21世紀の科学へ
1. ウィキペディアの実験
ウィキペディアはウエブ上の百科事典で、自由に誰でも編集に参加できる。学生たちが書く解説文は、時として、私よりよくできている。で、私もウィキを使っ てみようとした。しかし、文章は刻々誰かによって書き換えられるから信憑性が危うくなる。ある段階で書き込み制限ができればいいのだが、それは、そもそも ウィキの精神に反する。ところが、「科学分野の内容を調査した結果、ウィキペディアとブリタニカの誤りの程度は同程度であった」という記事がネイチャー誌 に掲載された。*1 ウィキペディアの信憑性の実験が研究テーマになっているのである。多様な人材の共同作業で進化する知の集積は、思いのほか信憑性が高いのだ。そこでは誰が 専門家かは問題ではない、正しいかどうかで判断する。新しい知的情報集積システム、グーグル戦略が急速に広がりつつあるのである。*2
2. 知的生産様式(モード1と2)
人々の経験と知恵を集めて体系化・論理化し法則を見つけ出す、これが科学という営みの出発点だった。時を経るにつれ、科学は専門化し職業として確立した。科学が役立つと認知されたからでもある。
科学は、研究者による自発的研究で支えられてきた。学会の最も大切な活動は、学会員が研究成果を発表し、それに対して批判を受け淘汰されて、自ずと普遍的 な真実が残るような場と機会を保障することである。そこでは、国籍も年齢も職場の上下関係にも性別にも左右されないで、真理を追究するという共通目標だけ で支えられた学会員がいる。このような知的生産様式をギボンズはモード1と定義した。*3 それに対して、社会的要請から出発し問題解決を目的とした知的生産様式をモード2という。特に近年、人類は地球環境・都市・医療問題など、資源・エネル ギー・災害・安全にかかわる課題を抱えている。基礎科学がかなり絞られた研究対象なのに対し、後者は領域横断的で、大学・産業界・市民社会・行政官庁も連 携して活動を展開する。
わが国の科学技術政策は、1995年に大きな転換期を迎え、モード1から、モード2へ重点を移した。これに呼応して策定されたのが1998年に始まったポ スドク1万人計画だった。当然大学院教育もモード2を射程にしていた。しかし、養成側も雇用側も、モード2に対応したシステム作りが整わず、受容・供給間 にミスマッチが生じた。
3. 物理学会の任務
物理学会は、湯川・朝永たち先人の伝統を受け継ぐ、国際的にも評価が高い学会である。独自の欧文ジャーナルも発行し、ピュアレビューによる評価が徹底して いる。このモード1が主流の物理学会も、基礎科学の担い手としての伝統を活かしつつ、時代の新しい要請に応えられる「社会に開かれた学会」としての取り組 みも必要ではないだろうか。 今、 「科学は無力である」という風潮が広まりつつあるが、われわれ物理学者にも責任の一端がありはしないだろうか?
化学会からは学会編の自主教科書や一般向きの環境問題の解説書もでている。むろん、物理学会も、学会員に支えられて教育普及に取り組んできた蓄積はある。 幸い、2005年世界物理年、物理学会年次大会でジュニアセッションを開設し、物理チャレンジも恒例行事となった。若い人にキャリア多様化を促すだけでな く、自らも変革していく姿勢と、価値観の転換が学会員に求められているのではなかろうか。それは、物理学の枠を超えた領域への飛躍の契機となろう。
4. 学会と学術会議との連携
むろん物理学会は、科学の発展の担い手であり、将来計画を物理学者の総意を積み上げ、その意見を発信することも大切である。再生学術会議が現場の科学者と のチャンネルが間接的になった今、学会と学術会議の間隙を埋める役割も果たすべきである。応用物理学会や学術会議と連携して、科学者側からの世論を発信 し、研究費配分問題や理科教育、物理将来計画などについて「情報発信する学会」でありたい。
5. 求心型社会から遠心型へ
社会が成熟すれば、専門家から非専門家へという命令型から、市民の知恵を集約し、そのパワーが歴史を形成するようになろう。21世紀は、市民を主体とする NPOが力を蓄え、技術専門家からの情報発信とともに、市民の膨大な情報が、逆に科学技術の理論構成のなかに有機的に組み込まれ、科学技術の発展や変革を 促すための芽となろう。この際、ウィキペディアに示された新しい知の集積は貴重ではある。しかし、必ずしも多数決やグーグル基準での結論が正しいとは限ら ない。逆にこの時代には集約された知から本物をよりわける知性、それに応えうる科学技術リテラシィを育むことが学会の使命ではなかろうか。
(2006年10月31日原稿受付)
*1 そういえば、 私の手作り教科書で、「原子核」 を手が滑って「原子悪核」となっていたら、定期試験の説明問題で、原子悪核という単語が頻出して慌てたことがあった。「教科書でも間違いはある。おかしいと思ったら必ず質問すること」と注意したなんてこともあった。
*2 梅田望夫「ウエブ進化論」ちくま新書:グーグルは、これで、「ウエブ上の民主主義」を導入したと言っているという。
*3 M。 ギボンズの定義:(The new production of technology); 日本語版 『現代社会と知の創造-モード論とは何か』 マイケル・ギボンズ編著、小林信一監訳(丸善ライブラリー) 1997。
- 坂東 昌子
- BANDO Masako
- 愛知大法学部教授
- (第62期 会長任期:2006年9月1日より1年間)