会誌Vol.75(2020)「新著紹介」より
このページでは、物理学会誌「新著紹介」の欄より、一部を、紹介者のご了解の上で転載しています。ただし、転載にあたって多少の変更が加わっている場合もあります。また、価格等は掲載時のもので、変動があり得ます。
基礎から学ぶファインマンダイアグラム;具体例から身につける計算手法
柏 太郎
サイエンス社,東京,2018,v+213p,26×18 cm,本体2,407円(SGCライブラリ-144)[大学院・学部向]ISSN 4910054701289
紹介者:長尾桂子(岡山理科大)
ファインマンダイアグラムとは粒子の散乱過程を図示化したものであり,素粒子原子核,物性分野などで場の理論の摂動計算に多用される.この図にラグランジアン密度から得られる因子を対応させる規則(ファインマン則)を適用することによって,散乱行列要素の摂動計算を手軽に行うことができる.本書は場の理論の専門家による,ファインマンダイアグラムに特化した教科書である.主な対象として,学部上級から大学院の学生を想定している.場の理論の一般的な教科書では,ファインマンダイアグラムを用いる計算に辿り着くまでに長い道のりが必要なことは,その手の教科書に触れたことのある方なら同意していただけると思う.本書は手短にファインマンダイアグラムの計算に習熟できるよう構成されている一方,その基礎となる摂動論の考え方や演習なども手厚く解説されている.本書の特長として,1.初学者が必要最低限の知識でファインマンダイアグラムの計算を習得できるよう構成されていること,2.伝統的な摂動計算との比較によってファインマンダイアグラムを用いる方法の簡便さが明確にされていること,3.よく知られる散乱過程の計算に留まらず,広い領域でファインマンダイアグラムが有用であることが特記されていること,という3点が挙げられよう.限られた紙面の中で,他書では扱われない点も含め多くのことを読者に伝えたいという著者の気概と工夫が伺われる.
そのような著者の意図を反映して,本書は独特な構成となっている.まず量子力学のブラ・ケットを用いてファインマン核に対する摂動計算を行った後に,ファインマンダイアグラムを用いても同様の摂動計算を行えることを示す.一般にファインマンダイアグラムの活躍の場は粒子の散乱過程の摂動計算であるが,本書ではファインマンダイアグラムがより広い領域に対して有用であることを示すため,議論の導入に散乱過程ではなくファインマン核を用いている.量子力学のファインマン核に対してダイアグラムの概念が導入されることにより,場の理論の詳細に踏み込むことなくスムーズにダイアグラム計算に取り掛かれる.ファインマン核が統計力学における分配関数と関係していること,ファインマン核から波動関数や基底状態が議論できることからも,統計力学や量子力学を学んでいる学部生には類推しやすいと思われる.具体的なポテンシャルの形を仮定して2ループ,3ループなど高次の摂動計算にも習熟した後,最終章では定番の場の理論におけるダイアグラム計算を扱う.高次の摂動計算は,解説を読みながらじっくり計算すれば辿れることと思うが,初読の際はいったん飛ばして先に進んでもよいかもしれない.ダイアグラムを用いる方法と同様の計算を伝統的な摂動論で行う方法は付録にて議論されており,見比べることでダイアグラムを用いる方法の簡便さが理解できる.汎関数を用いるファインマン則の親公式,経路積分の導出についても付録で改めて解説されているので,初読の際は見通しよく読み進められる一方で,興味があれば付録で導出をしっかり追うこともできる.
独創的な構成とともに本書についてもう一つ特筆すべきは,初学者への温かい配慮が行き届いていることである.第一章はまるごと量子力学に費やされている.基礎的な用語や物理量であっても既知のものとせず解説してあるため,量子力学を勉強したばかり,あるいは勉強中の学部生でも読み進めやすいだろう.場の理論が必要になる後半も特殊相対論のまとめから始まっており,必要最低限の知識を本書内で補完しつつ読み進められる.本文中の例題,章末の演習問題は豊富で,自分で手を動かしながらダイアグラム計算に慣れることができる.特に章末の演習問題は,解答だけが簡潔に記されている教科書も多いが,本書では巻末に35ページを割いて詳細な解説がなされている.多くの教科書では「グラフの対称性から」の一言で済まされる対称因子の計算も,場合の数の復習から丁寧に説明される.以上のように,計算に慣れたい大学院生はもちろん,独学で勉強したい学部生や,初学者だけでの自主ゼミなどでも取り組みやすい教科書と言える.本書ではゲージ場については付録での紹介に留めてあるが,まずは本書でクライン・ゴルドン場やディラック場の摂動計算を理解しておくことで,将来的にゲージ理論で同様の計算を行う際の準備を固めることができるだろう.本書は学部生を始めとする初学者に優しい構成であると述べたが,いわゆる王道の場の理論の教科書を一通り終えた後により深く学ぶための2冊目や副読本としても役立つと思われる.摂動論やファインマンダイアグラムという同じテーマに対しておそらく1冊目とはまったく異なる視点からのアプローチがあり,多面的に理解を深めることができるだろう.
(2019年6月8日原稿受付)
物理の見方・考え方
江沢 洋,上條隆志編
日本評論社,東京,2018,viii+330p,21×15 cm,本体3,500円(江沢洋選集第I巻)[広い読者向]ISBN 978-4-535-60357-8
紹介者:並木雅俊(高千穂大)
本書は,江沢洋先生がこれまで執筆された論説,解説,エッセイなどの選書第Ⅰ巻である.第Ⅰ巻は3部構成で,1976年から2010年までの19篇の論説が掲載されている.初出は『数理科学』と『数学セミナー』が12篇と多くを占めており,他は『日本物理学会誌』,『大学の物理教育』,『自然』,『固体物理』に各々1篇ずつである.江沢先生には数多くの著書があるが,この選書は単行本そのものからの採録はなく,上條さんの解説によると「入手可能な論考以外のいろいろな雑誌の求めに応じて発表された論文・エッセイ,座談会,講演(録)などを集めて構成したもの」である(単行本の序文・解説文は収録対象になっている).それにしても,数も量も多く,ただただ驚くばかりである.まさに,書く人である.
第1部 次元と対称性は,「パリティの問題」「対称でないものは基本法則でない」「なぜローレンツの力は速度に垂直なのか」「物理量ノート」「1, 2, 3.99...,∞次元の物理」「光速c」「いまや時間はミクロである」の7篇からなる.いずれも内容(江沢論理?)に引き込まれていき,熟考の時間を与えてくれ,「高校生レベルなら十分に読み進められる」との上條さんの解説のとおりである.対称性といっても,群論を使っての話ではない.群論を知らなくても,問題のありかがわかり,考えることに参加できるようになっている.物理には,万人を熟考させる幾何のような要素があることを再確認できた.物理の自由さと楽しさが伝わってくる.
第2部 古典力学の世界は,「ニュートンは何を見たか」「高校物理に微分積分の思想を」「力とは何か」「自動車を走らせる力は何か」「世界像を組み上げてゆくために」「海王星大接近の力学」「小谷-朝永のマグネトロン研究」「最小作用の原理」の8篇からなる.主に,力学分野での議論であるが,第1部とは,きちんと棲み分けされている.これら8篇すべてではないが,ここには歴史的観点での考察がある.ご存知のように,ニュートンは流率法と求積法の考案者であるが,『プリンキピア』は,ユークリッド『原論』を範としていることもあり,容易には読めない.しかし,逆2乗法則の導出,ケプラーの法則をホドグラフで読み解くなどの江沢先生の筆によるとすっきりしてくる(おかげで,『チャンドラセカールの「プリンキピア」講義』が読みやすくなった).しかしながら,「小谷-朝永のマグネトロン研究」を掲載した理由がわからない.これは物理学史として意義ある稿であるが,力学的自然観で編んだ第2部にすんなりと馴染まない.それに,電磁場中の電子の集団運動を問うているため,高校生レベルでは読み進むことはできない.
第3部 ブラウン運動と統計力学は,「統計力学へのアインシュタインの寄与」「ブラウン運動と統計力学」「ブラウン運動とアインシュタイン」「ランジュバン方程式のパラドックス」の4編からなる.1つめと3つめはアインシュタイン年(2005年),2つめはアインシュタイン生誕100年(1979年)のときに,おのおの異なるところに掲載された稿であるが,内容につながりがある.これら4編を続けて読めるようになったことは嬉しい.
全体を通じて,江沢先生は碩学の人なんだなぁと思った.
現在,多くの大学での講義は,辞書にある「学問研究の一端を講ずること」ではなく,担当科目の内容の理解を深めるよう努め,学生のつまずきに気づかなくてはならない授業となった.講義を受け持つ先生方が質の高い授業を目指すための書としてだけではなく,じっくりと考えることの好きな生徒や学生にも薦めたい選書である.
(2019年6月3日原稿受付)
重力波の源
柴田 大,久徳浩太郎
朝倉書店,東京,2018,viii+212p,21×15 cm,本体3,400円(Yukawaライブラリー1)[大学院向]ISBN 978-4-254-13801-6
紹介者:鈴木英之(東京理科大理工)
2015年のAdvanced LIGOによる重力波の初観測により幕を明けた重力波天文学は,いきなり宇宙の理解を深める貴重なデータを続々と提供してくれている.本書は,数値相対論の第一線を牽引する研究者による重力波源と重力波の理論・観測の解説書であり,まさにタイムリーな書籍と言える.
そもそも宇宙物理は,さまざまな基礎物理を組み合わせた総合科学的な側面をもつ分野であるが,現時点で観測されている重力波の源である高密度天体の形成,進化,ダイナミクスには,自然界の4つの力すべてが関与し,その理解には豊かな物理的な知見を要する.本書は,頁数の3分の1をそのような準備に当て,中性子星,ブラックホール,重力崩壊型超新星爆発,ガンマ線バースト,重元素合成(r過程)について要点を簡潔に解説している.非常に豊富な内容を含むので,初学者は書中で紹介されている文献を参考にする必要はあるだろうが,重要なエッセンスをスマートに整理してある.
続く2章,3章では,重力波の理論と観測方法について,数式も用いた解説がなされている.重力波の基本事項の導出の流れや,3台以上の重力波天文台ネットワークの重要性などが,簡潔に説明されている.重力波理論の詳細や著者の名前が冠された数値相対論の標準的な定式化BSSN形式について,他の専門書を参照するようになっているのは,頁数の制限からやむを得なかったのであろう.観測方法については,現在稼働中あるいは調整中の地上レーザー干渉型重力波望遠鏡に加え,人工衛星を用いたレーザー干渉計,パルサータイミングアレイや宇宙電波背景放射の偏光観測計画などの紹介も行われている.
4章,5章では連星ブラックホールの合体と中性子星連星の合体に伴う重力波について,理論研究の成果と実際の観測データの解析が解説されている.特に中性子星連星の合体は,重力波だけでなく電磁波での観測も行われ,高密度物質の性質や重元素合成といった周辺分野へのインパクトも大きかった.もともと中性子星連星合体の研究で世界をリードしてきた著者らの研究成果も紹介されている.2019年春から再開されたAdvanced LIGO+Virgoの観測では,連星ブラックホール合体に伴う重力波が日常的に観測されているようで,KAGRAの観測も加わってこのパートの研究が急激に進むと思われるので,数年後本書の改訂版が出ることがあれば喜ばしい.大質量星の重力崩壊や低周波の重力波源に関する6, 7章に続いて,将来の展望によって本書はまとめられている.大学院生や周辺分野の研究者が,専門書で深く学ぶ前のガイダンスとして,あるいは一通り学んだ後に全体像を整理するのに役立つ良書であると思う.
(2019年6月12日原稿受付)
Plasma Medical Science 1st Edition
S. Toyokuni, Y. Ikehara, F. Kikkawa, M. Hori, Eds.
Academic Press, Cambridge, 2018, xix+438p, 24×16 cm, $150.00[専門向]ISBN 978-0-12-815004-7
荒巻光利(日大生産工)
低ガス圧下で生成される非平衡反応性プラズマによるエッチングやデポジションといったプラズマプロセスは,過去数十年にわたって半導体製造に利用されてきた.その間,半導体の微細化・複雑化に伴う要求の高度化とそれに応えるための反応性プラズマの理解と制御性の向上が進み,近年では原子層レベルの加工制御がなされる等,極限的な領域に到達している.近年,大気圧下で非平衡反応性プラズマが生成されるようになり,プラズマと生体の相互作用を利用したバイオ応用が盛んに研究されるようになってきた.私自身はこの分野の専門家ではないため誤解があるかもしれないが,プラズマの生体への応用研究が開始された当初は,プラズマプロセス等の研究者が,物理的なバックグラウンドに基づいて反応性プラズマを生体に応用し始めたと思っていた.しかし,生体とプラズマの相互作用は,物理的な視点からだけでは理解が難しいことが次第に明らかとなり,生物学,医学の専門家との共同研究が進められ,この10年弱の期間で加速度的に発展している.このように,プラズマ医科学は学際的な学問分野で多くの研究者の協力のもと進められており,本書においても,主に国内の100名を超える著者が各専門分野について執筆している.まず,第1章では,プラズマ科学と医科学の融合に関する導入として,この分野がプラズマ源の開発,計測技術の開発,分子生物学に基づく現象の解明,そして前臨床研究が一体となって発展してきたことが述べられている.第2章では,大気圧プラズマ源,光学的および電気的測定法,大気圧プラズマの生体応用で重要な働きをする酸素ラジカルおよび窒素ラジカルの生成,液体や生体との相互作用,活性種の拡散等,大気圧非平衡プラズマの物理化学的な基礎についてまとめられている.特に測定法に関しては,大気圧プラズマに対して利用できる方法が一通り解説されており,これからこの分野への参入を考えている研究者に大変参考になる内容になっている.第3章以降にプラズマと生体のさまざまな相互作用について示されている.第3章では,活性種がDNA,たんぱく質,ウイルスなどへ容易にダメージを与えること等が実験結果とともに示されている.第4章では,プラズマや活性種と細胞膜の相互作用とそれによる粒子輸送の促進について述べられている.プラズマによる刺激がトリガーとなって細胞膜が外部から物質を取り込む現象など,興味深い内容が解説されている.第5章ではプラズマによるがん治療,第6章ではプラズマによる血液凝固(止血)について触れ,プラズマを応用した再生医療の可能性に言及している.第7章では,プラズマの臨床応用に向けた安全性の確保について述べられており,最後の第8章で,プラズマ医療の将来展望について述べて本書を締め括っている.
以上のように,本書はプラズマ医療に関連する物理化学的な基礎から医療応用までを幅広く網羅した内容となっている.また,各章には豊富な参考文献も示されており,この分野に新たに参入を考えている研究者のリファレンスとしておすすめの一冊である.
(2019年6月4日原稿受付)
Matrix Models of String Theory
Badis Ydri
IOP Publishing, Philadelphia, 2018, xiii+403p, 26×18 cm, $159.00[大学院・専門向]ISBN 978-07503-1724-5
東 武大(摂南大理工)
超弦理論は今や重力も含めた統一理論の有力な候補の一つとして揺ぎ無い地位を占めている.これまでにも多くの超弦理論の教科書が出版されているが,本書はタイトルが示す通り,超弦理論の非摂動論的定式化としての行列模型の基礎,及び近年の研究成果について詳しく解説したものである.
本書の構成はPart I(1~5章)とPart II(6~8章),そしてAppendix Aに大きく分かれる.Part IIに相当する内容はarXiv:1708.00734 [hep-th]で公開されているが,本書はこれに加えてPart I及びAppendix Aを加筆したものである.
Part Iは超弦理論の基礎的事項を扱い,多くの超弦理論の教科書と同じくボゾン弦の正準量子化,経路積分,共形場の理論を議論して,それらを踏まえて超弦理論について解説している.一部の演習問題には,途中の計算を追い易いように丁寧に解答が記述されている.例えばボゾン弦を光円錐ゲージで量子化した際のローレンツ不変性から,時空の臨界次元が26次元であることを導出する,あの長くて煩雑な計算もきちんと数ページ割かれている.こうした記述は知識を整理する上で有用であると思う.
本書のメインといえるのはPart IIの部分であり,超弦理論を表すBFSS及びIKKT行列模型の基礎的事項から最新の研究成果に至るまで詳しく解説されている.近年の行列模型の数値的研究の成果は様々なものがあるが,その一つに私達の住む(3+1)次元時空の力学的生成の問題が挙げられる.この問題に関して,2011年にKim,西村,土屋がローレンツ時空上でのIKKT模型の数値計算の手法を開発し,9次元空間のうちある時刻を境に3次元空間が膨張することを示した.本書ではこのような最新のトピックについても詳細に解説されている.
また,BFSS及びIKKT行列模型の数値計算のアルゴリズムについて解説されている50ページ余りのAppendix Aも,本書の大きな特徴と言える.これ等の行列模型をコンピューターでシミュレーションする際には様々なテクニックが必要であるが,初学者が教科書や論文で学ぶ上では敷居が高く,最初に何を読めばよいのか分かりにくいものである.本書ではフェルミオンを含まない簡単な場合の分子動力学のコードの書き方から始まって,フェルミオンを積分することで生じる行列式(あるいはパフィアン)を含んだ場合に効率的に数値計算する上での代表的な手法である「有理ハイブリッド・モンテカルロ(RHMC)法」に至るまで丁寧に解説されている.これ等の数値計算の手法は同じくBadis Ydri氏著のarXiv:1506.02567 [hep-lat]でも解説されているが,本書ではBFSS, IKKT模型を対象にして記述が整理されている.数値計算の研究は自分でコードを書かなければ身につかないことも多いが,本書で紹介されているFortran言語のコード例はそうした勉強をする上で大いに参考になるであろう.
以上のように本書は超弦理論を表す行列模型,中でもその数値計算の研究の優れた入門書である.また,著者のBadis Ydri氏は本書の他にも場の理論,ブラックホール,計算物理学など多くの教科書を執筆し,arXivで公開をしているが,総じて教育的配慮が行き届いていると思う.
(2019年6月29日原稿受付)
量子力学;物質科学に向けて
M. D. Fayer著,谷 俊朗訳
東京大学出版会,東京,2018,xv+421p,21×15 cm,本体5,200円[専門・大学院向]ISBN 978-4-13-062617-0
畠山 温(東京農工大工)
本書は,米国化学科大学院初年次レベルの量子力学コースの教科書の邦訳である.原著の出版は2001年とやや古いが,量子力学の基本的な事柄を扱っているため,内容が古びていることはない.日本語訳は自然で読みやすく,さらに訳者独自の注が秀逸で初学者の助けになるため,邦訳出版まで間があったが,日本の学習者にはその分の恩恵があるであろう.
本書は化学結合の扱いは最後の1章だけで,「量子化学」を想像して身構えると拍子抜けする.物理の教科書として全く違和感ない.とはいっても,素粒子・原子核物理指向の教科書でも,最近の量子情報や量子基礎論的な本でもない.それでいて固体物理よりということもなく,扱っている内容はあくまで基礎のElements of Quantum Mechanicsである.その上で本書の扱う題材の特徴を一言でいうと,化学科教授の著書らしく,邦訳で付けられた副題の「物質科学に向けて」が極めて的確であろう.
内容を概観しよう.評者の個人的好みでもあるが,波動関数ではなく,ディラック流のケット,ブラ,演算子を駆使したスタイルに早くなじんだほうが,学習者には量子力学の本質がつかみやすいと思う.本書も最初からケット,ブラが導入され,4章までが基礎理論の構築に費やされる.その一方で,5章からはシュレーディンガー方程式での井戸型ポテンシャルの問題を扱い,ごく初歩の量子力学の内容も丁寧にカバーしている.第6章でシュレーディンガー表示(シュレーディンガー方程式を微分方程式として解く方法)とディラック表示(生成・消滅演算子で解く方法)で調和振動子の問題を解き,7章で水素原子を扱う.ここまでが本書の前半であろう.
本書では一貫して,記述が基本的な概念から丁寧で奥が深く,学習者だけでなく,プロの教員や研究者でも,訳者の言葉を借りれば「まさに眼から鱗が落ちるであろう」.一方で,量子力学を学習し始めた学生が一番最初に読む教科書としてはおそらく概念が少し抽象的で取っ付きにくい.2, 3冊目の教科書として読むのがふさわしいのではないか.これは著者の想定している通りである.
後半の8章からは時間に依存する問題が扱われ,摂動論や変分法の基礎がヘリウム原子への応用も交えながら導入される.その後,輻射の吸収と放出,さらに密度演算子を導入して分子と光のコヒーレントな結合も議論され,この8章から14章までの充実ぶりが,基礎の量子力学を扱う類書にはない最大の特徴であろう.光物性,超高速分光が専門という著者の面目躍如である.そして,終盤の2章で角運動量の一般論と電子スピンが扱われる.最後の1章が共有結合(水素分子)である.散乱理論は扱われない.
巻末の演習問題にも興味深い話題が並んでいる.解答例はないが,学生にはぜひこれらの問題にも友人とわいわい言いながら時間をかけて取り組むことをお勧めする.
奇しくも,評者はこの書評を書いている2019年度より,物理工学と化学工学の両方を学べる学科に所属することになり,初歩からの量子力学の講義を担当することになった.本書をそこでの学習を終えた学生の次のステップの教科書としてぜひ推薦したい。
(2019年6月30日原稿受付)
電気伝導入門
前田京剛
裳華房,東京,2019,x+204p,21×15 cm,本体3,400円(物性科学入門シリーズ)[大学院・学部向]ISBN 978-4-7853-2923-5
塩見雄毅(東大院総合文化)
本書は,物質の物理的性質において最も基本的といえる電気伝導にフォーカスしたテキストである.電気伝導は言うまでもなく物質の電気的性質を表す言葉であり,どんな物性物理学の教科書にも載っている基本的なテーマであるが,電気伝導にフォーカスした専門書は従前それほどなかったように思われる.通常の基礎的な物性物理学の教科書では1章ないし数章を割り当てて,半古典的な電子の動力学を学ぶのが普通である.一方,本書では,全章を貫き電気伝導を軸として,オームの法則からモット絶縁体,量子ホール効果,トポロジカル絶縁体,超伝導など基礎的な事柄から最先端の話題まで触れられている.言わば,縦の串でなく横の串で物性物理学を解説したとでもいえようか.著者も前書きに語るように,「電気伝導は物性物理学の中で最も派手なアウトプットを有している」わけであり,斬新な切り口で物性物理学の一面を鮮やかに切り取った著者に感服した.まさにありそうでなかった新しいタイプの教科書である.
本書の構成は,8章からなり,第1章の最初で身近なオームの法則を提示することから始まり,うまく流れを作って8章の電気伝導に関する発展的話題までつながっている.第1章の最初に提示されたオームの法則の微視的理解を目指して,結晶のバンド構造やボルツマン方程式等が第2章と第3章で説明される.第4章は交流伝導度の話から素励起の話題,第5章は半導体への不純物ドープと乱れの効果,第6章は電子相関とモット絶縁体,第7章においては雑音等について説明される.アンダーソン局在や近藤効果といった基礎的な物性物理学の教科書では省略されているようなキーワードまで,コンパクトに各章にまとめられている.第8章ではアラカルト的に発展的な話題に触れられている.非線形伝導や,密度波,メゾスコピック系の伝導,量子ホール効果,トポロジカル絶縁体,そして超伝導へと進む.著者は超伝導の専門家であり,銅酸化物超伝導体について説明するくだりは臨場感がある.また,量子ホール効果については,現象の説明に加えて,電流がバルクを流れているのかエッジを流れているのか,という通常の教科書ではあまり明示されていない疑問に正面から答えている.全体として,従前の教科書に倣ったオーソドックスな説明を踏襲する一方で,初学者が疑問に感じやすいポイントをおざなりにしない姿勢が見てとれる.著者の研究者及び教育者としての長年の経験と工夫の賜物であろう.
著者は長らく教養学部の教育に携わっており,大学1年生から大学院生まで多くの学生と向き合ってきた.その経験が生かされ,本書は分厚い本ではないが全体的にエッセンスを丁寧に説明しており,初学者にはわかりやすい内容となっている.一方,後半の各テーマでは初学者には難しい内容を意図的に省いているため,特に8章で触れられている最先端の研究キーワードについては,消化不良の点も感じた.しかしながら,まだ物性物理学を学び始めたばかりの学生が電気伝導を理解するついでに発展的な話題への入口として色々な関連キーワードを知るためには最適な本だと言えよう.特に,電気伝導に関する実験を始めたばかりの4年生や修士1年生にとっては必携の本と思う.
(2019年7月22日原稿受付)
共鳴型磁気測定の基礎と応用;高温超伝導物質からスピントロニクス,MRIへ
北岡良雄
内田老鶴圃,東京,2014,x+266p,21×15 cm,本体4,300円(物質・材料テキストシリーズ)[専門・大学院向]ISBN 978-4-7536-2301-3
開 康一(福島県立医大)
物質の磁気的性質を実験的に明らかにする手法はいくつかあるが,NMRは,物質中の電子が生み出す静的・動的性質を微視的に明らかにすることができる強力な研究手段である.
NMRは1946年に実験に成功して以来発展し,物理学のみならず化学,医学,生理学など多くの自然科学分野で必要不可欠の実験手段となっている.今日ではNMRの適用範囲はますます広がり,新たな測定技術も生み出されている.一方,NMRはその測定手法自体が研究対象となりうるほど勉強することが多い.NMRの研究室に所属する学生には研究対象の物理学の勉強と並行してNMRの基礎を学ぶことが求められている.現在活躍している多くのNMR研究者たちはSlichter著 Principles of Magnetic Resonance(初版はHarper & Row, 1963年,ISBN 978-3-540-08476-1:以下,Slichter本)やAbragam著 Principles of Nuclear Magnetism(初版は1961年,Clarendon Press, ISBN 978-0-19-852014-6)などNMRのバイブルと呼ばれるこれらの教科書およびその邦訳本で勉強したと想像する.これらは優れた教科書であり,出版から長い年月を経た今日においても記述に古さを感じず,大事なことはほとんど記載されている.しかし...もう少し読みやすい,というか,平易な日本語で書かれた実用的な本はないだろうか(と,私は学生時代に思っていた).ここで紹介する本書はその希望に応える書籍の一つである.
本書は共鳴型磁気測定全般の基礎概念の理解と応用展開について書かれている.全7章からなり,はじめに(1章)の後,共鳴型磁気測定の基礎(2章),共鳴型磁気測定でわかること(NMR・NQR)(3章),NMR・NQR測定の実際(4章),物質科学への応用(5章)で,基礎理論,実験手法と解析,装置や測定法,物性研究をそれぞれ解説している.NMRについての記述が多いが,NMRに加えて,共鳴型磁気測定からわかることII(ESR)(6章),共鳴型磁気測定のフロンティア(7章)で,NMRと同じく磁気共鳴型微視的測定法であるESRと,光検出磁気共鳴法やMRI(Magnetic Resonance Imaging:磁気共鳴画像)などの磁気共鳴技術の応用例,をそれぞれ解説している.特に第7章はNMRの背景を持つ人にとって読みやすく記述されている.これだけの内容が本文250ページ余りにおさまりよくまとめられており,著者が前書きに述べた「新たにNMRを始めようとする初学者のみならず他分野の研究者に読まれることを念頭に,連続性を保ちながら平易に記述」されていると感じる.一方,短い記述でまとまって書かれているために詳細に立ち入らない話題もある.より深い理解を得るためには,引用されている参考文献も並行して読み進めるとよい(もちろんSlichter本なども引用されている).参考文献として,今では絶版となり,良い状態での入手が難しいものも引用されている.目的の文献が古い書籍である場合には周囲の年配NMR研究者に尋ねるとよい.絶版本である場合には即座に「絶版本である」と教えてくれるか,または今では貴重となった現物を見せてくれることだろう.
日本語で書かれた固体広幅NMRの教科書としては,朝山邦輔著『遍歴電子系の磁性と超伝導』(裳華房,2002年,ISBN 978-4-7853-2611-1:以下,朝山本)は有名である.朝山本は強相関電子物性研究という特定の研究分野の初学者に対象を絞り,NMRの基礎理論,実験技術,研究例を解説している.本書の著者は朝山邦輔氏とは長年にわたる共同研究者であり,強相関電子物性研究分野で多くの優れた研究成果がある.そのため部分的に重複する内容がないではないが,1)朝山本が強相関系のNMR研究に対象を絞っているのに対し,本書ではNMRのみならず幅広い読者層を想定し,光検出磁気共鳴やMRIなど応用分野も含めて共鳴型磁気測定を解説していること, 2)朝山本出版以降の強相関電子物性研究について書かれている,などの点で朝山本とは異なる読みごたえを感じることができる.
(2019年7月24日原稿受付)
スピントロニクス入門;物理現象からデバイスまで
猪俣浩一郎
内田老鶴圃,東京,2017,x+202p,21×15 cm,本体3,800円(材料学シリーズ)[大学院向]ISBN 978-4-7536-5645-5
中山裕康(物材機構)
スピントロニクスは,1988年の巨大磁気抵抗効果の発見を皮切りに磁気工学,磁性材料学,磁性物理等から派生した,比較的新しい学問分野であり,基礎物理のみならず応用の観点からも盛んに研究が行われている.巨大磁気抵抗効果の発見はハードディスクドライブ(HDD)用高感度読み出しヘッドの開発へと繋がり,HDDの高密度化の道を切り拓いた.この功績により,巨大磁気抵抗効果の発見者であるA. Fert博士とP. Grünberg博士に2007年のノーベル物理学賞が授与されている.本書は,磁性材料,スピントロニクスデバイス及びそれらの示す物理現象について,これまで確立された内容を整理・体系化することで,スピントロニクスの入門書としてまとめられている.このため,スピントロニクスを専門としない方々,もしくは大学院生が初等的な勉強をするのに好適な書物と思われる.
第1章ではスピントロニクスという研究分野がどのような経緯で誕生し発展してきたかが述べられており,この分野が形成された流れとバックグラウンドがつかめるようになっている.第2章,第3章ではスピントロニクスにおいて取り扱われることの多い磁性体の伝導電子の関わる物理現象を理解するために必要な磁性とスピン伝導現象に関する基本的な事柄が解説されている.第4章では磁気センサやHDD読み出しヘッドに利用されている巨大磁気抵抗効果とトンネル磁気抵抗効果について,基本原理から材料,デバイス構造まで記述されている.第5章では,スピン分極率が最大の値を示すことからスピントロニクスのキー材料としての役割を担うことが期待されているハーフメタル,特にフルホイスラー合金の物理的特性と磁気トンネル接合への応用について説明されている.第6章ではスピントロニクスデバイスの開発において必須となっている微小磁性体の磁化反転手法について紹介されている.特に,スピン軌道相互作用を用いた磁化反転手法は,近年スピントロニクスから派生した「スピンオービトロニクス」と呼ばれる研究領域において重要な役割を担うものである.第7章では実際のスピントロニクスデバイスを取り上げ,動作原理,開発動向から課題まで概説されている.最終章では,スピントロニクスの新展開として,スピントロニクスから派生した「スピンカロリトロニクス」と呼ばれる新しい研究領域についての記述がなされており,熱流とスピン角運動量の流れであるスピン流の相互変換を実現するスピンゼーベック効果やスピンペルチェ効果について触れられている.これらの現象がどのようなデバイスに繋がるかについての具体的な記述はなく,現在行われている研究が鍵になっていくものと思われる.今後のこの領域の進展に期待したい.
著者は磁性材料・デバイスの開発に携わってきたスピントロニクスの研究者として知られているが,大学院博士課程までは物理学専攻で理論系の研究をされ,企業では企業的視点から研究開発を行われていたと伺っている.そのため本書は広い視点で書かれており,多くの方々にとって読みやすい本となっている.最初に述べた通り,本書はこれからスピントロニクスの勉強を始めようとしている方を読者の対象としているものの,既にスピントロニクスに携わっている若手研究者であっても,本書に記述されている内容を振り返ることで,今後の展開を考える重要な手がかりが見えてくるかもしれない.
(2019年8月10日原稿受付)
スピンと軌道の電子論
楠瀬博明
講談社,東京,2019,x+260p,21×15 cm,本体3,800円(KS物理専門書)[専門~学部向]ISBN 978-4-06-516997-1
服部一匡(首都大院理)
物質中の電子は,その物質個々の性質を決める重要な役割を担っている.20世紀半ばから今世紀に至るまで,固体の電子論の発展は基礎物理学の範囲を超え,さまざまな分野に波及している.我々が日常的に利用している電子端末などはその典型的な例であろう.
どの分野にも共通するように,長年にわたって蓄積された知の記憶は,現在学び始めようとする学生や研究者にとって,あまりにも膨大であり,ときに絶望感すら漂わせる.それらの中の最重要エッセンスをコンパクトな形で一度に学習できる書籍は,いつの時代にも非常に有用であるように思う.これまでも,固体の電子論についての良書がいくつか世に出ているが,本書は磁気的な性質はもとより,電子の軌道自由度にも焦点を当てたものになっている.著者はその現在進行形のキャリアの中で,量子多体論,多極子・軌道秩序,非従来型超伝導などの幅広い分野で活躍されており,公開している種々の「Webノート」にお世話になった研究者や学生も多数いることと思われる.
本書は大きく二つの部分にわかれており,前半の基礎編(1~4章)と後半の応用編(5~7章)という構成である.初学者が固体の電子論の基本を学びたい場合は基礎編をじっくり読んでもらうのが良いように思う.基礎編とはいえ,内容は細かいところまで手が届く内容になっており,かなり実践的である.その内容を以下に見ていこう.
1章では,第二量子化や線形応答を紹介しつつ,目を引いたのは,始まりが固体の電子論の教科書としてはおそらく異例のマクスウェル方程式であり,続いて静電場の多重極展開になっている.この内容は,応用編に記述されている著者の最近の業績の一つである,物質中の多極子の完全な分類学を強く意識したものと想像され,思い入れの強さが感じられる.2章と3章でそれぞれ局在電子系と遍歴電子系が概観され,4章で磁気秩序についてのストーナー理論やスピン波近似などが紹介されている.
応用編は少し高度な内容と前述の最近の多極子理論の紹介になっており,大学院生以上でこの分野の研究を始めたい人向けになっている.5章の遍歴と局在は,2章と3章のはざまであり,著者の専門とする分野でもある.そこでは,モット絶縁体,近藤効果,量子臨界点の概要がコンパクトにまとめられている.さらに学習したい人はより高度な専門書にあたると良いだろう.6章は微視的多極子の分類学の紹介になっており,電子のスピンと軌道自由度を含めた任意のエルミート演算子が電気・磁気多極子,電気・磁気トロイダル多極子の4種の多極子で展開できることが示されている.最後の7章:空間反転対称性の破れ,では,近年ますます注目を集めている交差相関の物理を,6章で導入した4種の多極子の観点から扱った意欲的な内容になっている.最先端の内容を知りたい研究者にとっても有用な章であると言える.最後に,本書には40ページ弱の付録がついており,パイエルス位相,ベリー位相,チャーン数,ボゴリューボフ変換などの詳しい導出がわかりやすく記載されている.勉強や研究の途中で混乱してしまった時に,本付録を開けばきっと助けになるだろう.
まとめると,本書は超伝導とトポロジカル物性を除いた固体の電子論を系統的にまとめた実践的教科書である.普通の教科書には記載されていないような数式やその導出過程も含めて,幅広い内容をカバーしており,入門書としても最適なものになっている.多くの人に読んでもらい,固体の電子論の面白さを知ってもらいたいと切に願うものである.
(2019年10月18日原稿受付)
ガンマ線バースト
河合誠之,浅野勝晃
日本評論社,東京,2019,ix+288p,22×16 cm,本体3,600円(新天文学ライブラリー第5巻)[専門・大学院向]ISBN 978-4-535-60744-6
久徳浩太郎(京大理)
ガンマ線バーストは宇宙最大の爆発とも呼ばれ広く知られているが,この天体現象に関する専門書は意外に少ない.私見では,洋書を含めても標準的と呼べる書籍は存在せず,勉強の入り口にはレビュー論文を頼ることとなる.その理由の一つにガンマ線バースト,特にその本体と言える即時放射についての確固たる知見があまりに少なく,理論的にまとまった議論をすることが難しいという事情があるだろう.コンパクトネス問題の解決や残光の標準モデルなどの確立した議論からもう一歩踏み込もうとすれば(これらについては本書を参照されたい),多種多様な理論モデルやその限界に直面せざるを得ない.一方,観測結果もイベントごとに多様であり,これらを系統的に俯瞰することもまた容易でない.
本書はその困難に真摯に取り組んだ,おそらく日本で唯一のガンマ線バーストに関する専門書である.まず1章でガンマ線バースト観測の歴史が概観された後に,2章で即時放射の,3章で残光の観測が解説される.本書の山場といえる4章では,これらの放射の理論モデルが詳述される.5章では再び観測に焦点を当てて起源天体が議論され,最後に6章でガンマ線バーストが現在や将来の宇宙論研究にどう役立つかが紹介される.どの章をとっても,とりわけ和書では類似の文献を探すことが難しい,稀有な一冊である.
このシリーズの他の巻にも通じたことであるが,初学者向けとしては幾分敷居が高い印象で,ガンマ線バーストの概略を知る研究者がその機構をより深く理解するためにこそ本書を薦めたい.本書の核心は2, 3章の観測的事実からそれを理論的に解釈する4章への流れであろう.多様な観測や理論モデルが幅広く紹介され,この観測からはそんな示唆まで得られるのか,この理論モデルの背後にはそういう観測的要請があるのか,といった新鮮な刺激に溢れている.しかし同時に,観測の章を読むには理論の,理論の章を読むには観測の,天文学の感覚を含む背景知識がないと,わけもわからず情報の洪水に飲まれてしまうかもしれない.また,4章は物理過程が詳細に述べられていることと引き換えに,中心的なアイデアを大枠で掴むことがやや難しくなっている印象がある.意欲的な初学者が読み進める場合,まずは2, 3章の観測的事実をひとまず眺め,4章を通読し,改めて2, 3章を検討するという使い方が良いのではないかと思う.
他方,(書評者の興味とも関係して)中心エンジンやジェットの物理に関する記述は軽めに感じられた.ジェットの生成・伝播・収束の機構などは様々な原著論文をあたって補完するのがよいだろう.5章で議論されている起源天体自身に興味がある読者には,同シリーズ4の『超新星』(山田章一著)などの併読を薦める.
ガンマ線バースト研究の進展は早く,本書の出版以降もいくつかの目覚ましい進展があった.連星中性子星合体
に伴うGRB 170817Aの後期残光からジェットの存在がほぼ確実になったこと,GRB 190114CからMAGICがTeVに近いガンマ線を検出したことはそれぞれ重要な成果として歴史に残るだろう.また,前者に関係してジェットが角度方向に持つ構造が盛んに議論されるようになってきたが,本書ではいわゆるspine-sheathモデルが簡単に触れられているのみである.これらや将来の研究から得られる知見を含めたさらなる改訂も期待したい.
(2019年10月21日原稿受付)
構造物性物理とX線回折
若林裕助
丸善,東京,2017,vi+280p,21×15 cm,本体3,800円[専門~学部向]ISBN 978-4-621-30195-1
山崎裕一(物材機構)
固体物質を合成する研究者にとって,X線回折は作製した試料の良し悪しを確認する基本的な評価手法である.例えば,粉末X線回折によって結晶構造を同定し,背面照射ラウエ写真によって単結晶の方位を決定し,薄膜試料であればX線反射率によって膜厚を評価するといった用途に使われるだろう.最近では,計測装置の高度化によって計測や解析が自動化・ブラックボックス化し,X線回折の原理を詳しく理解せずとも所望の構造評価はできてしまうようになってきた.しかし,X線回折の計測には注意点も多く,また物性に関連した構造情報も含まれているため,その基本的な原理は理解しておくことが望ましい.X線回折や結晶構造解析の良本は数あるが,その内容は難解なものが多く,初心者にとって読み進めるのは大変である.多くの教科書はブラッグ反射から始まり,逆格子,対称性,空間群,X線回折理論へと展開し,数式や群論記号の連続で頭を悩ませる.また,必ずしも物性現象との関連が記載されておらず固体物理の教科書も併せて読まなければならないことも多い.
そんな中で本書『構造物性物理とX線回折』は,X線回折法による構造物性研究について基礎からわかりやすく説明され,固体物理とX線回折が要点良くまとまっている教科書である.構造物性研究とは,比較的新しい言葉であるが,物質の構造を原子レベルで解明し,巨視的な物性・機能との相関関係を明らかにする研究と言える.多くの物質では周期的に原子が配列しており,X線や中性子線,電子線を使った回折法が構造観測に有効な測定手法となる.本書ではX線回折法による構造評価に着目し,構造物性の基礎とX線回折理論がほぼ独立した二部構成で展開されている.
第一部では構造物性に関連する物性物理の基礎が網羅的に示されている.物質の構造に関する要点がわかりやすくまとめられており,構造の観点から統計力学,量子物理・化学を復習するのに役立つであろう.第1~4章では原子が固体を形成するのに必要な原子間に働く引力の説明から始まり,格子振動に由来する熱的性質,結晶構造とバンド構造,金属-絶縁体転移,磁気的性質など構造と物性物理の関連が示されている.第5章の相転移では数式が増えるものの,構造相転移を理解する上で重要な相関長の議論が丁寧に示されている.第6章では実際の構造物性研究において身近な加圧や化学置換,薄膜化といった摂動に対する構造変化が説明されている.
第二部ではX線回折による構造観測法が解説されている.X線回折を専門に研究されてきた著者らしくX線回折理論の本質が丁寧に示されている.特に第7,8章ではX線の散乱理論から構造因子の計算,ラウエ関数,エヴァルト球による逆格子空間の観測領域,畳み込み積分によるブラック散乱の形状などについて図とグラフを使って明快に示されている.その後の章では,構造解析,超格子反射,表面回折,散漫散乱と展開され,実際の構造物性研究で重要なX線回折法の詳細が示されている.第二部各章でX線回折手法によって議論される物性物理現象が具体例と共に紹介されているのがうれしい.
X線回折と固体物理の教科書は多くあるが,本書のように一貫して構造と物性の相関を意識して説明がなされた教科書はなかったように思う.これから物性研究を始める学部生・大学院生だけでなく,X線回折による物質評価,構造評価を行っている,もしくはこれから行いたいと考える研究者にもぜひ一読することをお勧めしたい.
(2019年11月1日原稿受付)
固体電子の量子論
浅野建一
東京大学出版会,東京,2019,xxii+493p,21×15 cm,本体5,900円[専門・大学院向]ISBN 978-4-13-062619-4
越野幹人(阪大理)
本書は固体物理学の膨大な基礎的内容を1冊で学習できる完結した教科書である.物性系の学生が固体物理を学ぶ場合,「この内容はこの教科書,あの内容はあの教科書」というように,いくつかの「定番」があって,必要なものを読みかじりながら段々と知識を広げていくのが一般的であろう.その結果として,知識が自分の専門分野周辺に偏ってしまう傾向も生じる.一方でこの教科書は,ブロッホ理論,格子振動,線形応答理論に始まり,金属電子論,フェルミ流体論,磁性,超伝導,近藤効果,量子ホール効果,さらに密度汎関数法やトポロジカル物性論の入口に至るまで,現代の固体物理の研究者が知っておくべき内容が系統的に網羅されている.真に驚くべき点は,本書が単なる辞書の範疇にとどまらず,全ての式がこの中で導出されていて,ほかの本を引っ張ってくる必要がないように配慮されていることである.全体の構成は極めて理路整然としており,1-4章までに量子力学,統計力学,線形応答理論等の必要十分な道具立てが準備され,その後の各論に出てくるどの一つの式も,その中から演繹できるように設計されている.各所の計算は,ダイアグラム手法をあえて使わず,学部の量子力学,統計力学,電磁気学の知識で理解可能なものとなっており,かつ,正確性を損なわない範囲でなるべく簡潔に導出するよう配慮がなされている.古くからの有名な教科書と比較しても,ベリー位相や対称性の議論といった,現代の物性物理学で頻繁に使われる内容にも紙面が割かれており,最先端の論文を読む上での橋渡しとなっている.これだけの豊富な内容が,1冊の本の中に矛盾することなく自己完結しているという点で,本書は他に類を見ない.参考文献も非常に充実しており,いわゆる定番の教科書や,より高度な内容を学習するための良書が,系統的に紹介されている.
本書は,学部生や大学院生にはもちろんのこと,研究,教育に携わる全ての職業研究者にも有用であろう.研究するとき,授業を作るとき,または研究室の学生になにかを教えるとき,「あの式はわかっているつもりだったがどうやって出したっけ?」ということは頻繁に起こる.その際,学生の頃の記憶の糸をたどって,どの本に書いてあったかと書棚を漁らずとも,本書を見ればどこかに載っていたりする(しかも正確な導出付きで).また,昨今物性物理学が細分化され,他の分野で何をやっているのかを相互に理解するのが難しくなりつつあるという現状があるが,本書はその知識のギャップを埋める良い「共通言語」となるであろう.一から学びたい学生にも,知識を深めたいプロの研究者にもおすすめできる教科書である.
(2019年11月18日原稿受付)
メタマテリアルのつくりかた;光を曲げる「磁場」とベリー位相
日本磁気学会編,冨田知志,澤田 桂著
共立出版,東京,2019,xii+210p,21×15 cm,本体2,500円(マグネティクス・イントロダクション2)[学部・一般向]ISBN 978-4-320-03572-0
宮丸文章(信州大理)
本書はメタマテリアルの持つ魅力を伝えることを中心としつつ,時空間の反転対称性の破れによる磁気カイラル効果やメタマテリアルによるその効果の巨大化,さらには光におけるベリー位相理論やトポロジカル絶縁体のエッジ状態といった,物理の専門家でも理解が難しい物理現象の本質を「アナロジー」と「多角的視点」により直感的に理解し,かつそれらの思考を"楽しむ"ことを目指した創意あふれる一冊です.
メタマテリアルは近年,世界中で非常に活発に研究・開発が進められている分野ですが,その理由は応用上有用というだけではありません.確かにメタマテリアルを用いた技術開発は非常に有用なのですが,それとともに概念的な面白さがあることが重要です.つまり概念的に"有用"なのです.特に本書で扱われている電磁メタマテリアルは,すでに理解し尽くしたと思われていたけれど実は理解できていなかった,または過去に研究されていたけれどその後忘れられていた,古典電磁気学における種々の問題をあぶり出し,発見と再発見を繰り返すことにより電磁気学の理解をより深いステージに導きました.
その源泉となったのが,本書において筆者らが伝えたいことのひとつであると思われる,現象を多角的に見るという視点です.幾つかの現象がある場合,それぞれを様々な角度から見ることによって,一見異なる現象の間にむしろ共通性を見出し,より一般的な概念を導くことは物理学の重要な目的のひとつです.本書では,例えば光の屈折現象を4つの見方で説明することによって,多角的な視点の例が示されています.一方,2つの球が衝突する現象と光の反射・透過現象とが同じように説明できるというアナロジーの大切さが示されています.このように本書では,多角的視点とアナロジーを用いることによって,ひとつの分野の理解が他の分野の理解にもつながるといった面白さが,モンキーハンティングや量子-古典対応など,多くの事例によって説明されています.
本書の後半では,光と対称性の破れとの関係,光におけるベリー位相理論など,やや専門性の高い内容に触れられています.このような最先端の専門的なトピックを,数式を用いないで伝えるというかなり意欲的な試みがなされているのも本書の大きな特長だと思います.
また本文の間にあるコラムにも注目です.波動や電磁気学において少し曖昧になりがちな内容がピンポイントで触れられています.また,メタマテリアルの有名な論文のちょっとしたエピソードなど,専門外よりもむしろ専門内の方々が興味を持ちそうなことも書かれていましてとても楽しめます.
本書は科学の専門家でない方々をメインの対象にしていますが,それにとどまらず大学や研究所,企業の専門外の研究者,さらには専門内の研究者の方々まで幅広く対象となる,マルチレベルな内容になっています.メタマテリアル分野に限らず,このように概念や考え方に重きをおいた専門書は貴重だと思います.特にこれから物理を学ぶ大学生にはぜひ一読をお薦めしたい一冊です.
(2019年11月13日原稿受付)
スピントロニクスの物理;場の理論の立場から
多々良源
内田老鶴圃,東京,2019,viii+232p,21×15 cm,本体4,200円(物質・材料テキストシリーズ)[専門・大学院向]ISBN 978-4-7536-2314-3
松尾 衛(中国科学院大)
本書は,スピントロニクスを場の量子論を用いて明快かつ見通し良く記述しながら,同時に読者が必要な理論的手法を解説した教科書である.ここで「物理の対象としての視点から」と,本書まえがきに登場するフレーズについて説明が必要だろう.スピントロニクスとは,エレクトロニクスにスピン角運動量の操作を合わせることで,電荷とスピンの制御を行う次世代技術である.例えば巨大磁気抵抗効果で知られるように,新機能デバイス応用が強烈に意識されながら,スピントロニクス研究は進められている.そのため,物理学だけでなく工学や材料科学など様々な領域の研究者・技術者が多角的にその研究に取り組んでいる.その影響からか,スピントロニクスに関する「物理の」論文であっても,正当化が不明瞭な様々な評価式で溢れかえっていることがしばしばある.これでは「物理の対象として」スピントロニクスに興味のある研究者の新規参入障壁が高く,他分野との交流がしづらい.
本書は,同じ著者により執筆され10年前に出版された書籍『スピントロニクス理論の基礎』(培風館,2009,以下前著と呼ぶ)に引き続き,こうした現状の打開策が明快かつ簡潔に展開されている.前著では取り上げられていなかった項目のなかでも特に,磁気的界面におけるスピン輸送現象の一つ,スピンポンピング効果については,これを読んではじめて納得できたと感じられる読者が続出するだろう.
本書の前半では,スピントロニクス理論の概略が,学部の量子力学の知識で学べるようにまとめられている.後半では,量子統計力学の経路積分表示や非平衡グリーン関数法といった場の量子論の手法の基礎的解説と,それら手法を駆使したスピントロニクス理論の解説がなされている.特に,前半部の周到な伏線が後半部の場の量子論的記述で回収される,という構成は,「実際に手を動かして計算する余裕はないが,雰囲気を知りたい」という実験家や,場の量子論の初学者に有用だと感じた.
定評のある場の量子論の教科書の多くは長大であり,あとでどうやって使うのか想像ができないまま説明が続く.また,長い準備段階を経なければ,具体的計算ができるようにならないといった構成に耐え忍ぶ力を要することが多い.もっと簡潔に具体的な物理量の計算方法を伝授してくれる教科書を渇望する声をよく耳にするが,本書はそうした人に適している.ハドロン理論出身の私自身,物性系における非平衡グリーン関数法の計算手法を学ぶのに,前著には大変お世話になったし,研究現場でも重宝している.スピンを媒介とする量子多体現象に興味のある高エネルギー物理分野の学生や研究者が,その概略を学ぶ最初の1冊としても本書は適している.
最後に,本書で良質な場の量子論的手法の入門を終えた読者が次のステップへと進むための書籍として,前著およびAlex Kamenev,"Field theory of non-equilibrium systems"(Cambridge Univ. Press, 2011)を紹介しておく.前著では,非平衡グリーン関数法によるスピントロニクス現象の記述について,より詳細な計算手法を学ぶことができる.研究現場で役に立つノウハウが凝縮された良著である.また,平衡系の経路積分法を非平衡系に拡張できないだろうかと疑問に感じた読者や,本書で扱われていない非平衡現象に対する場の量子論的手法を学びたい読者は,後者に挑戦してみると良いだろう.
(2019年11月18日原稿受付)
量子物理学のための線形代数;ベクトルから量子情報へ
中原幹夫
培風館,東京,2016,ix+207p,22×16 cm,本体3,200円[大学院・学部向]ISBN 978-4-563-02516-8
添田彬仁(東大院理)
本書の前書きには「線形代数と量子力学をストレートに結び付けられることを念頭においてまとめられた書である」とある.物理現象の理解には,適切な数学的知識が要求されるが,数学の専門書は,あまりにも抽象的に書かれているために欲しい定理などが簡単に見付からないことや,または自分が興味ある問題に直接適用できなかった経験がある方は多いのではないだろうか.それに対し,本書は量子系を研究対象とした際に頻出の数学的事実が最短経路で分かりやすく解説されている.
また,前書きには「本書は決して線形代数の入門書ではない」と書いてあるが,全200ページ弱のうち,前半3分の2を量子物理学に必須となる線形代数をほとんど証明を省くことなく説明している.確認できた範囲では行列式の基本公式が列挙されている定理2.3が,証明が省略されていたぐらいである.
たしかに,「ユニタリ行列の3つの定義とそれらの同値性の証明」などは省かれているが,その分「準位反発」や「ラビ振動」に紙幅を割いており,物理学科の学生としては,自分が勉強している数学と物理の関係性が明確になっている.たとえば,準位反発については数学的な議論を展開することで,多くの物理系で成立しうる普遍的な現象であることが分かる.特異値分解にも節が割かれており,入門書ではあまり見られない特異値分解を利用したデータ圧縮法にも言及されている.これらは機械学習にも用いられている数学の基本であり,近年,機械学習が物理研究にも導入されつつあることを考えれば,適切な内容だと思われる.他には,混合状態の記述に必要な密度行列や,多体量子系に対応する合成ヒルベルト空間の数理も扱っている.物理学科の学部生には入門書として十分通用すると思われた.
後半の「応用」の部分では具体的な物理系の解説をするのではなく,量子系に普遍的に成立する事実を解説している.特に,2準位量子系である量子ビットや,多体系の具体例となる複数の量子ビットから構成される合成系に詳細に言及している.量子情報関連では頻繁に「部分系への操作」が登場するが,本書では「部分系への測定」について丁寧な説明がなされている.
また,量子力学特有の性質としてエンタングルメントと呼ばれるある種の相関が挙げられるが,本書ではまず「セパラブル状態」というエンタングルメントが「ゼロ」の状態を定義し,エンタングル状態(すなわちエンタングルメントを有するとみなされる量子状態)を「セパラブルでない量子状態」として定義している.これは量子情報における現代的なエンタングルメントの定義を踏まえたものであり,混合状態にも拡張可能な定義である.最新の量子情報関連の研究を理解するためには必須の知識である.
数学然とした線形代数を学部早期に学ぶ物理に携わる方々にとって,本書のような本に触れる機会は少ないかもしれない.ブラとケットという物理学者に馴染みのある言葉で全てが語られ,上述の重要概念にもページを割く本著は,隠れた名著と言える.学部学生だけでなく,量子力学・量子情報に携わる方にも一読をお薦めしたい.
(2019年11月20日原稿受付)
ディープラーニングと物理学;原理がわかる,応用ができる
田中章詞,富谷昭夫,橋本幸士
講談社,東京,2019,ix+286p,21×15 cm,本体3,200円[専門・大学院向]ISBN 978-4-06-516262-0
野村悠祐(理研)
近年,物理の研究分野においても,「機械学習」というキーワードをよく聞くようになってきている.日本物理学会誌においてもシリーズ「人工知能と物理学」と銘打った特集が組まれている.ただ,物理の研究者の方の多くが,機械学習は物理の研究に有用なのか?どれだけ強力な手法なのか?という疑問を抱いていらっしゃると想像する.
そのような流れで,本稿で紹介する『ディープラーニングと物理学』が出版されたことは喜ばしいニュースである.以下,i)本書の特徴,ii)どんな方にすすめるか?などについて述べたいと思う.
i)本書の特徴
まずこの著書は大きく,機械学習の学理の部分(第1部)と,機械学習の物理への応用(第2部)の2つの部分に分かれている.第1部においては,著者3人が物理研究者という強みを生かし,ニューラルネットワークの導入に統計物理を用いるなど,機械学習と物理の共通点や,機械学習の物理的解釈などについて議論されている.最近,機械学習の入門書が数多く出版されている中で,それらとは一線を画す独自の観点を楽しむことができる.第2部では,著者3人が「Deep Learning and Physics」というシリーズのシンポジウムを主催されていることもあり,機械学習の物理への様々な応用に関する最先端の動向(超弦理論への応用や相転移検出,量子多体状態表現など)が紹介されている.このような専門書はこれまでほぼ存在しなかったので,分野で重宝される専門書になるであろう.
ii)どんな方にすすめるか?
著者も言及されているが,例えばボルツマンマシンがボルツマン分布を使用していることに代表されるように,物理と機械学習は関係性が非常に深い.機械学習がどれだけ強力か?ということを考察するうえで物理的解釈が使えるということは有用であり,物理と機械学習の関係性について勉強してみたいという方に是非おすすめしたい.また機械学習の物理分野における応用の最近の動向を追っておきたいという方にも是非本書を手に取っていただきたい.
一方で,機械学習そのものを知らない,その基礎の基礎を学びたいという方は,他の機械学習の専門書を当たってから本書を読む方がより理解が深まると思われる.また同時に,実際に機械学習を使ってみたいという方には,pythonスクリプトなどを含んだ実習型の専門書(例えば評者は『ゼロから作るDeep Learning―Pythonで学ぶディープラーニングの理論と実装』(斎藤康毅著,オライリー・ジャパン)を所持しているが,これ以外にも良書はたくさん存在する)があるのでそれらを本書と併用して使用するのが良い.
まとめると,本書は,機械学習と物理に関して,物理学の研究者が独自の視点を持って書き下ろした良書である.ただ,機械学習の物理への応用は黎明期にあり,実際のところ機械学習がどれだけ物理研究にとって有用・強力なのか?はたまた逆に物理は機械学習に有用なのか?ということに関してはまだ答えが出ていない.この『ディープラーニングと物理学』を足がかりに多くの物理研究者が機械学習に興味を持ち,この問いに対する様々な研究が生まれることを切に願う.これからの発展に期待したい.
(2019年11月30日原稿受付)
高次元共形場理論への招待;3次元臨界Ising模型を解く
中山 優
サイエンス社,東京,2019,vi+167p,26×18 cm,本体2,200円(SGCライブラリ-153)[専門~学部向]ISBN 978-4-7819-1460-2
立川裕二(東大カブリIPMU)
臨界現象とそのユニバーサリティは,共形場理論の周りの繰り込み群によって記述されますが,さて詳細を学ぼうと『共形場理論』という題の本1, 2) など手に取りますと,実際は二次元のことしか書いてありません.これは,二次元では共形場理論は解けるけれども,三次元以上では解けないと思われていたからでしょう.二次元では,共形対称性が無限次元に拡大するため,しばしば厳密に解けます.一方,三次元以上では,共形対称性は有限次元だから,理論を決定するほどの強い制限は掛けられず,そのままでは解けない,と長らく思われていました.
そんな中,2008年に登場したのが数値的共形ブートストラップ法です.3)〈ABCD〉という四点相関関数を計算する際に,〈(AB)(CD)〉と計算する場合と〈A(BC)D〉と計算する場合が一致せよという式は複雑な連立方程式系になりますが,上記論文はこの方程式系を不等式系と思うと色々な情報を取り出しうるという画期的な指摘を行いました.その後,この連立不等式系は線形計画法やその拡張である半正定値計画法により効率的に数値的に解けることがわかり,現時点では三次元のイジング模型もO(2)模型も充分な精度で解かれています.4, 5)
今回紹介する本は,このように急発展を遂げた三次元以上の共形場理論と共形ブートストラップ法を基礎から解説しており,この分野に参入したい,もしくは概要を知っておきたい研究者に最適です.また,基礎の解説も深い理解と知識に裏打ちされた明快なもので,若い学生から古参の教員まで手に取って得るものの多い一冊です.さらに,そこここに挟まれた研究の歴史に関する挿話も読んでいて飽きさせず,何より著者を髣髴とさせる文体が読者を誘います.この分野の初期から発展に寄与している中山さんがこの本を書いてくれたというのは有り難いことだと僕は思います.これにより,この魅力的な分野を研究する日本語を解する方が増えることを願います.
さて,このテーマに関しては英語では文献6, 7などレビュー論文はいくつか出ていますが,本になったのは管見ではこれが全世界初です.このような良い本を,日本語を解する読者のみで独占しておくのは,全く勿体無い話です.似たような例として,日本数学会の機関誌「数学」は良質なレビュー論説が載りますが,こちらはアメリカ数学会から英訳が"Sugaku Expositions" として出ています.8)物理に関する良い日本語の文献に関しても,日本物理学会及び関連学会の援助もしくは斡旋で,系統だって英訳する方法があれば素晴らしいと思います.
参考文献
1)P. Di Francesco, P. Mathieu, and D. Sénéchal, Conformal Field Theory (Springer, 1997).
2)江口 徹,菅原祐二,『共形場理論』(岩波書店,2015).
3)R. Rattazzi et al., JHEP 0812, 031 (2008) [arXiv:0807.0004[hep-th]].
4)S. El-Showk et al., Phys. Rev. D 86, 025022 (2012)[arXiv:1203.6064 [hep-th]].
5)S. M. Chester et al., arXiv:1912.03324[hep-th].
6)D. Simmons-Duffin, arXiv:1602.07982[hep-th].
7)D. Poland, S. Rychkov, and A. Vichi, Rev. Mod. Phys. 91, 015002 (2019) [arXiv:1805.04405 [hep-th]].
8) https://www.ams.org/journals/suga/
(2019年12月25日原稿受付)
超伝導
高田康民
朝倉書店,東京,2019,viii+411p,21×15 cm,本体7,600円(朝倉物理学大系22)[大学院・専門向]ISBN 978-4-254-13692-0
酒井志朗(理研)
本書は,同著者による『多体問題』(朝倉物理学体系9, 1999年刊),『多体問題特論』(同15, 2009年刊)に続く固体電子論に関する著作であり,タイトルの通り主題は超伝導である.本書の内容は前巻の前書きにおいて既に予告されており,前二巻のファンにとっては待望の書と言える.また,前著『多体問題』の前書きで著者は,多体問題を扱った数多の名著が既にある中で新著を世に出すからには著者独自の観点・世界観の発露が必要という趣旨のことを述べており,本書でも随所にその意思が感じられる.
超伝導理論に関する書籍として本書を特徴づけるのは,現実の超伝導体の「定量的」な記述を目指して理論が展開されている点である.定量的な理論の出発点は原子核と電子から成る多体系の第一原理ハミルトニアンであり,これに立脚して多電子-多原子核状態を高精度に計算することが求められる.そのためには原子核の種類や位置,フォノンモード,あるいは電子軌道・スピンといった様々な自由度を考慮する必要があるが,本書ではその点が煩雑になり過ぎないよう工夫されながらも丁寧に書かれている.これはかなり根気のいる作業であり,著者の読者への細やかな配慮が感じられる点である.
理論構築における本質的問題は,電子-フォノン相互作用と電子-電子相互作用の取り扱いである.従来型超伝導体と呼ばれる多くの超伝導体では前者がクーパー対形成の主因であるが,定量性を担保するためには後者も精度よく取り入れる必要がある.前二巻ではこれらの相互作用を取り入れるための電子状態計算の理論手法が詳しく解説されてきた.
本書の第一章もこの観点,特に電子-フォノン相互作用の記述という観点から,断熱近似やフォノンの第一原理計算,ポーラロンの物理について詳しい解説がなされている.現実的な多電子-多原子核複合系を扱うには数値計算に頼らざるを得ないが,その計算結果について直感的な理解を得るために,1サイト問題や2サイト問題,1電子系,あるいは断熱極限・反断熱極限といった解析的に議論できる極限的な状況で何が起こるかをまず抑え,その範囲で理解できる振る舞いとそれ以外の振る舞いに分けた丁寧な説明がなされている.
第二章は,超伝導物性や,銅酸化物・鉄系超伝導体といった非従来型も含む様々な超伝導物質について主要な実験結果や理論についての概観を与えたあと,従来型(フォノン媒介)超伝導体の説明に成功したBardeen-Cooper-Schrieffer(BCS)理論について詳しく記述されている.現代の物性物理学における超伝導研究の概観を得たい読者はこの章から読み始めるのも一手であろう.著者の深い洞察に基づいて一つの結果が多角的に解説されているため,既に一通りBCS理論を学んだ読者にとっても有益な章である.
これら二章及び前二巻を踏まえた第三章は,フォノンのダイナミクスを取り入れたエリアシュバーグ理論の解説に始まり,これを超えてより完全な第一原理的(現象論的パラメータを含まない)超伝導理論を構築する試みとその応用例が述べられている.電子相関が弱い従来型超伝導体についてはこの試みは成功しつつあるが,高温超伝導体を含む強相関超伝導体の記述は未解決のまま残されている.前巻刊行後の10年ほどで,2次元物質,トポロジカル物質,あるいは高圧下水素化物などの新たな文脈で,従来型超伝導体の定量的理論の構築は益々重要性を増している.本書は,この理論の汎用・精密化,あるいはこれを超えた強相関超伝導体の理論を研究する大学院生・研究者にとって,大変学ぶところの多い良書である.
(2019年12月31日原稿受付)
スピントロニクス
前川禎通,堤 康雅
日本評論社,東京,2019,iv+154p,21×15 cm,本体3,000円(シリーズ21世紀の物性)[専門・大学院向]ISBN 978-4-535-78825-1
三輪真嗣(東大物性研)
本稿で紹介する『スピントロニクス』(前川禎通,堤 康雅)はスピントロニクスと呼ばれる学問分野を大学院生や企業研究者,そして他分野の研究者が学ぶ際に有用な本です.
電子には電荷とスピンの2自由度があります.スピンの性質がナノの世界で顕著に現れることに着目し,高度なレベルでエレクトロニクスを実現する研究分野をスピントロニクスと呼びます.スピントロニクスの歴史は1980年代にさかのぼります.初期は外部から磁場を印加すると物質の電気抵抗が変化する「磁気抵抗効果」の研究が盛んでした.磁場を使わず電気的に磁極方向を操作する「スピントルク」の研究は2000年頃から始まりました.様々なスピントロニクス現象は新物質創成と新規測定法が結びついて発見されています.私が学部学生だった2004年,スピントロニクスには既に20年程度の歴史がありましたが,今よりもずっとわかった気になる学問でした.強磁性体と非磁性体の積層膜を作製して磁場を印加して電気抵抗が変わりさえすれば「やった,磁気抵抗効果が出た!」と先生に報告して学会発表や論文執筆をしたものです.私たちが使っているパソコンのハード磁気ディスクドライブには同様の磁気抵抗効果が使われているので,スピントロニクスは学生にとってわかりやすく魅力的な研究分野でした.時が過ぎて2020年,スピントロニクスは形を変えながら今も盛んです.しかし,初学者に何を勉強してもらえばよいか判断に悩みます.昔は磁気抵抗効果だけ覚えれば何となく議論に参加できました.今は磁気抵抗効果とスピントルク,そしてスピンホール効果やそれに付随する現象,更にその機構まで理解しないと研究を始められない状況です.学生及び企業研究者,他分野の方にとって参入障壁が高いと感じます.
『スピントロニクス』(前川禎通,堤 康雅)はこのような状況でスピントロニクスを勉強するのに最適な本です.全11章で構成され,各章は磁気抵抗効果,スピン流,スピン流・電流相互変換,スピンダイナミクス(動力学)とよく耳にする現象が概念図や式と共に説明されています.最近の話題である熱とスピンやトポロジカル絶縁体・量子ホール効果に対する理解のための章も用意されています.従って「まずはこの本から勉強を始めてみよう」というべきものです.本書を片手に学生及び企業研究者の初学者,他分野の研究者が,スピントロニクスをよりよく知っている人たちと議論しながら読み進めることにより,物理を深く理解する助けになる有益な本だと思います.スピントロニクスの研究を何年もしているけれど,様々な物理現象をもう一度よく理解しなおすための本としても適しています.今後もスピントロニクス業界においてこのような良書が増えることを期待します.
(2019年12月28日原稿受付)
原子物理学;量子テクノロジーへの基本概念(原著第2版)
D. Budker,D. F. Kimball,D. P. DeMille著,清水康弘訳
共立出版,東京,2019,xviii+482p,22×16 cm,本体8,000円[専門~学部向]ISBN 978-4-320-03608-6
下村浩一郎(KEK物構研)
この書籍はAtomic Physics; An Exploration through Problems and Solutions 2nd. Ed.(2007)の邦訳である.さて原子物理学という分野は,その名前からだけではいささか古めかしい印象を与えがちであるが,これを専門にしていない評者からみても,その発展は著しく,また基礎物理学,凝集系物理学,量子コンピュータあるいは医学応用などの幅広い分野と深いつながりを持っており今後最も発展が期待される分野の一つといってよい.このことは磁気共鳴,トラップ,レーザー冷却,ボーズアインシュタイン凝縮,光周波数コムなど現代まで発展してきた実験技術および理論研究の進展によっている.これらの手法は原理的には学部時代に習得する電磁気学・量子力学の直接的な応用とも捉えることができるが,その内容を自分のものとすることは,いわゆる非専門家にとってはそれほど容易なことでない.
例えば,評者は最近ミュオニウム(正ミュオンと電子の束縛系)の精密分光に多大な興味を持っているが,関連した研究会等に参加した場合,必ずといって話題になるのは,磁気トラップ,電気双極子モーメント,原子におけるパリティの非保存,アナポールモーメント,光格子といった研究テーマであり,恥ずかしながら何遍聞いてもどうも分かった気になれなかった.
これらの概要をまずは初歩的な部分であっても基礎から理解しようとする際,評者の経験からいっても本書は力強い味方になってくれると思われる.本書の構成はユニークであり,取り上げるテーマを問題の形で提示し,その解答として解説を加えている.またテーマの並べ方は非常に斬新であり,例えば,磁気トラップや,原子におけるパリティ非保存といった極めて今日的なテーマがすでに第1章で論じてある.かといってその記述は平明であり,学部4年生からでも自分の興味を持てるテーマにしぼれば,理解することは可能であると思われる.また実験家の書いた本らしく,数値的な議論も充実している.一方,伝統的なテーマである核磁気共鳴,スピン軌道相互作用,超微細相互作用等にも比較的詳細な入門的解説が施されている.ただし評者がこの部分は慣れているせいか,もう少し体系的に書いてくれればすっきりするのではないかと思われる点もあった.このことはたぶんほかのテーマについても,その分野をよく理解している方からは出てきそうな感想である.逆にいえば,本書が入門者にいかに障害なく基本概念を理解させるかに心血を注いでいる結果ともいえよう.このようにいわゆるつまみ食い的な読み方にやさしい本なので,問題にふれることにより,最先端の世界へ最短で導いてくれるまれにない名著だと思う.訳者の御専門は核磁気共鳴とのことであるが,このような良書を日本語で読める機会を多くの分野の研究者に与えてくれたことに感謝したい.
(2020年2月10日原稿受付)
グリフィス素粒子物理学
D. J. Griffiths著,花垣和則,波場直之訳
丸善出版,東京,2019,xx+471p,21×15 cm,本体7,600円[大学院・学部向]ISBN 978-4-621-30392-4
川村嘉春(信州大理)
本書は学部上級生のために書かれたIntroduction to Elementary Particlesの邦訳である.内容も翻訳も的確で,気の利いた注釈(訳者による追加のものを含む)も味わいがあり,本書を通して基本的な概念を素早く身に付けることができると思う.以下では,私が勝手に理想的なテキストを思い描き,それを基に本書を批評する.
対象は学部上級生なので,内容は標準的で教育的なものに限られるだろう.「定性的な説明」と「定量的な計算」,「理論の背景」と「理論の構造」と「理論の検証」をバランスよく盛り込む必要がある.必須事項は,「素粒子に関する性質」と「標準模型」である.性質は運動に関するものと相互作用に関するものに分類され,「相対論的運動学」,「対称性」,「ファインマン則」などが道具立てとなる.性質や道具立てを紹介したのちに標準模型に行きつくという道筋が王道であろう.数式の観点から,もう少し踏み込もう.物理学に登場する数式は"基礎数式"と"派生数式"に分類される.素粒子物理学の場合,基礎数式は作用積分(あるいはディラック方程式などの場の方程式)である.これらは理論の構造の基盤を成すものである.派生数式はフェルミの黄金律を代表格として,崩壊幅,散乱断面積,遷移確率に関する公式を含み,理論の検証において有用になる.これら2種類の数式をうまく配合した内容が望ましい.
グリフィスのテキストに戻ろう.すると,上記のような事柄が要領よくまとめられていることが分かる.素粒子物理学の歴史(1章)で理論の背景が概観され,運動学(2章,3章)や対称性(4章)から始まって標準模型を超える新物理の可能性(11章,12章)まで簡潔な記述がなされている.2章におけるファインマン図を用いた相互作用に関する定性的な説明は分かりやすく効果的である.6章から9章にかけてのトイモデル,電磁気力,強い力,弱い力に関する崩壊幅や散乱断面積の定量的な計算の解説は丁寧で実用的である.7章におけるディラック方程式やマクスウェル方程式,10章のゲージ理論ではそれぞれの理論の構造が端的に提示されている.また,束縛状態(5章)の記述も量子力学の素養のある学生にとって有益である.さらに,参考文献や章末の問題も数多く記載されていて,発展的学習に役立てることができる.
敢えて,注文を付けるとしたら,標準模型に関する記述がやや手薄な点が挙げられる.標準模型が新物理の出発点であるという状況を鑑み,10章の後に,標準模型の作用積分を書き下し,模型の構造を明確に記載する章があってもよいのではと思う.もちろん,本書のように1章の後半と2章で標準模型に定性的に触れ,7章から10章にかけてその特徴を定量的にちりばめるというスタイルの背後には,ヒグス粒子(初版ではさらにトップクォークやタウニュートリノ)が発見される前に書かれたという事情があるのかもしれない.もっと贅沢なことを言うと,訳者の1人である波場氏のまえがきにもあるように「ウィルソン流のくりこみ」,「カイラル対称性の破れ」,「量子異常」に関する解説があればなおよいだろう.ここも好意的に捉えるならば,本書を踏み台とし,より高度な内容の把握を能動的な学習に委ね,それが新物理探索のウォーミングアップになる可能性がある.いずれにせよ,言う(思い描き,批評する)は易く,行う(執筆する)は難し.本書が英語圏で初版から30年以上の長きに亘り広く使われているという事実を十分裏付けるほぼ理想的なテキストであることは確かである.
(2020年3月6日原稿受付)
原理と直感で読み解く量子系の物理;素粒子から宇宙まで(第2版)
B. Povh,M. Rosina著,石川 隆,園田英徳訳
森北出版,東京,2019,xii+221p,22×15 cm,本体4,200円[専門・大学院向]ISBN 978-4-627-15652-4
渡辺 裕(KEK)
本書(原題"Scattering and Structures: Essentials and Analogies in Quantum Physics")は量子物理学の基本原理と類似性から様々な量子系の散乱現象と構造を解き明かしている.そのテーマは邦題の副題にあるように素粒子から原子核,原子,分子,タンパク質,量子気体,量子液体,結晶,金属,そして宇宙へと広範囲に亘る.これらの多種多様な物理現象から本質的な物理の内容を抽出し,不確定性原理,排他原理,質量,結合定数といった共通の基本原理や基本概念に基づいて量子現象の全体のつながりの理解へと読者を促す.数値や公式の詳しい導出には立ち入らず,それらが天下り的に提示されることが随所で見られるが,むしろそれによって詳細にとらわれずにスピード感をもって量子系の物理の全体像を俯瞰することができるように工夫されている.その一方で簡単な計算(本書で言うところの「封筒の裏を使った(back on an envelope)」計算)により各テーマでキーとなる物理量を概算するスタイルが採用されており,異なる量子系の類似性や差異を読者自らが実際に計算することで確認できるのが本書の特徴である.各章末には参考文献のリストがあり,それぞれのテーマでの基本概念や公式の導出に関して詳細を知ることができる.
内容を見てみよう.各章のテーマは独立してどこからでも読み始められるが,さまざまな量子現象を共通の概念や類似性で解き明かすことが本書の特徴であるので,各テーマのつながりを意識してぜひ全体を通して読んでほしい.関連する章をまとめて紹介する.第1~3, 8章では量子系の解析方法としての散乱現象が紹介される.内部励起のない素粒子同士の散乱から始め,構造因子による内部構造の解析へと話が進む.結晶の電子密度分布,核子の構造,パートン模型が相互作用の類似性によって分かりやすく解説されており,専門でなくとも容易に理解できるであろう.冷中性子の結晶による散乱ではフォノンの励起に対応する分散関係が示されたうえで結晶欠陥による局在した集団振動状態が導出される.ここで用いられる定式化は本書を通じて三度現れ,同じ描像でパイ中間子の基底状態と原子核の集団励起が記述されるのが新鮮である.第4, 5, 12章では電磁相互作用および強い相互作用によって作られる量子系として水素原子,多電子原子,ハドロンが解説される.第6, 7, 13章は共有結合とイオン結合,分子間力,核力が説明され,原子間で電子が共有される共有結合との類推で核子間でのパイ中間子の共有として核力が記述されるところが本書ならではである.第9~11, 14, 15章では量子気体から中性子星におよぶ縮退した量子系について解説する.量子気体でのボーズ・アインシュタイン凝縮およびフェルミ縮退について説明した後に,原子間力が寄与する量子液体と量子気体との差異が分かりやすく示される.金属と原子核はそれぞれ電子のフェルミ気体および核子のフェルミ液体とみなしてそれらの性質が説明され,両描像を読者に印象付けている.量子系は宇宙にまで広がり,恒星の大きさや温度を概算することで恒星内での元素合成や恒星の進化が議論される.素粒子スケールのパラメータで宇宙スケールの現象が概算できることに素粒子・原子核と宇宙・天体との密接な関係が理解されるであろう.第16, 17章では異なる量子系で見られる違いの要因となる質量や結合定数の差異を理解するためには標準模型を超えた物理と宇宙論の発展が必要であることが示され,加速器実験や天文観測が素粒子物理学と宇宙の進化論にもたらす今後の展開へと期待を抱かせる.
訳者まえがきに「数少ない原理をもとに広範な現象を理解することに物理学の真骨頂がある」とある.まさにその通りであろう.本書は様々な量子現象に内在する類似性を示すことでその根底にある考え方を浮かび上がらせる良書である.本書を手に取る物理の研究者にとって,自身の専門分野からの類推が広く他の分野の量子現象を理解する上で役に立つとともに,他の分野との類似性が自身の専門分野の理解に新たな発見をもたらすことと思う.物理の大学院生には物理全般の教養を広く身につけるとともに専門分野をよりよく理解するためにも本書をぜひ読んでもらいたい.
(2020年2月28日原稿受付)
高温超伝導の若きサムライたち;日本人研究者の挑戦と奮闘の記録
吉田 博,髙橋 隆編
アグネ技術センター,東京,2019,297p,21×15 cm,本体2,000円[学部・一般向]ISBN 978-4-901496-98-8
永崎 洋(産総研)
もし,あなたが若手研究者で,目の前に,①今までずっと不可能であると思い込んでいたことが,実は可能であることがわかり,②それが「核分裂に匹敵する革命」,あるいは「第2の産業革命が起きることは必至」と称されるほどの社会的インパクトを持ち,さらに,③誰でも参加可能であり,世界最高記録を狙うチャンスがある,というテーマが提示されたとする.あなたはそのテーマにチャレンジするだろうか.
これは仮定の話ではなく,実際に1986年に起こったことである.BednorzとMullerによって報告された銅酸化物高温超伝導体は,当時の固体物理学で広く信じられていたTcの上限が約40-50 K程度であるという理論予想,いわゆる「BCSの壁」をあっさりと突破しただけでなく,マスコミや産業界,さらには一般社会をも巻き込んだ「超伝導フィーバー」を引き起こした.その発見を契機として,世界中で熾烈な研究開発が繰り広げられたが,我が国において主役を演じたのは,当時20代から30代の若手研究者であった.本書『高温超伝導の若きサムライたち―
日本人研究者の挑戦と奮闘の記録』は,高温超伝導発見という未曾有の大事件に遭遇した13名の若手研究者が,その機会をどのようにとらえ,どのように行動し,世界中の研究者を相手に研究開発競争を繰り広げると共に,自身の研究者としてのアイデンティティをどのように確立していったのか,そのプロセスを自身の言葉で綴った貴重な記録である.
本書の執筆者の専門は,物質合成(門脇和夫氏,小池洋二氏,世良正文氏,前野悦輝氏),光電子分光(高橋隆氏,藤森淳氏),光学測定(田島節子氏),ミュオンスピン回転・緩和(西田信彦氏),中性子散乱(社本真一氏,山田和芳氏),理論(氷上忍氏,吉田博氏)と多岐にわたる.カバーする内容も多彩である.レシピもノウハウも全くない状態から独自に90 Kを超える高温超伝導体YBa2Cu3O7を発見した話(門脇氏,氷上氏,日本で初めて窒素温度を超える超伝導体を発見したのは理論家であった),今では高温超伝導研究における代表的な実験手法である角度分解型光電子分光が,実際にその地位を確立するまでの経緯(および,そこに至るまでの先駆者の苦労)(高橋氏),また,ポスト銅酸化物を探索した結果,Sr2RuO4というもう一つの魅力的な超伝導体の発見に至ったエピソード(前野氏),あるいは,BedrorzとMullerの結果を日本で初めて確認した当時の研究室の漫画のような混乱ぶり(実際に漫画になった)(田島氏)等が,当事者の視点から活き活きと記されている.
個々の筆者によって取り上げられたテーマは多様であるが,すべての著者に共通しているのが,オリジナリティへの強いこだわりである.「オリジナリティはどこに?」(門脇氏),「ユニークな研究をしなくては」(小池氏),「自分たちの独自研究」(山田氏),等,多くの筆者がその大切さを強調している.全く新しい研究分野であるから倣う前例もなく,また,競争の激しい分野だから,後追い研究ではすぐに息が切れる.自分の強みを活用して,勝てる戦いを繰り広げることが必須である.筆者たちがどのように戦略を練り,激しい研究開発競争を勝ち抜いたか,本書を読んで探ってほしい.
高温超伝導フィーバーは今から30年以上も前に起こった突発事故とも言える出来事であった.同様のイベントがまた起こる保証もないが,逆に,いつ起こってもおかしくない.若手研究者は是非本書を手に取り,次のフィーバーが起きたときにどのような行動をとるべきか,自分なりにシミュレーションを行っていただきたい.また,現在50代から60代の研究者の方々は,超伝導フィーバーを実際に経験された方も多いであろう.本書をきっかけとして,是非若手研究者にご自身の経験を語り継いでいただければと思う.
(2020年3月11日原稿受付)
宇宙マイクロ波背景放射
小松英一郎
日本評論社,東京,2019,v+404p,22×16 cm,本体4,200円(新天文学ライブラリー第6巻)[専門・大学院向]ISBN 978-4-535-60745-3
樽家篤史(京大基研)
本書は題名が示す通り,宇宙マイクロ波背景放射に焦点をあてた宇宙論の本格的な専門書である.宇宙マイクロ波背景放射とは,全天にわたりほぼ等方的に観測されるマイクロ波のことを指し,そのスペクトルはきわめて高い精度で絶対温度2.725 Kのプランク分布(黒体放射)に一致する.ただし,十万分の1程度の小さな温度非等方性と,さらに1桁以上小さい偏光非等方性があり,特に近年,それら非等方性を詳細に調べる地上および衛星観測によって,宇宙論に数々のブレークスルーがもたらされた.
宇宙マイクロ波背景放射は,1964年に発見されて以降,長きにわたり多くの宇宙論研究者を魅了し続けてきた.宇宙論が実証学的な物理学の一分野として隆盛した背景には,宇宙マイクロ波背景放射の存在が大きい.事実,昨年のノーベル物理学賞は,宇宙マイクロ波背景放射を題材とする先駆的研究によってアメリカ・プリンストン大学のピーブルスが受賞している.また,過去には,発見者のペンジアスとウィルソン,温度非等方性を発見したマザーとスムートらがノーベル物理学賞を受賞している.宇宙マイクロ波背景放射は,いわば宇宙論の花形ともいえる研究対象なのである.
それほどまでに注目される対象でありながら,これまで,宇宙マイクロ波背景放射にフォーカスした専門書は和書,洋書ともにきわめて少なかった.おそらく,長きにわたる研究の末に,内容が膨大かつ多岐にわたるようになり,宇宙マイクロ波背景放射について知ることは,宇宙論そのものを知ることとほぼ同義になったからかもしれない.それでもやはり,宇宙マイクロ波背景放射の理論を,最新の研究成果にも触れながら,包括的かつ深く掘り下げて学ぶことは宇宙論を目指す大学院生や分野外の研究者にとっても重要で,これまでは宇宙論の教科書を片手に,膨大な文献とレビュー論文のいくつかを組み合わせて勉強せざるを得なかった.
本書は,そうした点を解消してくれる画期的な専門書といえる.著者である小松英一郎氏は,宇宙マイクロ波背景放射の統計性に関する理論的研究ですぐれた業績を挙げた,当該分野でトップクラスの専門家である.とりわけ,2001年に打ち上げられた探査機WMAP(Wilkinson Microwave Anisotropy Probe)の理論研究チームの主要メンバーとして活躍し,観測データの宇宙論的解釈をまとめた包括論文の筆頭著者になるなど,多大な成果を挙げてきた.現在はマックス・プランク宇宙物理学研究所の所長として,様々な観測プロジェクトに関わりつつ,観測的宇宙論の業界をリードしている.そうした専門家によって執筆されたのが本書である.何より,和書として出版され,日本語で最新の理論から観測成果まで読み解けることはありがたい.
本書は,全13章からなる本編と,今後の研究の展望をまとめた終章と付録で構成されている.索引も含めて400ページを超える本書は,シリーズの一冊として刊行された新天文学ライブラリーの中でも際立っている.本書は宇宙論のテキストとしての体もなしており,第1~3章では膨張宇宙と宇宙の熱史の説明があり,第8章では相対論的線形摂動論にもとづくゆらぎの方程式が解説されているが,いずれも宇宙マイクロ波背景放射に関連する内容について深く掘り下げて書かれている.第4~7,9~12章は,本書のメインともいうべき,宇宙マイクロ波背景放射の非等方性について記述されている.地球の運動,重力場,光子-バリオン流体が作る音響振動,それに原始重力波により,温度と偏光に非等方性がどう現れ,観測データから得られる統計量から宇宙論的な情報がどう引き出せるのか,について詳しく解説されている.本編最後の第13章では黒体放射からのわずかなずれ,スペクトル歪みの説明があり,天文観測として重要なスニヤエフ-ゼルドヴィッチ効果についても触れられている.また,随所に,宇宙マイクロ波背景放射の研究を巡る様々な歴史ドラマをまとめたコラムがあり,一息ついて読むことができる.
本書の冒頭でも述べられているが,本書の特徴は,数式の導出や厳密性にこだわりすぎず,背後にある物理の本質をなるべく言葉で説明しようとしている点である.そのため,数式の詳しい導出を行うというより,鍵となる数式に対してその物理的意味と理解に重きをおいた解説を行っている.こうした試みがどこまで成功しているかは読者の判断に任せるが,本書が提示する考え方・捉え方が,理解を深めるきっかけにはなるだろう.ただ,基礎となる方程式と導出,宇宙論の基礎事項などは,本書の性格上,厳密かつ体系的にはまとめられていないので,初学者がいきなり本書を取って読み進めていくにはハードルが高いかもしれない.他の宇宙論のテキストと合わせて読み進めるか,何人かで輪講しながら読み進めていくのがよいだろう.難易度の高いトピックもカバーされており,初学者が端から端まで読み通すのはしんどいかもしれないが,逆に専門に近い研究者にとっては,辞書的な使い方もできて重宝しそうだ.
宇宙マイクロ波背景放射は,その発見以来,脈々と研究が続けられているが,原始重力波やスペクトル歪みなど,いまだに新発見の期待が高まる研究分野である.日本でも衛星打ち上げ計画(LiteBIRD)を控え,ますます関心が高まっている.積み重ねられた知見の理解は一筋縄ではないかもしれないが,それらを紐解く手がかりとして,本書は貴重な存在になるだろう.
(2020年3月12日原稿受付)
ブラックホールと時空の方程式:15歳からの一般相対論
小林晋平
森北出版,東京,2018,vii+275p,21×15 cm,本体2,700円[学部・一般向]ISBN 978-4-627-15621-0
尾田欣也(阪大理)
新進気鋭の理論物理学者,小林晋平さんの著書『ブラックホールと時空の方程式:15歳からの一般相対論』の紹介です.本の構成は至ってシンプルで,ブラックホールのシュヴァルツシルト解
を15歳が理解して鑑賞できるようになる,という目的に向かって一直線に進んでいきます.数式を使わない相対論の本,というのはありがちですが,反対に,数式をそのまま理解させる,という意図を持っているのが本書の特徴です.具体的には,三平方の定理,その局所化,極座標の三平方の定理,3次元の三平方の定理,4次元時空の線素,曲がった空間の表し方,アインシュタイン方程式,シュヴァルツシルト解,という8章構成で理解するための数学を準備していきます.さすがに7章のアインシュタイン方程式は一章分で詳説するのは不可能なので一般相対論の物理的なエッセンスだけを概説する形になっており,8章の冒頭で「いきなり言ってしまうと,アインシュタイン方程式の具体的な形はGμν=(8πG/c4)Tμνで与えられます」と表れます.その後,エネルギー運動量保存則に対応して右辺の発散が0になるので,左辺も発散が0になるような幾何学量を持ってくるともっともらしい,という解説を与えています.その後,球対称を仮定してシュヴァルツシルト解の導出まで行います.最後にその物理的な含意――事象の地平面の存在,無限遠のふるまい,地平面の内側の扱い――を鑑賞して終了です.
本書の狙いは成功しているでしょうか? 結論からいうと総体として成功しているといってよいと思います.我が家の16歳と14歳の子供に聞いてみたところ,表紙が15歳向けではない,とまず数式がいっぱい書かれたデザインの表紙にアレルギーを示したのが意外でした.われわれ物理学者は数式には慣れていますが,そのように訓練される前の普通の子供にとっては,見たことのない数式,というのはそれだけで呪文みたいで難しそう...となってしまうようです.きちんと数式を理解し鑑賞できるようになる,というのが本書の本質であるため,このデザインの必然性も分かるのですが.内容はどうでしょうか? 読んでみて,と渡したところ,上の子はパス,下の子は2章までは読みました.さらに下の子にバイト料千円を払って読み通してもらった感想は以下のとおりです:すべての15歳には無理だがこういうのが好きな人にはいいんじゃないか.光の速さに近づくと重くなるとかが式で示せているのが良い.*1微分積分もぱっと見なにいってるか分からなかった式がなんとなく分かるようになった.説明は分かりやすい.ただの数学の本よりブラックホールとかに関連づけてるから分かりやすかった.面白かったコラムは,われわれの空間が3次元空間であることの証拠について,のコラム.
本書のもう一つの特徴は,著者の小林さんの熱い思いが随所に散りばめられているところです.コロナウイルスで自宅待機の子供たちに,という志のもと,「24時間ではしりぬける物理」*2という素晴らしい動画を最近アップロードされたことからも分かるように,若い人に少しでも自分の思いを伝えたい,という情熱が迸っています.読んでいてニヤリとさせられたり,なるほどこういう風に説明するとよいのか,と気づかされたり,さまざまな発見がありました.物理学会員のみなさまにも強くお勧めします.購入しお子さんの目に入るところに置かれてみてはいかがでしょうか.
(2020年3月31日原稿受付)
*1 私個人的にはエネルギーが大きくなるのであって質量は不変量,という方が好きですが.
*2 https://physics24hour.com
Modern Condensed Matter Physics
S. M. Girvin and K. Yang
Cambridge Univ. Press, New York, 2019, xviii+697p, 25×20 cm, $79.99[専門・大学院向]ISBN 978-1-107-13739-4
塩見雄毅(東大院総文)
本書は,英語で書かれた全体で700ページほどある物性物理学の本格的教科書である.学部レベルの物性物理学を学んだ大学院生,あるいは発展した話題に触れたい学部4年生に適した内容になっている.物性物理学の多くの話題を扱っているとはいえソフトマターは対象外で,ハードマターに焦点が当てられている.題名にmodernとついているように,現代的な話題に多く触れられているのが特徴である.例えば,目次を眺めてみると,トポロジカル絶縁体(14章)や分数量子ホール効果(16章),ボーズアインシュタイン凝縮(18章)など,現在の最先端の内容がそれぞれ一つの章として構成されているのが目に付く.一方で,例えば本書の前半の2章と3章では結晶構造や逆格子が解説されるなど,基本的な物性物理学の教科書で最初に習うような内容も並んでいる.著者によれば,1章から9章が基本的な内容であり,10章から20章が発展的な(modernな)内容をカバーしている.
まず本書を読み始めて興味深いと思った点は,前半部の基本的な話題においても,他の本にはないような説明・記述が提示されていることである.例えば,第3章の格子の説明においてはグラフェンの記述があり,第7章のタイトバインディング模型の説明では実際にグラフェンのバンド構造が題材としてあげられている.さらに面白いのは,同じ第7章においてフォトニック結晶が一節として説明されている.初学者にとっては何のことか理解できない可能性も高いが,物性物理学を理解し始めてきた大学院生にとっては,広い視野を身に着けられるであろう.まさに,基本的な事柄の記述においてもmodernな見方がなされており,題名に冠されたmodernという言葉が本書全体を貫くキーワードになっている.
後半の発展的な話題においては,内容は専門的で高度になるが,なるべく平易で簡潔な説明がなされており,初学者でも物理的本質が理解できるように工夫されている.例えば,第20章の9節では,銅酸化物超伝導体がとり上げられ,超伝導状態の性質や未解明事項が図入りで10ページ程度でまとめられている.第18章の磁性の章では,スピン液体の説明からキタエフのトーリックコード,そして量子メモリの話題につながっていく.物性物理学以外のmodernなトピックとの関連にも気が配られている点は,本書に対する著者らの意気込みが感じられる.一方で少し気になったのは,最先端の話題については今後も多くの研究発展があろうが,その場合には記述が古くなるのではなかろうか.例えば,現在も精力的な研究が続いているトポロジカル絶縁体に関する第14章の最後の節はNotes and Further readingとなっており,その中ではこのテーマは現在研究発展中の話題であると記載され,Rev. Mod. Phys.等のいくつかのレビュー誌が列挙されて終わっている.modernな話題というのは時代によって勿論変わり得るものであるから,本書を読む最適なタイミングは今しかないと言えるだろう.
(2020年4月6日原稿受付)
ペロブスカイト物質の科学;万能材料の構造と機能
Richard J. D. Tilley著,陰山 洋訳
化学同人,京都,2018,xi+257p,26×18 cm,本体8,000円[専門~学部向]ISBN 978-4-759-81974-8
桑原英樹(上智大理工)
本書「ペロブスカイト物質の科学」は,"PEROVSKITES: Structure-Property Relationships"の邦訳である.『ペロブスカイト』という用語は,鉱物(CaTiO3, 灰チタン石)に由来し一般組成式ABX3で表される一連の化合物であり,有名なキッテル固体物理学入門の強誘電体の項目でも議論されてはいるが,一般的な理系学生や研究者でも馴染みが薄いのかもしれない.しかし,近年急激に興味を集めている有機・無機ハイブリッド型ペロブスカイト太陽電池で一躍タイムリーな用語として取りざたされ耳にした方も多いかと思う.訳者によって付けられた本書の副題『万能材料の構造と機能』が端的に表しているように,本書はペロブスカイト化合物および関連物質の結晶構造と,万能と表された多彩な機能性の関係を順序だててバランスよく網羅し,初歩から最先端の研究にわたってコンパクトにまとめられている.
前半の1章から4章までが結晶構造についての記述であり,理想的な単純立方晶から出発して,例えば許容因子の低下によって結晶対称性が低下するといった基礎的な事項から,ABX3ペロブスカイトにおけるBX6八面体の回転様式と言った高度な内容まで丁寧に記述されている.銅酸化物高温超伝導体の結晶構造として有名ないわゆる層状ペロブスカイト構造は,モジュール構造すなわち母相のペロブスカイトからなるブロックに他の構造が挟み込まれた構造とみなすことができ,ペロブスカイトブロックの厚さを変えることでRuddlesden-Popper相(An+1BnO3n+1)として知られるホモロガス相と分類される事などがよく整理されて記述されている.結晶構造の章で特徴的なのは,様々な結晶学的な特徴を有する具体的な化合物の例が要領よく表にまとめられている点である.例えば六方晶ペロブスカイトの章では,様々な積層構造を持つ化合物が表にされており,リファレンスとしても有効に活用できる.
後半の5章から9章に,拡散とイオン伝導度,誘電性,磁性,電子伝導,熱・光学特性,の章立てで,ペロブスカイト関連物質の多彩な物性について記述されており,読者はこの後半部分を読むことによって,その豊富な機能性を効率よく知ることができる.コンパクトさと引き換えに省略されたのは,合成技術と触媒に関する項目だけとなっている.各章には通常の原著論文の『参考文献』が示されているのはもちろん,『さらなる理解のため』に,特定のトピックについて,膨大な量の原著論文を上げるのではなく,そのトピックについての全体像を把握するのに的確な総説論文あるいは精選された論文が示されていて,本書の内容からさらに理解を深めたい場合に非常に有用である.また専門外の読者がフォローできるようにと訳者によって付された脚注は,原著の分かりにくい点が補われており,初学者のよい助けとなっている.
以上のように,ペロブスカイト関連物質の多岐にわたる構造と物性について,基本的な事項を過不足無くコンパクトに説明してあるので,興味を持った部分を拾い読みしてもいいし,通読するのにも適している.ペロブスカイト関連物質に限らず,これから様々な物質を扱う研究を始める,あるいは物質科学について広く学びたいと考えている物理・化学系の学部生・大学院生や研究者にぜひおすすめしたい.
(2020年4月17日原稿受付)
マクスウェル方程式から始める電磁気学
小宮山 進,竹川 敦
裳華房,東京,2015,xi+271p,21×15 cm,本体2,700円[専門~学部向]ISBN 978-4-7853-2249-6
多田 司(理研)
本稿は,ちょうど大学1年生向け電磁気学の試験の採点を終えて一息ついた所で執筆している.筆者は研究所勤務であるが,先般来依頼により東京大学教養学部で電磁気学の講義を受け持っている.その講義を行うにあたって参考にさせていただいた一書として会員諸氏に本書をご紹介する次第である.
筆者が受け持っているのは物理学を高校で履修してきていることを前提とした「既習クラス」であるので,学生はガウスの法則やアンペールの法則には既に触れている.そのような場合,大学初年度の電磁気学の講義は,既に知っている現象や法則を高校では禁じ手である微分積分を使って焼き直す,というものになりがちである.また電磁気学には様々な問題とそのエレガントな解法の蓄積があり,そのため従来の教科書や演習書はややもすると多彩な個別の問題を解くことに重点が置かれているように見え,受験をくぐり抜けてきたばかりの大学一年生は,問題をこなす受験勉強の延長で電磁気学に取り組む恐れがある.
そのような大学における電磁気学についての問題意識を持って講義の準備に着手した筆者にとっては,本書の「電磁気学の全体像を首尾一貫した体系として学ぶ」という方針は大いに共鳴できるものであった.筆者の専門分野は素粒子論なので,体系として電磁気学を提示するという考え方は自然であり,実際に分野の先達であるファインマンはその有名な教科書で,マクスウェル方程式を出発点として講義を組み立てている.本書成立にあたっての著者らの問題意識と背景は本誌72巻(2017) 6号に著者らが寄せている「このままで良いのか大学の電磁気学教育」の稿をご参照いただくとして,ここでは教科書としての本書について,筆者の目に止まった特徴を述べてみたい.
まず本書の眼目でもあるタイトル通り「マクスウェル方程式から始める」わけであるが,ファインマンのそれと違って最初に導入されるのは積分形のマクスウェル方程式である.論理の流れから言うとマクスウェルの「微分」方程式が最初に来る方が自然だと筆者には思えるが,なんと言っても積分形のマクスウェル方程式はガウスの法則やアンペールの法則と相性が良い.そのため高校の物理でガウスの法則などに触れている学生には抵抗なく受け入れられるものと思われる.またガウスの法則を知らなくともベクトル場の微分よりは直感的な把握がしやすいことも確かである.本書ではその後にベクトル場の微分と積分について丁寧な説明が行われたあと,ようやくおなじみの微分形のマクスウェル方程式が示される.ここまでで本文250ページのうち68ページが費やされているので非常に丁寧にマクスウェル方程式が導入されていると言える.
一旦マクスウェル方程式が書き下されると,続く6つの章では電場と磁場の時間微分がゼロの場合を扱う,と宣言され,静電場と静磁場の意味が明確にされた上でそれぞれ取り扱われている.特に電場や磁場の例として双極子場が丁寧に説明されており,これが物質中の電磁場の説明にも活かされている.最後の2章がそれぞれインダクタンスを含む変動する電磁場に関する説明と,電磁波の解説に割かれている.特にインダクタンスの定義と磁場のエネルギーについては丁寧に説明されている.教えるにも難しいところで,丁寧な記述が参考になった.
全体を通じて,スカラーポテンシャルやベクトルポテンシャル,ポアソン方程式もその位置づけと重要性がわかりやすく十分に強調されている.ベクトル解析に習熟するための例題,問題が豊富に掲載されており,初学者にも親切である.いわゆる難問奇問は出てこない.
一方電気回路についての記述はなく,インピーダンスと言う用語も電磁波の解説で真空のインピーダンスとして短く触れられているのみである.これは紙幅より半期の講義に充当される分量を勘案しての著者の取捨選択であろう.また本書には相対性理論への言及はない.向学心に燃えるフレッシュマンには試験には出さずとも相対性理論について触れてやりたいと筆者などは思うのであるが,それについてはファインマンの教科書や本誌71巻(2016) 4号の本欄で紹介された米谷・岸根「場と時間空間の物理」を参考にした.電磁気学の学び直しに本書を活用される際はこの点注意が必要である.
電磁気学はベクトル解析のよい導入であり,また相対性理論へも続くテーマである.場の量を扱うという意味では量子力学にもつながっていく,いわば交通の要衝のような重要な科目であると改めて感じている.既に履修している大学院生や研究者でも,体系づけてコンパクトに電磁気学が記述されている本書を手にとることで,学び直しや知識の整理,電磁気の次のステップに進むための準備に役立つとともに,電気や磁石に関わる現象の寄せ集め,ではない電磁気学の意義を感じていただけるのではないかと思う.
(2020年3月10日原稿受付)
印象派物理学入門;日常にひそむ美しい法則
奥村 剛
日本評論社,東京,2020,iii+214p,21×15 cm,本体2,200円[学部・一般向]ISBN 978-4-535-78864-0
坊野慎治(立命館大理工)
本書は,しずくやあわ,切り紙,クモの巣などの身の回りの現象についての最先端の研究を初学者でも,理解できるように解説した入門書である.本書では印象派(印象派とは数学的な詳細をあえて大胆に無視することでシンプルに捉え,本質に迫るスタイルのことである)の精神に則って,ソフトマターの様々な系について初等的な計算によってスケーリング則を導き,その魅力を紹介している.
本書は8章から構成されており,印象派の精神に基づいて,最新の研究例について詳細に触れることなく現象の本質が明快に解説されている.第1章では,切り紙とバブルを例に挙げ,データコラプスやスケーリング則などの印象派物理において重要な概念がわかりやすく説明されている.第2章は印象派物理学とは何か?ということを説明している章である.印象派主義の始まりや臨界現象などの具体的な事例を解説し,物理学における印象主義のスタイルが複雑な現象からスケーリング則を得ることである点について述べられている.その後,ソフトマターにおいて重要な概念である表面張力について第3, 4章で導入し,第5章では滴やバブルの動力学についての最先端の研究を解説している.またもう一つの先端研究として,真珠やクモの巣などの身の回りの物質の丈夫さについて,第6, 7章で紹介されている.
どの章も,高校で学習する程度の数学的知識さえあれば,本文を読み進めることができるように丁寧に書かれている.難しい内容を含む箇所については参考という形で本文とは区別されており,参考を読み飛ばしても全体の理解ができる(ただし参考を読むことでより深い理解の助けになる)ように構成が工夫されている.また表面張力などの重要な物理量についても,基本的なことから丁寧に解説されており,前提知識のない読者への配慮がなされていると感じた.特に本書には多くの「実験をしてみよう」という項目が含まれており,身の回りの物を使って簡単にできる実験が紹介されている.この項目があるため,本書を読みながら現象を直接観察することができ印象派物理学の理解を助ける.実際に私もいくつかの実験を行ってみたが,容易に実験することができ,本書で解説されている物理的な概念を楽しく観察することができた.
最後に第8章は物理学者の世界という章で,現代物理全般の紹介や,著者が印象派物理に惹かれるに至った経緯などが紹介されている.この章単体でも,啓蒙書として十分楽しめるほど充実した内容であり,本書を手にした高校生が研究や研究者についてイメージする助けになるのではないだろうか.本書は特に高校生や学部生がこの新しい印象派物理学の世界に興味を持つきっかけになり,まさに入門書として最適な新著といえるだろう.
(2020年6月15日原稿受付)
熱力学の数理
新井朝雄
日本評論社,東京,2020,x+292p,21×15 cm,本体3,800円[学部向]ISBN 978-4-535-78918-0
加藤岳生(東大物性研)
熱力学は力学などの他の科目と比べて,その論理体系が曖昧である.一度でも大学で熱力学を担当された方ならわかるであろうが,何が出発点(仮定)で何を導いているのかが,よくわからない.数学者・数理物理学者にとってもこの気持ち悪さは共通のものらしい.本書は,多くの数理物理学の著書を記してきた著者が,熱力学の公理論的な再構成を試みたものである.
本書は三部構成になっている.第一部では議論に用いる数学の道具が簡潔に記述されている.関係と順序,テンソルに引き続いて,多様体および多様体上のテンソルが導入される.この部分については,必要十分な説明がコンパクトに纏められており,具体例も豊富にあるためとても読みやすい.著者の面目躍如といった趣である.第二部でいよいよ公理を導入して,数学的に厳密な熱力学の構成が行われる.「断熱的に到達可能であるかどうか」を用いて順序関係を導入し,いくつかの公理を組み合わせることで,熱力学の法則を導く形式となっている.系の状態は多様体の元として表現され,系を記述する状態変数(圧力・温度・体積など)は着目する元の近傍における座標系として解釈される.特に熱力学で不完全微分と呼ばれる量(熱dQや仕事dWなど)をきちんと微分形式の枠組みで定式化し,数学的に明快な形で議論を展開していることが本書の特徴であるといえるだろう.第二部での一般論を受けて,第三部では熱力学で議論される様々な法則や一般的な関係式が導出される.導出される式は幅広く,熱力学の教科書にでてくる関係式は一通りカバーされている.
本書は熱力学の数学的な側面,特に多様体との関係を要領よくまとめた好著である.丁寧にかかれているため,意欲のある学部生なら十分読みこなすことができるであろう.ただし熱力学に関する部分は,やはり予め他の熱力学の教科書を読んでおいたほうがよく理解できるかとは思う.本書のタイトルから,Lieb-Yngvasonの公理論的熱力学を思い浮かべる方も多いであろうが,そのようなものを本書に期待すると肩透かしをくらうことになる.あとがきにあるように,本書では「エントロピーと絶対温度を導出されるべきものとしてではなく,熱現象の生起を司るアプリオリな存在」として導入している.これには賛否があるであろう.個人的には,本書で導入した公理はかなり強いものであり,そこから導かれる結論は至極当然であり,応用上新しい視点を提供するには至っていないと感じる.しかし,本書は熱現象とその背後にある数学の間を行き来するための数学的基盤を提供している点に価値があるのだろう.どこまで公理を弱めることができるか,熱現象の本質はどこにあるか,臨界現象などで生じる熱力学関数の特異点について一般論はどうなっているか,などまだまだ疑問は尽きないので,興味がある方は本書を手にとって考えてみてはいかがだろうか.
(2020年8月23日原稿受付)
相関電子と軌道自由度
石原純夫
共立出版,東京,2020,ix+178p,21×15 cm,本体2,000円(基本法則から読み解く物理学最前線22)[大学院向]ISBN 978-4-320-03542-3
望月維人(早大先進理工)
日本物理学会の領域8「強相関電子系」は今でも大きな領域だが,私が大学院に進学した23年前は,今よりももっと講演数も多く,さらに巨大な領域であったように思う.1986年にベドノルツとミューラーが銅酸化物超伝導体の発見を報告してからすでに10年以上の歳月が経過していたにもかかわらず,それにより口火が切られた「強相関電子系研究」の火は,鎮まるどころか爆発的に燃え広がり,「銅」以外の様々な遷移金属の化合物にその研究対象が広げられていった.その過程で発展を遂げた「電子相関の物理学」の最も重要な方向性の1つは,まぎれもなく本書の主題である「軌道自由度の物理」であり,著者はこの分野を先頭に立って切り拓いてきたパイオニアの一人である.
電子には「電荷」と「スピン」の自由度に加え,原子核周りの分布形状の自由度である「軌道自由度」がある.本書で生き生きと語られるように,この軌道自由度は,結晶を構成する原子間の電子の飛び移りを支配したり,スピン間や電荷間に働く相互作用を支配したり,相対論的効果を通じてスピンの向きと結びついたり,結晶格子と結びついたりすることで,系の物性を決める重要な役割を果たす.銅酸化物超伝導体では,その価電子数のために銅イオンの軌道自由度は不活性であり,その結果,単純なハバード模型やt-J模型などの軌道自由度を考えないモデルでその物性が比較的よく記述できた.しかし,その後の研究対象となったTi(チタン),V(バナジウム),Mn(マンガン),Fe(鉄)やRu(ルテニウム)などの遷移金属イオンを含む化合物では,軌道自由度が活性であり,それが上述の効果を通じて多彩で劇的な物性現象と物質機能を引き起こしている.特にMn酸化物における「巨大磁気抵抗効果」や「磁気強誘電性(マルチフェロイックス)」,Ru酸化物における「多軌道型超伝導」,そして多くの遷移金属化合物が示す磁気・軌道・電荷秩序とそれに絡む相転移や応答現象,輸送現象,非平衡ダイナミクスはその典型例であろう.
本書は,そのような「強相関電子系における軌道の物理学」に関する大学院生および研究者向けの入門書である.基礎から説き起こしながらも,最新のトピックスも盛り込まれており,すぐにでも研究に活かすことのできる現代的な視点と実戦的な一面を備えた良書と言える.第1章では「軌道物理学」の面白さが著者の視点から熱っぽく語られ,歴史的な背景についての紹介がある.第2章では相関電子系における軌道自由度の基礎的な事柄が簡潔かつ十分な形にまとめられている.第3章ではヤーン-テラー効果と呼ばれる軌道自由度と結晶格子とのカップリングについて述べられている.第4章ではそれらを踏まえ,「軌道自由度の擬スピン表示」や「軌道間の交換相互作用」といった理論的な取り扱いについて解説し,縮退ハバード模型や二重交換模型,Kugel-Khomskii模型といった強相関電子系における軌道と多自由度の相関を記述する理論モデルについて詳しく解説している.第5章,第6章,第7章では,これらの理論モデルを用いて「軌道秩序」や「軌道励起」といった具体的な現象を,それらを観測する実験手法や実験データと併せて詳しく議論している.本書で紹介されている研究例や実験データは,著者自身のこれまでの研究内容に多分に寄っているが,「軌道自由度」を取り扱うための普遍的で汎用性の高い理論的枠組みをしっかりと解説した後に,その理解を助ける例として挙げられたものであり,「偏り」と言うには当たらないだろう.むしろ俯瞰的かつ大局的な見地から書かれ,重要なことが漏れなく盛り込まれたバランスの良い入門書と言える.
ところで最近は,「軌道秩序」や「ヤーン-テラー効果」,「金森-Goodenough則」,「Kugel-Khomskii模型」といった,本書で取り扱われている「軌道物理学」の用語を学会でもセミナーでも聞くことが少なくなった.今の流行は,「トポロジカル」,「キタエフ・マヨラナ」,「スキルミオン」,「フロケ」などであろうか(個人の感想です).これらの分野の理論研究では,現象論的なアプローチに加え,例えばSu-Schrieffer-Heeger(SSH)模型やKitaev模型,DM相互作用を含む古典ハイゼンベルク模型などの典型的な理論モデルが頻繁に用いられ,パラメータを変えたり,外場を印加したり,状況を変えたり,もっと言えば計算手法を変えるだけで,面白い結果が次々に出てくる.理論研究者は,先達が作り上げ,有効性を示したこれらのモデルの解析に夢中で取り組んでいる.この状況は,銅酸化物超伝導体の発見後に,理論家がこぞってハバード模型やt-J模型の研究に取り組んだ頃のそれと似ているのかもしれない.しかし,ハバード模型やt-J模型が銅酸化物の電子構造に対する真摯な洞察から,その有効性が示されたり,導出されたりしてきたのと同様に,SSH模型やKitaev模型の有効性も,物質の微視的な電子構造,特に軌道自由度の考察から示されたものである.銅酸化物の研究がその後,軌道自由度を持つ他の強相関物質が示す多彩な物性の研究に拡大・深化していったように,上に挙げた発展途上の研究分野も今後,物質が持つ個性的な電子構造に,より注意を払いながら豊かな物性現象や物質機能を探索・開拓する方向に発展していくことは疑いない.そのような時に研究者は,物質の中の電荷,スピン,軌道,格子の絡み合いに深く思慮を巡らせ,物質の個性を反映した理論モデルを自ら構築して分野を切り拓いていくことが求められる.その際に武器となる「知恵」と「知識」,「素養」を本書は授けてくれる.「軌道物理学の新しい展開」と題された第8章で語られるトピックスは,このような方法で分野を切り拓いてきた著者の生々しい体験談であり,多くの研究者や学生にとって素晴らしいお手本となる.私自身何度でも読み返したいし,同僚や学生にも薦めたい一冊である.
本稿の校正後に著者である石原純夫先生の訃報に接しました。常に分野を牽引し、若手を導いてくださった先生の早すぎるご逝去に悲しみがたえません。心よりご冥福をお祈り申し上げます。
(2020年10月19日原稿受付)