2021年度のノーベル物理学賞は、複雑系物理学分野における画期的な貢献に対して、「地球気候を物理的にモデル化し、変動を定量化して地球温暖化の高信頼予測を可能にした業績」により真鍋淑郎 氏(プリンストン大学、米)、Klaus Hasselmann 氏(マックスプランク研究所、独)、「原子スケールから天体スケールまでの物理系における無秩序と揺らぎの関連の発見」によりGiorgio Parisi 氏(ローマ・ラ・サピエンツァ大学、伊)の3氏が受賞することとなった。
Parisi氏は、統計力学を始め理論物理学に様々な業績を持つが、磁性体内におけるスピンの向きが乱れたままに凍結する、スピングラスという現象に対して、独自の解析手法とその結果を与えたことが有名な業績の1つである。今回のノーベル物理学賞の受賞理由につながる大きな成果である。
物質は原子や分子の集まりであり、微視的なスケールでは絶えず変化をしつつも、巨視的には変化のない平衡状態に向かう。この微視的に起こっていることを起点に、巨視的な現象を理解するために、統計力学という手法が発展した。堅苦しい表現を避ければ、お隣さん同士のルールを決めたら、それが全体にどのような形で広がっていくのか、そして落ち着くのか。それを予言することができるのだ。子供の頃から不思議な魅力に取り憑かれた磁石にしてもそうだ。磁石の中には小さなスピンという自由度がある。単純化して上向きと下向きのみを取るとしよう。いわゆる磁石の内部では、隣同士は同じ向きを取る性質がある。それが全体に及び、整然とした磁石として、強い磁力を外部に及ぼすようになる。しかし実際には物質は、圧力や温度など様々な外的要因を持つ環境に晒される。磁石の場合は、温度がその様相に影響を与える。温度が高いと自由を求めお隣さん同士のルールを無視するようになり、同じ向きを取るとは限らなくなる。スピンはバラバラとなり磁石は強い磁力を持たないようになる。統計力学はそうした秩序を持たせる微視的な事情としてのエネルギーと巨視的な無秩序をもたらすエントロピーの競合を描き出す学問であった。
それではお隣同士で異なるルールを持つ場合はどうなるであろうか。同じ向きを取らなければいけないというルールと、逆向きを取らなければならないというルールが混在するとどうなるだろうか。所によってはどちらを向いたら良いかわからなくなるスピンもいるだろう。実際にこのような描像は、不純物の効果により磁石において生じることであり、決して不自然なことではない。この状況にはフラストレーションという名前が当てられている。この状況は物理学を超えて、広く存在する概念である。あちらを立てればこちらが立たず、どの向きを向いたらわからないスピンは、異なる指示が飛び交う組織に翻弄される人の悲哀のようである。前に出ようとすれば邪魔をするものがいることにより、なかなか抜け出すことができない。2020年初頭から世界を蝕むパンデミック、この未曾有の状況の中で、なかなか新しい働き方や生き方に振り切ることが許されない人々の声がしてくる。
そうしたなんとなしに馴染みのある概念を原子と分子のミクロなスケールにおいて導入する。当然のようにスピンはどの向きを向いたら良いかわからない。バラバラの向きを取ることになるだろう。しかしそれは異なる秩序の競合である。同じ向きになろうとする働きと異なる向きで揃う働きの争いである。どんな状態が実現するのか、それを明らかにすることが統計力学の問題となる。SherringtonとKirkpatrickらの平均場理論による予言によれば、確かに様々な向きを取ることで空間的には乱れた一見無秩序な状態が実現する。しかしそれはバラバラの向きのまま凍結した状態であり、スピングラスと呼ばれる、時間的に「秩序を持った」状態である。固まったままであるから、何か安定した状態に行き着いたと考えるのだ。ただし理論的にはエントロピーが満たすべき性質が破綻するなど、完全に満足のいく結果ではなかった。
その理論的な不備を取り除くべく、様々なアイデアが試されることとなった。ひとたびスピンの向きを物理的な描像から離れて、記号的または異なる数字を埋めるパズルの問題であると考えれば、スピングラスの基底状態を探索する問題は組合せ最適化問題に対応する。スピングラスに起こる微視的な確率的ダイナミクスを模した数値シミュレーション手法からシミュレーテッドアニーリングが提案され、今日でも組合せ最適化問題を解く手法として利用されている。
スピングラスのさらなる理解のために、理論的なチャレンジが進む中、Parisi氏は新しい概念を導入した。スピングラスをはじめとする不純物の効果を調べるために、登場した解析手法にレプリカ法がある。仮想的に同じ物理系を用意した上で解析を進める。スピングラスのように秩序を持って固まるのであれば、同じように用意した物理系においても同様に固まるはずである。空間的には乱れたパターンに見えるスピンの向きは、仮想的に並べて見たときに、同じパターンが並び、それがスピングラスの時間的に凍結した状態を表すものであると考えられた。Parisi氏は、その仮想的な物理系の間に並ぶパターンは同一のものではなく、様々なパターンが混在すると考えた。しかもそのパターンを系統的に崩していくことにより、無数のパターンが出現することを予言した。これがレプリカ対称性の破れである。これらのパターンのいずれかが実際の物理系では出現する。異なるパターンへの遷移は稀であり、新しいタイプの秩序構造を描いた。
このスピングラスに対するレプリカ対称性の破れによる記述は、新しいタイプの物質の平衡状態の記述に留まらない。生物学や構造ガラスへの展開を始め、先述した組合せ最適化問題との対応関係により、これらの問題を解く難しさの表れとして、無数の答えが存在して効率的な探索を阻害していることが明らかとなった。今日では理論物理学の興味の対象のみならず、実験で得られたデータ解析に用いられるようになった機械学習においても、ニューラルネットワークとスピングラスの対応関係から、無数のパターンを識別することができる背景には、スピングラスにおけるレプリカ対称性の破れが深く関わっていることが明らかとなった。この描像は現代的な深層学習の秘めた性能を理解する上でも通用し、現在進行形の研究が続いている。スピンの向きをデジタルデータの0と1に対応させれば多くの情報科学の問題設定をスピングラスの統計力学の問題に帰着させることができる。様々な方式の通信や暗号、情報の符号化に至るまで、デジタルコンピュータのみならず近年の量子コンピュータにおいても、多くの例でその対応関係は成立する。こうした発展を受けて、スピングラスの理解は、物質を理解する物理学上の発展を超えて、現代社会を支える様々な技術で操作される複雑で大きなデジタルデータすらも、あたかも物質に潜む原子や分子と同様に扱うことで、その適用範囲が広がっているのだ。
Parisi氏の貢献は、こうした様々な現象に対する理解を与え、自然科学を超えた広範な分野に対して強い影響を与えた。すなわちスピングラスを例に、複雑な現象の中にある秩序を抜き出すことで、物質のみならず広く人類の営みに共通した普遍的な理解を与えたことにある。学問的な発展も見逃せない。Parisi氏の貢献を始め、関連研究者の営みにより、統計力学は複雑な対象に対してのアプローチ法として昇華した。情報科学や生物学、機械学習など、様々な分野と物理学の融合を促し、今も新たな展開を見せ続けている。決して物理学上での貢献に留まらない点も特筆したいところである。
個人的に共に過ごした日々を思い、改めて賛辞を送りたい。Congratulazioni! Giorgio!
大関 真之(東北大学/東京工業大学)