PTEP 2020年12月号の特集論文
非エルミート量子力学の潮流
大学の量子力学の講義では、我々の観測するエネルギーが実数だからハミルトニアンはエルミート演算子でなければならないと習います。しかし、エルミート演算子であることそのものはエネルギーが実数であることの十分条件に過ぎず、パラメーターの領域によっては非エルミート演算子でも全ての固有値が実数になることがあります。
近年、非エルミートなハミルトニアンを扱う「非エルミート量子力学」の研究は様々な観点から注目され、大きな潮流となりつつあります。その流れはおおよそ三種類に大別されます。一つは閉じた非エルミート系の研究、一つは無限大エルミート系の部分系としての非エルミート系の研究、一つはエルミート系を調べる道具としての非エルミート系の研究です。
一つ目の潮流は挑戦的です。宇宙はそもそも非エルミート系であり、たまたま固有値が実数のパラメーター領域にあるという立場で閉じた非エルミート系を調べる研究です。このような系の研究は主にCarl Bender氏によって推進されてきました。Bender氏は「エネルギーを実数とするためにエルミート性を要求するvon Neumannの立場は数学的過ぎる」「より物理的な要請からエネルギーの実数性を導くべき」と主張し、1998年にその物理的要請の候補としてPT対称性を提唱して量子力学の再構築を試みてきました。ここでPはパリティー反転演算子、Tは時間反転演算子です。そのような理論研究の一方で、広く実験や応用研究も進んでいます。
二つ目の潮流は「開放量子系」と呼ばれる系の研究です。宇宙全体のハミルトニアンはエルミート演算子であるとしても、その部分系を記述する有効ハミルトニアンは一般に非エルミート演算子です。なぜなら、部分系が外側の環境系と確率をやりとりするため、部分系内の確率は保存しないからです。歴史的には20世紀半ばに、原子核崩壊を有効的な複素ポテンシャルで表現しようとした光学模型があります。Feshbachは光学模型の複素ポテンシャルを理論的に導きましたが、その内容は今日の言葉で言えば開放量子系の研究と呼ぶべきものです。開放量子系は実験で最も実現しやすい非エルミート系で、PT対称な非エルミート系も実験は開放量子系で行われています。
三つ目の潮流は、エルミート系を敢えて非エルミート化することによって、その極限であるエルミート系の性質を知ろうとする研究です。これは実数と虚数の関係になぞらえるとわかりやすいでしょう。虚数は「想像上の」実在しない数ですが、虚数を導入する事によって実数の理解が深まったり、実数の計算が簡単になったりします。それを演算子のレベルで行うのが、エルミート演算子の非エルミート化です。実在しない非エルミート系がエルミート系の理解を深める場合があるのです。例えば、筆者が共同研究者と行った1996年の研究では、ランダムなエルミート系のアンダーソン局在における固有関数の局在長を、非エルミート化した系の複素固有値分布と関連付けました。
以上のように、複数の流れが互いに絡み合いながら「非エルミート量子力学」は進展してきました。Progress of Theoretical and Experimental Physics (PTEP)の特集「非エルミート量子力学の潮流」では、それら複数の流れの研究を重層的に集め、発展中のこの分野を見通しました。この特集が刺激となり、国内外でさらに新しい流れが生み出されることを期待しています。
原論文は以下よりご覧いただけます
Trends in Non-hermitian Quantum Mechanics
Prog. Theor. Exp. Phys. 2020 Issue 12 (December, 2020)