさせていただきまして有難うございました。私の在職中は種々な手落ちがありましたにも拘わらずまがりなりにもその任務を果たすことができましたことは、歴代役員の諸先生方や会員の皆様のご指導ご鞭達と、職員の皆様方のご協力のお蔭でありました。まことに有難く、深く御礼申上げます。また、退職に際しまして850名にものぼる会員ならびに職員有志の方々から多額の慰労金をお寄せいただき、また記念パーティーまで開催していただきましてまことに身に余る光栄と存じ感謝しております。
私は物理学会退職後2ヶ月ほどして日本分光学会に就職しました。週3日程度勤務するかたわら年来の願望でありました哲学の勉強を続けたいと思っております。
会員ならびに職員の皆様もどうか健康にご留意の上ご活躍願い上げます。